第9話

雨南は、中央ホールの奥に立つその扉の前に立った。

磨かれた真鍮の取っ手が、微かな脈動を帯びて見える。まるで金属そのものが、内部で呼吸しているようだ。


近づくと、空気が変わった。

湿度も温度も、ほんの一歩で変わる。後ろに置いた荷物が急に遠くに感じられ、図書館の喧噪──と言っても静謐な空気の揺らぎだが──が、一枚の膜を隔てた向こうに押しやられたように消えた。


背後から執事の声が落ちてくる。

「この先は、貴方の思考が世界を形作ります。物理も、時間も、記憶も──確かなものは、何ひとつありません。」


雨南は振り返らなかった。ただ、小さく息を吸い込む。

指先が取っ手に触れると、冷たさではなく、むしろ体温を奪わない柔らかな圧が伝わってくる。握るほどに、それは自分の鼓動と同期し、取っ手の脈動と心臓の拍動がひとつに重なった。


「そして──」執事は続けた。

「戻るとき、必ず何かを失います。先ほどの複写は、そのための予防策に過ぎません。失われるものが、貴方にとって耐えられるものであることを、私は保証できません。」


扉の縁が、ぼんやりと滲み始める。

雨南は深く息を吐き、取っ手を引いた。


音はなかった。ただ、視界の中心がゆっくりとほぐれ、無数の光が溢れ出した。

それらは星のようでもあり、雪の結晶のようでもあり、近づけばひとつひとつが異なる記憶の断片であることが直感でわかる。


足が前へ出る。

次の瞬間、世界が──落ちた。

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