第10話 晴れた日に返すもの

朝の〈エトワール〉は、ひかりの機嫌がいい。雲一つない。ガラスを拭く前から、潮の匂いが軽い。入口の上の丸い壁時計が、きっちり7:55を指していた——はずなのに、星野店長がシャッターを上げて戻ってきた顔は、ちょっと困ってる。


「澪、開店の曲が5分遅れた。時計、ずれてる?」


脚立にのって時計を外し、カウンターに置く。秒針のチッ、チッが、いつもよりためらって聞こえる。私はポケットからスマホを出して、メトロノーム60bpmを鳴らした。

——1分に60回。それに合わせて秒針を見ると、毎分、12の位置で半拍ぶん“つまづく”。


「一分につき約0.5秒ロス……10時間で300秒=5分。開店の頃にちょうど5分遅れになる」


「原因は?」


私は時計のプラカバーを外し、12の真上の内側を指でなぞった。ざらっとした感触。極薄い塩の輪。夜の間に入口の隙間から入った潮霧が、カバー内側にリング状に残っていたらしい。湿度が高いとねばつき、秒針が12時付近を通るたび**“ペタ”とわずかに吸われて止まる**。

さらに本体の金属板が夜の冷えでほんの少し反って、秒針先端がカバーに近づく——条件が重なると、毎分0.5秒の小さな遅れになる。


「潮+温度差+構造の癖、か」


背中から声。藤田朔だ。今日は首からモノクロじゃなく、普通のフィルム。目の下のクマは薄い。私はうなずいて、可視化の準備をする。


小さな実験:どこで“つまづく”?

• 時計を縦→横に倒して秒針の遅れを比較

• 横置きだと遅れが消える=重力方向と反りが関係

• カバー内側の12時位置に薄紙を軽く貼る→粘りが増え、さらに遅れる

• 逆にカバーを外す→遅れゼロ。

結論:内側の塩膜+カバーの近さが主犯。


「やることは三つだね」


私は手順カードを走り書きする。善意を隠さない手続き。


———

《開店前:壁時計の“5分遅れ”対策》

① カバー内側を真水→アルコール→真水で拭く(塩膜除去)

② スペーサー(薄いフェルトリング)で針先とカバーの隙間を0.5mm確保

③ 時計の位置を30cm上へ移動(入口の直風と潮霧ラインから外す)

※毎週月曜にメトロノーム60bpmで1分チェック

———


星野さんが「ラミネートしよ」と笑う。私は内側を丁寧に拭き、フェルトリングをはめ、位置を上げた。再びメトロノーム。

**チッ、チッ、チッ——**ずれない。胸の奥が、ふっと整う。


「物理、勝利」


朔が小さく拍手した。私は笑い返し、時計を壁に戻す。5分の遅れは、5分の余裕に化けたみたいに感じる。



午前中は穏やかに回った。ベルの真鍮が光り、氷の音がカランと落ちる。11時すぎ、二階から三田村香織さんが降りてきた。


「時計、直ったのね」

「潮+温度差+構造の癖でした。可視化と手当てで解決です」


香織さんは満足そうに微笑み、私と朔を交互に見た。


「約束は、時間と言葉の道具。どちらもずれることがある。直すと決めて、手順を持つと、怖くない。……ね?」


「はい」


私の返事は、少しだけ震えた。香織さんは薄い笑みを残し、所長室へ戻っていく。言葉の宿題を置いて。



午後。客足が落ち着くころ、朔が紙を一枚、テーブルに置いた。

《解約書》。

昨日見たのと同じ、でも——上に付せんが貼られている。


《**『また会ってくれる?』**に言い換えてから、話したい》


私は息を呑んで、うなずいた。


「また会ってくれる?」


先に言う。朔の肩がすこしだけ落ちて、目の濃さが増える。


「また会ってください。

“撮影協力”を解約して、“お付き合い”に移行したい。

でも店では、これまで通り公共のルールを守る。同意の見える化も続ける。……逃げ道は、残したい」


「賛成。解約=ゼロじゃなくて、次の形に“移す”。うちの店、そういうの得意だから」


私はレシートを引き寄せ、小さな合図メモを書いた。


———

《合図メモ:撮影協力→お付き合い》

・店内:これまでのルール継続(公共性/顔NG/30秒握手は位置合わせのみ)

・店外:“朝パン”と“雨宿りプリン”の権利は常時有効

・週一で**「また会ってくれる?」**を言い合う(見直し=思いやり)

———


朔が読んで、笑った。「思いやりで見直す。いい言葉」


早瀬伶がカウンターの影から顔を出す。「甘度+∞。おめでとう」

どこから見てたの。私は笑って、本日の三十分の準備をする。



照明を一段落として、位置合わせ握手(30秒以内)。今日は時計がテーマ。壁の丸い文字盤の前で、秒針と手首の脈を一緒に撮る。朔はカメラの向こうで、短く息を整えた。


「時間が直ったみたいに、言葉も直したい」


「じゃ、本番。また会ってくれる?」


同じ言葉を、二回。合図の拍が合う。

カシャ。

巻き上げの音は均一。さっきのメトロノームみたいに、迷いがない。


「モデル料、使う?」


朔がいつもの調子で言う。私は少しだけ首を振って、笑った。


「今日から“モデル料”はやめ。

“デートの行き先”は、交互に指名で」


「最高」


今日も最高は二回。でも、名前が変わった。**“モデル料”から“デート”**へ。言葉が変わると、濃さも変わる。


「じゃ、私の指名。——朝パン。晴れた日に返すって、ずっと言ってたから」


「返されたい」


朔が、照れない笑い方を覚えた顔で言う。私の胸に、5分の余裕みたいな温かさが広がる。



閉店。

星野店長が食パンを一斤、明日の仕込み場からそっと持ってきた。


「明日の朝、一番焼き。二人で取りにおいで。カメラは置いてってもいいし、持ってきてもいい」


「公共性、守ります」と朔。店長は「わかってる」と笑って親指を立てた。


二階から降りてきた涼介さんが、入口の時計を見上げる。


「5分、戻ってるな。正確な恋ってやつだ」


言い方。全員が笑って、店は静かな夜の顔に戻る。



片付けのあと、私は“匿名相談”を開く。二件、光っている。


《“解約”が怖い。どう言い換えれば前に進めますか》

《彼氏になりたいと伝えるのに、何が必要ですか》


私は、一つの返事にまとめて送った。


「“解約”はゼロに戻る合図じゃなくて、“次の形に移す”合図にできます。

『また会ってくれる?』と週一で言い合う見直しは、思いやりの手順。

店では公共のルール、外では二人のルール。

手続きは、優しさの逃げ道です。」


既読。ハートがいくつも灯る。


外に出る。潮の線は、晴れの日だけの白い縁取りになって、アスファルトの端で光っていた。看板の青が、夜に薄く溶ける。壁の時計は、きちんと時を刻む。


潮は、嘘をつかない。

時間も、たぶん。

言葉はときどきずれるけど、直す手順があれば、怖くない。


明日の朝。朝パンを受け取る手を、恋人の手って呼ぶ。

——また会ってくれる?

——また会ってください。

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【全10話】放課後エトワール—三十分だけの撮影協力 湊 マチ @minatomachi

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