第10話
足元の感触が、石造りの床から、やわらかな草の匂いへと変わった。
雨南は瞬きした。そこは緑の平原だった。草は陽光を浴びて金の縁をまとい、風が吹くたびに小さな波のようにうねる。空は、驚くほど澄んだ蒼。けれど太陽は見えず、代わりに、昼間なのに白く輝く月が空の真ん中に浮かんでいる。
ふと、頭上を赤い何かが横切った。
風船だった。
だが、それは紐で繋がれていない。空中にただ浮かび、微かに震えながら、こちらを見下ろしているように思えた。雨南は一歩近づき、そこで気づいた──その赤い風船の中には、景色とは異なる色彩の「映像」がゆらめいていた。笑顔の知らない誰か、海辺の家、見たことのない夜空。それはまるで、誰かの記憶を封じ込めた透明な器のようだった。
遠くで音がする。
カタン、カタン、と規則的な音。
振り向くと、平原を横切る一本の線路があった。錆びてはいないが、使い込まれた風合いがある。線路はまっすぐ海へ向かい、そのまま水平線の向こうに消えていく。しばらくして、小さな汽車が姿を現した。煙突から立ち上る蒸気は白く、しかし時折虹色に揺らめいた。
雨南は線路を目で追い、その先に広がる海を見た。
砂浜は白く、波が触れるたびに砂の上に花が咲いた。水中から、赤、青、黄色の花びらがふわりと浮かび上がり、波に揺られて消えていく。海風は塩の匂いよりも、どこか甘い香りを運んでくる。記憶そのものが香りになっているのだと、説明もないのに理解できた。
ここでは、時間が流れているようで流れていない。
風は吹き、汽車は進み、波は打ち寄せるのに──それらは「今」という一瞬の中にすべて閉じ込められている。
雨南はふと、自分の胸の奥で何かがざわめくのを感じた。
それは、まだ開かれていない自分の記憶かもしれないし、未来に訪れるはずだった一瞬かもしれない。
ただ確かなのは、この場所のすべてが、自分の思考のかたちに沿って姿を変えているということ。
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