冬を超えて
出浦光吉
第1話
冬を越えて
一
草刈り機が唸りを上げ、雑草が次々となぎ倒されていく。青臭い匂いが辺りに立ち込めて鼻腔をくすぐった。
太陽が登り始めた空から日差しが降り注いで来ていた。盛夏を過ぎたとはいえ、十月の太陽は未だじりじり降り注いでくる。一助は首に掛けたタオルで額を拭った。
「イチちゃん、いつもすまないねえ。疲れたでしょう、ちょっとお茶にしましょ」
腰の曲がった老婆が、お茶をお盆に載せてよちよちと縁側に出てくる。
「いえいえ。ヤス婆にはいつも贔屓にしてもらってるから、こちらこそありがたいですよ」
一助は人懐っこい笑みを向けて、肩に掛けた草刈り機を降ろした。
結城一助は、いわゆる「何でも屋」を営んでいた。
これからの高齢化社会において、お年寄りの手に余る様々な雑用の依頼で需要があるのではないか、と見込んで始めた職業であった。一つ一つの依頼に対して一生懸命取り組むことを信条としている。
稼ぎが良いとは決して言えないが、一助はこの職を気に入っていた。
「いやあ、もう十月だってのに暑いですねえ」
縁側に座ってお茶をすすった。
「ほんと、こんなに暑くちゃあ、わたしゃ干からびて死んじまうよ」
「なに言ってんですか。まだまだこれからでしょうよ」
ヤス婆はキョキョキョと笑った。
一助は草刈り途中の庭を眺めた。刈り倒した草が緑の絨毯のように広がって、朝露がきらきらと輝いている。
まだ三割ぐらいか、とぼんやり考えていた時、ブロック塀の影に小さな人影が佇んでいるのに気が付いた。
赤い靴を履いた女の子。小学生だろうか。ブロックの柱の脇に立ってこちらをじっと見ている。
「あらあら、可愛らしいお客さんだねえ。こっちへおいで。お茶にしましょ」
ヤス婆がにこにこしながら手招きする。
どこかで見た事がある顔だなと一助は思った。
女の子はおそるおそる二人が座った縁側に近づくと、一助を見据えた。
「あなたが探偵さん?お願い、タツヤを探してほしいの」
急にそんな事を言う。
「え?いやあ、僕は探偵じゃあないんだけどね。タツヤってのは誰だい?君の弟かな?」
一助は困惑しながら少女を見た。この子は確か荒木さんとこの子だったかな?弟は居たかしら?
「お菓子を持ってきてあげようねえ」
ヤス婆はもごもごと呑気な声を出して奥に引っ込んでいった。
そこへちょうど、荒木夫妻が駆けて来る。
「こら、祐実。勝手に先に行くんじゃあないよ。おお、イチ。頼みたいことが有って探してたんだ」
「祐一さん、おはようございます。タツヤを探してほしいって頼まれました」
「そうなんだよ。ウチで飼ってる猫が帰って来なくってよ。探してくんねえか」
荒木夫妻は近所に住んでいる顔見知りだった。確か一助より五つ上の、四十歳だったと記憶している。旦那さんの祐一は薄くなった髪をオールバックに撫で付けている。奥さんの和美さんは物静かな人で、今も困った様な顔をして、娘の祐実ちゃんの肩を後ろから抱いていた。
「そういうことでしたか。ただ、今はヤス婆に頼まれた草刈りの途中で」
「いいよ、いいよお。私のとこは後回しで。早く探しておやりよ」
いつの間にか戻って来ていたヤス婆は、相変わらずにこにこと笑っていた。
「そうかい?じゃあ、残りは後で必ずやるからね」
一助は申し出をありがたく受け入れて荒木夫妻に向き直った。
「じゃあ、詳しい話を聞きたいので事務所に行きましょうか」
茨城県の北端に位置し、東は太平洋、西は花園山に挟まれている北茨城市。その海沿いの、丘の上にある旭ヶ丘ハイツ101号室が一助の事務所兼自宅である。
事務所とは言っても仕事道具の工具類や草刈り機などが大半を埋めていて、かろうじて、リビングダイニングの一角にソファとテーブルを置いて応接セットとしていた。
