第2話
二
アパートに戻った一助はソファに突っ伏した。
頭の中で祐実ちゃんの言葉がぐるぐると廻る。陽は花園山に沈んで、カーテンを開け放した窓から夜闇が忍び込んで来ていた。
「あーっ、駄目だ駄目だ。やめやめ」
がばっとソファから跳ね起きて両手で頬を叩くと、カーテンを閉めて明かりのスイッチを入れる。蛍光灯がジジジと音を立て、青白い光が部屋を照らした。
そこへ玄関のチャイムが鳴った。一助は手のひらで顔を拭うと、はーいと返事をしながらドアを開けた。
「よお、明かりも点けねえで何してたんだよ」
浅黒く日焼けした坊主頭の男が立っていた。くたびれたスーツを着崩している。
千島智明。一助とは小学校からの幼馴染だった。
「今帰ってきたとこだったんだよ。仕事終わりか?」
「ああ」
智明はずかずかと部屋に上がってソファに座った。テーブルにコンビニの袋を無造作に置くと、中から缶ビールを取り出してプルタブを引いた。喉を鳴らして一口煽る。
「祐一さんとこの猫が殺されたらしいな」
ぶっきらぼうに言う。一助は向かいに腰掛けた。
「情報が早いね。こういう事件は生活安全課じゃないの?」
「まあ、流石に話ぐらいは入ってくるからな。こういったケースから殺人に発展することだってあるだろ」
智明は隣町の高萩警察署の捜査一課に勤めている。昔は快活に笑う男の子だったが、殺人犯を追う日々ですっかり人相が悪くなった、と一助は思っていた。
「しかも、第一発見者がお前だって言うじゃねえか」
「あら、そんなことまでご存知で」
智明は鼻を鳴らして缶ビールを飲み干した。次の一本を取り出して一助にも一本差し出す。
「随分へこんでるみてえじゃねえか」
「そんなことはない」
缶ビールを受け取って開ける。一助は湧き上がってくる泡を見つめた。
智明は目を細めて一助を見ていた。
「俺も祐一さんには昔お世話になったからな。俺に出来ることなら力になりたい。担当が違うからおおっぴらには動けねえけどな。詳しい話を聞かせろよ」
一助は依頼を受けてからタツヤの遺体を発見するまでの経緯を話して聞かせた。
聞き終わった智明は、テーブルの隅に置かれた灰皿を引き寄せるとタバコに火を点けた。吐き出した煙を見上げながら呟く。
「祐実ちゃんが心配だな。ショックだっただろうよ」
「そうだな。ほんと」
「それでへこんでたのか」
「う、まあ」
「それに、これで二件目だろ。このままほっといたらまだ続くんじゃないか」
「二件目?」
「あ?知らなかったか。先月末に萬福寺さんの境内でも猫の死体が見つかってんだよ」
「萬福寺って確か磯原駅近くの?野口雨情記念館の近くじゃないか」
「線路を挟んで一キロぐれえだな。しかも、首を切られて花が突き刺されていたらしい」
智明はタバコを灰皿でもみ消すとスーツの胸ポケットから手帳を取り出した。挟んであった写真を抜き取り、テーブルの上に置いた。一助は写真を覗き込んだ。
やせ細った黒猫が横たわっている。タツヤと同じように首を切られて、一輪の赤いバラが首から生えるように突き刺さっていた。
「その猫はどうやら野良猫らしい。九月二十九日の朝発見された。発見者は寺の住職で赤澤良寛。七十一歳。近所の人からはりょうかん和尚と呼ばれているそうだ。境内の掃除をしようと外に出たところで遺体を見つけたと」
智明が坊主頭を掻きながら、手帳に目を落として読み上げた。
「それを僕に言ってどうするつもりだ」
「ん?調べるんじゃないのか」
「なんでだよ」
「お前ならそうするかと思って」
片眉を上げてニッと笑った。
「まあ、それで祐一さんたちが救われるのかはわからん。でもそれぐらいしか出来ることはないんじゃないか。少なくとも俺はそうだ」
智明はなんとも言えない表情をした。一助の気持ちは揺れる。
「警察は何か掴んでないの」
「まだ全然だとよ。有力な目撃情報が無いそうだ。目下のところはパトロールを強化するってよ」
「そんな。警察が調べてわからんものを僕にどうにか出来ると思うか」
「お前ならなんとかなるだろ。それに、何でも屋だろ?」
「んな無茶な」
「まあ、安全課で解決すりゃあそれで良いんだけどよ。俺は意外とお前に期待してるんだがな」
ソファの背に腕を回してそっぽを向きながら言う。どうやら本心で言っているようだ。
「うーん。これは警察からの依頼って事?」
「おれからの依頼だ。報酬は、ほらこれだ」
