第25話 魏の食糧危機
魏の軍営に、冬の冷たい風が吹き付ける。それはただの風ではない。兵士たちの体温と、僅かに残る活力を容赦なく奪い去る、鋭利な刃のようだった。疲労と不満に満ちた顔は土色にくすみ、かつての覇気はどこにもない。凍てつく地面に、わずかな霜柱が立つ。食糧庫にはわずかな穀物しか残っておらず、塩は貴重品として、もはや金銭では取引できない厳重な管理下に置かれていた。武器庫に並ぶ武具は、手入れもされずに錆びつき、刃こぼれが目立つ。その姿は、魏軍の現状を静かに物語っていた。かろうじて見つけた薪をくべた焚き火の周りで、兵士たちは互いに身を寄せ合い、冷気から逃れるように、凍えた手をかざしていた。
その日の午後、曹仁は苛立ちを隠せずにいた。というより、彼の感情はもはや「苛立ち」という一言では収まらなかった。卓を挟んで座る部下の報告は、まるで冷たい水を頭から浴びせられるようだった。
「なぜだ!なぜこれほどまでに物資が不足するのだ!毎日のように報告されるのは、同じ数字ばかりではないか!」
彼は拳を握り、卓を叩く。木目の奥まで響く鈍い音が、この軍営の重苦しい空気をさらに重くした。
「は、曹仁様。蜀との交易が完全に途絶えたため、塩と鉄の供給が……」
部下の言葉は最後まで続かなかった。曹仁の視線が、彼の言葉を遮ったからだ。
「この冬は例年にないほどの寒さだ。我が軍の兵士たちは凍傷で次々と倒れておる。武器も、食糧も、何もかもが不足しておる!なぜ、蜀はこれほどまでに……!」
曹仁の言葉には、憤りだけではなく、どうすることもできない無力感が滲んでいた。部下は、その視線に耐えかねるようにうつむいた。そして、絞り出すように静かに答えた。
「……噂では、月英殿という女が、すべての交易を牛耳っているとか……」
その言葉を聞いた瞬間、曹仁の感情は、憤りから、まるで電流が走ったかのように冷たい戦慄へと変わった。ハッと顔を上げた彼の脳裏に、以前、魏の将軍の妻が、蜀から持ち帰った化粧水と温かい衣類に夢中になったという、取るに足らないと思っていた情報が蘇る。
(美と温かさ……それが、戦場に何をもたらすというのだ……?)
あの時は、ただの流行り物だと一笑に付した。しかし、今となっては違う。まるで霧が晴れるように、すべての点と点が線で繋がっていく。
(あの女は、単なる知恵者ではない……!美と温かさ、そして塩と鉄……!一見無関係に見えるものが、すべて蜀の戦略だったというのか……!我々が軽視していた『美』という要素が、実は最大の武器だった……!)
曹仁の脳裏に、月英の顔が浮かび上がる。その表情は穏やかで、しかしその瞳の奥には、すべてを見通すような鋭い光が宿っているように見えた。それは、自分たちが手のひらで転がされていたという事実を突きつける、冷酷な現実の光だ。
(恐ろしい……!戦わずして、我らを内側から崩壊させているのだ……!我々が必死に剣を振るっている間に、彼女は市場と人心を支配していた。このままでは……この魏軍は、彼女の『美と温かさ』という名のもとに、静かに死んでいく……!)
曹仁は月英の知略に、深い恐怖を感じた。それは、物理的な力を持たない、しかし抗うことのできない「必然性」の連鎖だった。
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一方、蜀の宰相府は、穏やかな春の陽光に包まれていた。まるで、魏軍の凍てつく冬とは対照的な、異なる世界のように。
私は、孔明と一緒に温かいお茶を飲んでいた。商人ネットワークを通じて入手した、魏の軍営の悲惨な現状の報告書を、私は孔明に手渡す。紙面には、凍傷で倒れた兵士の数や、底をつきかけた物資の在庫が克明に記されていた。
「孔明様……本当に、このままで……」
私の声は、不安と、少しの罪悪感を含んでいた。この勝利は、私の知恵によるものだ。それなのに、魏の兵士たちの苦しみを思うと、心の奥がちくりと痛んだ。しかし、孔明は、私の言葉の裏に隠された感情をすべて見透かすように、静かに、しかし優しく微笑んだ。
「大丈夫です。あなたの知恵は、魏を内側から崩壊させているのですから」
孔明の言葉は、私の心を解き放つ。胸の奥から、温かい熱がこみ上げてきた。
(やばい、兵站を握るってこういうことだったんだ!塩と鉄、地味だけど最強の組み合わせ!これって現代でいえば、Amazonと楽天を同時に潰すようなもんじゃない?いや、違うな。物流とインフラを同時に止めつつ、さらに生活必需品を買い占めるってことか?ああ、もう、孔明が怖すぎる!でも、そんな恐ろしい戦略を、私のため、この国のために使ってくれているって思ったら……もう、最高かよ!私も、孔明の愛に応えなきゃ!この勝利は、私の知恵と、孔明の愛の結晶なんだ!これで魏を倒して、この世界を、誰も飢えることのない平和な世界にするんだ!私の知恵が、この国の未来を拓くんだ!)
私の思考は、孔明の愛に触れ、さらに暴走していく。それは、ただの妄想ではない。私の行動すべてに「必然性」を与える、新たな価値観の再構築だった。
「魏は、今、兵糧と物資の不足に苦しんでいます。このままでは、冬を越すことはできないでしょう」
私は確信をもって、孔明に告げる。この勝利は、もはや揺るがない。孔明は静かに頷いた。
「彼らが、我らに降伏を申し出る日も、そう遠くはないでしょう」
孔明の言葉に、私は勝利への喜びと同時に、戦争がもたらす悲惨な現実に複雑な感情を抱いた。この勝利は、血を流すことのない、平和的な勝利。しかし、その裏には、魏の兵士たちの苦悩がある。私は複雑な気持ちを抱えながら、孔明の横顔をじっと見つめていた。その表情には、私の葛藤をすべて受け止めるような、深くて優しい眼差しがあった。
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その日の夕暮れ。
私たちは二人で、庭の片隅に座り、夕焼け空を眺めていた。空は、燃えるような赤と、静かな青のグラデーションで染まっていた。
「……孔明様。この勝利は、血を流すことのない勝利……ですよね」
私の声は、確信を求めていた。孔明は、私の手を優しく、しかし確かな力で握った。
「ええ。あなたの知恵は、血を流すことなく、天下を統一するでしょう」
孔明の言葉に、私は安堵と、深い喜びを感じた。魏の兵士たちが苦しんでいることは確かだ。しかし、彼らの苦しみは、平和な世界の到来への、小さな代償なのだ。私は、そう自分に言い聞かせた。それは、私自身の罪悪感を打ち消し、この勝利に「意味」を与えるための、私にとっての「必然性」だった。
夕焼けに染まる空は、まるで、平和な未来を象徴しているかのようだった。その光は、私の心を照らし、前に進む勇気を与えてくれた。
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