夏は眩暈
夜賀千速
1
八月の空はいつでも、苦しいほどに眩しくて綺麗だ。
揺れる木漏れ日は気怠く、蝉の音は絶えず五月蠅い。風の気まぐれに流される雲が、形を変えながら泳いでいた。さっきまで魚のようだった白い雲は、いつの間にかはらりと解けてしまっている。恥ずかしいほどの晴天も、肥大していく積乱雲も、その全てがあまりに刹那的で、見つめる度に胸が灼けるのを感じた。
高校二年生の夏だった。辛かった。いつかはそう、過去形になってしまうのだろうか。ひと夏の追憶として、胸の内にひっそりと残っていくのだろうか。
期限付きの夏を生きている。人生で十六回目の、夏を確かに生きている。この夏も、いつかはあの夏と呼ばれるようになるのだろう。信号が、青へと変わった。人混みの交差点を歩いた。思わず目を背けてしまいそうなほど短いスカートの女子高生が、颯爽と駅へ走っていった。
空に溶けていく街の熱気、交差点の向こうの蜃気楼、蒸せるような日焼け止めの匂い。忘れたくない、と心が言った。この騒めきも切なさも、決して永遠ではない。分かっている。
八月には魔法がかかっている、と思う。冬に想う眩さの、光の、波音の、絵に描いたような鮮やかな、夏。今生きている夏は、絵画のように鮮明ではないのかもしれない。一度切り取ってしまえばずっと綺麗なままの写真のようでも、フィルターで何度も加工された拾い画のようでもない。だけどどうしてだか、美しいと思ってしまうのだ。
苦しさも痛みもひっくるめて全部、私は夏という季節が好きだった。私は知っている、昨日の日の入道雲が綺麗だったこと。だけどその後には夕立が降ったこと。そして全部が洗い流されて、その中では泣いたって誰にも見えないこと。
風の吹き抜ける、大きな橋を渡る。きらきらと流れる水は留まるところを知らず、川となって海へと移ろっていた。水はあまりに透明で、川底の石までが細やかに見えた。橋の上を歩いているうちは、茹るような暑さがほんの少しだけゆるやかに感じられた。前を向くと、橋の向こうには大きな公園があった。少し休憩をしようと、緑に囲まれた方へと歩みを進める。
自動販売機で百六十円のサイダーを買って、首筋にそのペットボトルをあてる。ひやりとしたその感覚に、身体中の細胞が震えたような気がした。真っ白なキャップを勢いよく捻ると、涼し気な音が辺りに響き渡る。炭酸越しに見る緑の芝生には、四、五人の小学生が駆け回っていた。その風景を眺めて、どこか、色褪せた記憶のようだと思った。昔見た映画みたいで、とっくに忘れた夢のなかのようだった。喉は炭酸で、僅かに痛んだ。
そんな追憶を弄びながら、もう少し進んで木漏れ日の降るベンチに座る。いつのものなのかも分からない虫刺され痕をかきながら、もう半分ほどになってしまっていたサイダーの残りを飲み干した。眩しさで上手く見えない液晶を操作して、夏の終わりに聴くような曲をかける。私は本当に夏が終わる時、悲しくてやりきれなくなってしまうから、あらかじめ夏の切なさに慣れておくようにしているのだ。感傷に浸るという行為を、自傷的に好いていた。イヤホンから流れる繊細なピアノは相変わらず美しくて、甘美なボーカルは奇跡を歌っていた。そういえば、この曲も槙野に教えてもらったな、なんて。ふいにそんなことを思い出していた。
私が夏を好きなのは、槙野の生まれた季節だったからだ。
夏は、槙野の大好きな季節だった。槙野の好きだと言った曲のMVにも、入道雲とサイダーが映っていた。槙野瑞希は、私にとって夏の季語だった。
槙野は夏生まれがよく似合っていた。向日葵のような、照りつける日差しのような、そんな輝きを絶えず放っていた。八月の空みたいな、全部を吹き飛ばしてくれるような、目まぐるしい風と温度を持っていた。その透き通る瞳に見つめられるだけで、不確かなものも確かになった。槙野はいつだって、私を暗がりから太陽のもとに連れて行ってくれた。
私は夏に、槙野に恋をしていた。
槙野は優しかった。心の深さのままに、言葉を素直に伝えてくれた。たとえそれが気恥ずかしい台詞だったとしても、思ったそのままの言葉を気兼ねなく相手に届けられるような人だった。
槙野のことを好きな人は、きっと沢山いるのだと思う。槙野の言葉に、槙野の笑顔に光をもらった人は沢山いるのだ、きっと。
言葉足らずの私は、槙野の言葉に救われていい存在ではなかった。
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