智明はビールの入ったビニール袋を指した。
背中に背負った噴霧器のモーターが唸りを上げる。手元のノズルから吹き出す除草剤を
草刈り後の庭一面に散布していった。
あくる日、一助は起きだすとヤス婆の家に向かった。やり残していた草刈りを仕上げて、今は残った雑草を枯らすために除草剤を撒いていた。
隅々まで念入りに撒き終わった一助は噴霧器を降ろす。腰を反らせて大きく伸びをした。
「イチちゃん、ありがとうねえ。疲れたでしょ。お茶にしましょ」
ヤス婆がお茶をお盆に乗せて縁側から声を掛けた。
「いやあ、ごめんなさいね。後回しにしちゃって」
一助はタオルで顔を拭いながら縁側に腰掛ける。
「良いんだよお、それより大変だったんだってねえ」
そう言いながら、白髪の眉を八の字にして一助の湯呑みにお茶を注いだ。
「ああ、ヤス婆も聞いたの?」
「むにゃ、ひどい話だねえ。祐ちゃんが来てイチちゃんには悪いことをしたって言ってたよ」
「そうなんだ。そんなこと気にしなくてもいいのにね。そんなことより祐実ちゃんの方が心配だよ、僕は」
「あの可愛いお嬢ちゃんねえ。塞ぎ込んで部屋から出てこないってよお。かわいそうにねえ」
「そう……」
「イチちゃん、なんとかしてあげなあ」
「僕にはそんなこと出来ないよ」
一助は俯いて縁側の下を見つめた。アリの列が、地面に落ちた蝶の死骸を運んでいく。ゆらゆらと揺れるその行く先をただ眺めた。
「イチちゃんは優しいから大丈夫だよお」
ヤス婆はお茶をすすりながら何でもないふうに言って、むにゃむにゃと羊羹を口に運んだ。
「イチちゃんに出来る事をすれば良いんだよ」
ヤス婆の家から帰ってきた一助は萬福寺へ電話を掛けた。番号は昨夜智明が置いていっていた。
何回かのコールの後、しわがれ声が受話器から響いた。
「突然申し訳ありません。私、結城という者ですが、萬福寺さんでしょうか」
「はいはい。そうですよ。どういったご用件で」
人の良さそうな喋り方にほっとした一助は、自分の身分を名乗ってから先月の事件について話を伺いたいことを伝えた。
「あれはまったく酷いことよな。そちらの飼い主さんもお気の毒な事で。私で力になれるんなら喜んで」
「ありがとうございます。何時頃伺えばよろしいでしょうか」
「今日は法事があと一つ入ってるから。夕方五時以降なら大丈夫かの」
では、と五時半頃伺う旨を告げて一助は電話を終えた。
日の暮れかかった街を抜けて、駅前の幹線道路から外れた細い坂道を登っていく。海から吹き抜けてくる風が道の両脇に茂った木々を揺らして通り過ぎていった。
坂道を登り切ると色あせた赤い屋根の本堂が姿を現した。砂利敷きの参道の脇には風雨にさらされて黒ずんだ灯籠が立っている。一助が近づいて行くとちょうど正面の引き戸が開く。戸を開けた白い肌襦袢にステテコ姿の老人がこちらを見て軽く手を上げて微笑んだ。剃り上げた頭、額には深いシワが何本も走っている。この人がおそらく良寛和尚だろう。一助は頭を下げた。
「まあ、お上がんなさい」
和尚は手招きをして一助を本堂へ招き入れた。靴を脱いで上がる。畳敷きの広い空間、天井が高い。正面には天井に届きそうな祭壇が据えられて蝋燭や花立が並べられている。天井や壁は煤けて黒くなっているが荘厳な空気を纏っていた。一助は勧められた座布団にかしこまって正座する。線香の匂いがした。
「まあまあ、楽にしてくださいな」
和尚は柔和に笑いながら対面に座った。
「これつまらないものですが」
そう言って一助は磯原駅前で買ってきた饅頭の箱を差し出した。
「おお、磯原まんじゅうかい、これはすまんね。私は甘い物に目がなくってねえ」
目を細めながら受け取った和尚は剃り上げた頭を撫でてから、居住まいを正して一助の目を見た。
「それで、何を聞きたいんだね」
一助は猫の遺体を発見したときの経緯を教えてほしいと頼んだ。
良寛和尚の回答は智明に聞いたとおりで、朝起きて日課になっている境内の掃除をしに外へ出たところ遺体を見つけたということだった。時刻は五時頃のことだったと言う。
「一助さんと言ったか。君も通ってきた参道に灯籠があったろう。あそこの根元のところに横たわっていた。まったく悲しいことよ」
和尚は祈るように手を合わせる。
「その時に不審な人物を見たりはしなかったですか」
一助の問いに和尚は首を振る。
