第26話 冬将軍と綿布団

 魏の軍営に、冬将軍が到来した。降りしきる雪は、兵士たちの身体を容赦なく叩きつけ、凍てつく空気が肺の奥まで突き刺さる。もはや、彼らの視界は白一色に染まり、思考も感覚もすべてが鈍っていた。凍えた足は擦り合わせても感覚が戻らず、かじかんだ指は、もはや剣を握る力もなかった。兵士たちは「戦う」という意識すら持たず、ただ、わずかな焚き火の周りに身を寄せ合い、冷気から逃れるように、震える肩を寄せ合っていた。その顔には、寒さによる苦痛と、戦うことへの不満、そして、いつ終わるとも知れない絶望が混じり合っていた。


 夜の帳が降りると、寒さはさらに厳しさを増した。薄い麻布の布団は、冷気を遮ることもできず、兵士たちは、その中で凍えながら夜を過ごす。身体が冷え切って眠ることすら叶わず、彼らはただ、朝が来るのを待つことしかできなかった。しかし、隣の蜀軍の陣営からは、温かい光が漏れ、談笑する声が聞こえてくる。


 「……なぜだ。なぜ、蜀軍はこれほどまでに……!」


 魏兵たちは、羨望と、深い嫉妬の眼差しで蜀の陣営を見つめた。夜が深まるにつれ、兵士たちの間で交わされる会話は、決まって「布団」のことばかりだった。「あんな温かい布団があれば、どんなに幸せか」「剣なんかより、よっぽど価値がある」……そんな声が、まるで伝染病のように広がっていく。彼らが手にする武器は、もはや何の価値も持たなかった。彼らが切望するのは、ただひとつ、温かさだけだった。


 (あの温かい布団さえあれば……)


 そんな切実な声が、兵士たちの間で囁かれ始めた。それは、武器を手に戦うことよりも、温かい布団で眠ることへの、最も原始的で、最も強力な願いだった。その願いは、やがて、軍規を溶かし、戦意を内側から崩壊させていく。


 ---


 その日の午後、曹仁は、兵士たちの士気の低下に頭を抱えていた。というより、すでに事態は彼の想像をはるかに超えていた。


「兵士たちが、戦意を完全に失っております。もはや、武器を手に取るよりも、蜀軍の温かい布団を奪うことばかり考えております」


 部下の報告を聞き、曹仁は言葉を失い、静かにうつむいた。彼が想像していたのは、兵糧不足や士気の低下といった、従来の軍事問題だった。しかし、現実は違った。彼が直面しているのは、武力ではどうにもならない、不可視の敵だった。


 「温かさ……それが、これほどまでに兵士の心を揺さぶるものとは……」


 曹仁の脳裏に、以前、月英が魏の将軍の妻に贈った、温かい綿の衣類が浮かんだ。あの時、ただの女の嗜好品としか思わなかったものが、今や、彼の軍を滅ぼさんとする最大の脅威となっていた。


 (あの女は、単なる知恵者ではない……!彼女は、温かさという、最も原始的で、最も避けられない欲求を突き、我らの心を内側から溶かしているのだ!飢えや寒さは、外部からの攻撃ではない。それは、兵士たちの身体を内側から蝕み、心を腐敗させている。このままでは、我らは戦わずして、この冬に敗北する……!いや、違う……武勇で知られるこの曹仁が、剣でも槍でもなく、たった一枚の温かい布団に敗れるというのか……!まさか、それが、この乱世の結末だというのか……!屈辱……!これほどの屈辱が、他にあろうか……!)


 曹仁は月英の知略に、深い恐怖と、拭い去れない屈辱を感じた。それは、物理的な力を持たない、しかし抗うことのできない「必然性」の連鎖だった。


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 一方、蜀の宰相府は、穏やかな春の陽光に包まれていた。まるで、魏軍の凍てつく冬とは対照的な、異なる世界のように。


 私は、孔明と一緒に温かいお茶を飲んでいた。商人ネットワークを通じて入手した、魏の軍営の悲惨な現状の報告書を、私は孔明に手渡す。報告書には、「兵士たちは、温かい布団を求め、戦意を完全に喪失」と書かれていた。


「孔明様……本当に、このままで……」


 私の声は、不安と、少しの罪悪感を含んでいた。この勝利は、私の知恵によるものだ。それなのに、魏の兵士たちの苦しみを思うと、心の奥がちくりと痛んだ。しかし、孔明は、私の言葉の裏に隠された感情をすべて見透かすように、静かに、しかし優しく微笑んだ。


「大丈夫です。あなたの知恵は、魏を内側から崩壊させているのですから」


 孔明の言葉は、私の心を解き放つ。胸の奥から、温かい熱がこみ上げてきた。


 (布団は武器……そう、これは温かい爆弾よ!いや、待って、これは爆弾じゃない、布団よ。布団が戦争に勝つって、世界初の事例じゃない?魏の将軍が『布団をよこせ!』って言って攻めてくる……って、それって戦争じゃなくて、もうただの強盗じゃん!敵兵が『いや、もういいっす、降参するんで布団ください!』とか言い出したらどうしよう?想像したら面白すぎるんですけど!もし魏の兵士が全員ふわふわ布団にくるまって寝っ転がったら、戦場がただの巨大な宿屋になるじゃん! 敵も味方も関係なく、みんなで『ふかふかだねー』とか言い合っちゃったりして!孔明と二人で、そのど真ん中に茶屋でも開いて、『いらっしゃいませー、本日のお茶は格別でーす!』とか言ってみたり?このフワフワが世界を救うなんて、孔明、やっぱり最高かよ!私の知恵が、この国の未来を拓くんだ!)


 私の思考は、孔明の愛に触れ、さらに暴走していく。それは、ただの妄想ではない。私の行動すべてに「必然性」を与える、新たな価値観の再構築だった。


 私は、孔明に目配せを交わし、小さな声で呟いた。


「この布団が……魏の兵士たちの心を溶かしている……」


 孔明は、私の言葉に、静かに頷いた。


「ええ。美と温かさという、二つの知恵が、魏の兵士たちの心を内側から溶かしているのです。もはや、彼らは戦うことを望んでいません。彼らが望んでいるのは、ただ、温かい場所で眠ること……それだけです」


 孔明の言葉に、私は、平和な勝利への道が見えてきたことに、安堵の表情を浮かべた。魏の兵士たちが苦しんでいることは確かだ。しかし、彼らの苦しみは、平和な世界の到来への、小さな代償なのだ。私は、そう自分に言い聞かせた。それは、私自身の罪悪感を打ち消し、この勝利に「意味」を与えるための、私にとっての「必然性」だった。


 夕焼けに染まる空は、まるで、平和な未来を象徴しているかのようだった。その光は、私の心を照らし、前に進む勇気をくれた。

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