「いや、境内には誰もおらんかったよ。それに、せめてと思って毛並みを整えてやったが遺体はもう冷たくなっとった。夜のうちにあそこに置かれたんだろう」
「では、夜不審な物音を聞いたりは」
「何も気づかなかったのう。ワシは八時頃には寝入ってしまうんだがの。六時頃に鐘を鳴らしたときに境内を見たがその時には異常はなかったと思う」
「夜の間、境内には誰でも入れるんですか」
「うむ。うちは山門無いからの。本堂は戸締まりするんだが」
困ったように眉間にしわを寄せて頭をさする。一助も釣られて頭を掻いた。
「なるほど、ではその日に限らずでも良いんですが、見慣れない人物をこの付近で見たりとかはどうでしょう」
和尚は腕を組んで目を閉じた。記憶をたどるように唸る。
「いやあ、この寺に来るもんと言ったら近所の檀家の人間ぐらいだからの。あとは近所の子が境内で遊んでおるぐらいか。最近はあまり見かけんが。外で遊ぶ子供が減ったのかのう」
そこで目を開けて思いついたように言う。
「狸ならよく歩いてるんだがの」
「狸から話を聞ければ良いんですけどねえ」
手応えを得られない一助は肩を落としかけたが、 警察だって何も掴めていないんだからしょうがないと思い直した。
「それでは、あのバラについては何か思い当たることはないでしょうか」
「ああ、あの首に刺されていたやつか。まったくあんなことをするなんて。嘆かわしいことよ」
「全くですね。この季節に咲いているってことは秋バラだと思うんですけど、この辺で植わっているところとか心当たりはないですか」
「わりかしあるはずだがのう。うちにもある」
和尚は首を傾けながら頬を掻いた。
「えっ、じゃあ犯人はそこから」
「いやいや、警察も確認していったが、折られたり切られたりはしていなかったよ。ほれ五年前ぐらいの県民の日に苗が配られていたろう。だから植えとる家は多いはずだよ」
「そうなんですか。五年前だと私、県外に出ていたもので」
「なんじゃ、じゃあ知らないはずじゃな。茨城の県花がバラだからということで役所が配ってたよ。知っておるかな、常陸国風土記によると、昔、茨城郡の山中には国巣と呼ばれる土着民が穴の中で暮らしていたんだそうな。彼らは時に村を襲い、盗みを繰り返していた。そこで黒坂命という武人が彼らの住処に茨を仕掛けて追い込み滅ぼしたとか。茨の城を築いて国巣を追い払ったから茨城郡と呼ぶようになったとか説話が残されているんじゃよ。だから茨城とバラは縁が深いじゃな」
確か県章もバラを象ったものだと聞いたことがあるなと一助は思った。
その後も常陸の国の由来などを語る和尚の話を聞いていたが、八時が近くなり和尚があくびを噛み殺したのを見計らって「そろそろおいとまを」と告げた。
「やや、すまんすまん。歳を取ると長話になっていかんなあ」
和尚は苦笑いをして頭をさすった。
「いえいえ、貴重なお話を聞けて良かったです」
何か思い出したことがあったら、と連絡先を渡して立ち上がろうとしたところで良寛和尚が口を開いた。
「一助さんはなぜ犯人を見つけようとしてるんだい」
「それは、わかりません。犯人を見つけることで残された飼い主さんの心を救えるのか。私にはどうしてもわからないんです。ましてや、殺された命が戻るわけでもない。それでも色んな人に背中を押されて私に出来ることをしたくなった。というところでしょうか」
考え考え言った一助に和尚はゆるゆると頭を下げた。
「あなたのその気持ちは尊いものだ。どうか、残されたその飼い主の人達に寄り添ってあげておくれ。ワシにはここで冥福を祈ることしかできないからのう」
そこで和尚は悲しげに目を伏せた。
「あの様な所業に走ってしまった人間も、苦しみを抱えて救いを求めているのかもしれんのう。願わくば……」
そう言って、祭壇の方を見上げた。最上段から鈍く光を放つ仏像が二人を見下ろしていた。
改めて良寛和尚に礼を言って萬福寺を後にした一助はため息を吐いて空を見上げた。辺りはすっかり暗くなっていた。青白い月明かりが雲間から注ぐ、今夜は満月だった。
坂道を下っていると茂みがガサッと音を立てる。狸が二匹、丸い目で一助を見ていた。
「つ、つ、月夜だ、みんな出て来い来い来いか。君達、犯人を見てないかい」
狸たちは身を翻すと茂みの中へ走り去っていった。
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