数年前に前職を辞して田舎へ戻った一助であったが、実家には兄夫婦が住んでいて、帰るのは気が引けた。そこで叔父である結城源次が経営しているアパートに厄介になることになった。一助の生活が成り立っているのは、格安でアパートに住まわせてくれている源次のおかげだった。
一助はお茶とジュースを出しながら、ソファに座った荒木一家の向かいに腰掛けた。
「その、タツヤくんはいつ居なくなったんですか」
「昨日の夜から姿が見えなくてな。いつもは家からそんなに離れないんだけどなあ」
「そうですか、それは心配ですねえ。タツヤくんの写真とかありますか?」
「ああ、持ってきたよ」
祐一はポケットから一葉の写真を取り出してテーブルに置く。見覚えのある茶トラの猫が写っていた。黄色い丸い目がこちらを不思議そうに眺めている。首には鈴が付いたピンクの首輪を付けていた。
「この子かあ、見かけたことありますね。祐一さんとこの子だったんですね。首輪は居なくなったときにも付けてましたか?」
「ああ、付けてた」
「なるほど。そういえば保健所と警察には連絡しましたか?保護されているかもしれない」
「そうか、してなかったな。なあ?」
祐一は隣に座った和美の方を見た。
「ええ」
「今して来てくれるか?頼むよ」
「奥さん、タツヤくんの特徴をなるべく詳しく説明するようにしてください。保護されたら連絡も貰えるように」
和美は頷いて携帯電話を片手に席を外した。それを見送ってから一助はテーブルの写真を手に取る。
「あとは、この写真をお借りしても良いですか?ビラを作って配りましょう」
「頼む」
「私も探す!」
大人たちのやり取りをきょろきょろと見ていた祐実ちゃんが身を乗り出した。
「こらこら、祐実は学校があるだろ?タツヤはこのおじさんが探してくれるから。な?」
祐実ちゃんは不満そうに頬を膨らませる。
「探偵さん。タツヤ見つかる?」
「うん。見つかるように一生懸命頑張るよ」
探偵じゃあないんだけどなあ。と、苦笑しそうになるのを抑えて一助は祐実ちゃんに目線を合わせて微笑んだ。
「よろしくな。探偵の先生」
祐一が目尻にシワを寄せて茶化す。
「ちょっと。祐一さんですか、探偵だなんて教えたのは」
「まあ、似たようなもんだろ?」
そう言って、だははと笑った。
そこへ和美が戻って来て、憂鬱そうに首を振る。
「保護はされてないみたい。もし、それらしい猫が保護されたら連絡はして貰えるって」
三人の目が一助に集まる。
「保護されていれば良かったんですが。わかりました。早速捜索を始めます」
「あの、お代の方はどのくらいに」
和美が不安そうに訊ねる。
「それは、考えてなかったですね。成功報酬で一万円ぐらいですか?」
「そんなどんぶり勘定で良いのかよ。そんなんだから儲かんねえんじゃねえか?」
「いやあ、こういう依頼の相場がわからないもんで。とりあえず無事見つかったらお気持ちを頂くってことで良いですか?」
「イチがそれで良いなら良いけどよ」
それで話がまとまり荒木一家は帰っていった。
時計を見ると八時を少し回っていた。
「スピード第一」
一助は頬を叩いて気合を入れると、早速パソコンに向かって預かった写真をスキャナーに通した。
日が暮れ始めていた。
一助がビラを用意してアパートを出たのは昼過ぎだった。近所から捜索を始めて、延々とビラを配り歩きながらタツヤを探し回った。今は最寄りの駅前まで来ていた。
「こんな茶トラの猫を見かけませんでしたか?ピンクの首輪が特徴なんですけど」
仕事や学校帰りの人々にビラを見せながら訊ねるも見たという人は現れなかった。
駅前のベンチに座って一息付いた。
「どこ行っちゃったんだい。タツヤくん」
ビラを見ながら呟くも、タツヤは不思議そうにこちらを見つめ返すだけだった。
「猫を探してんのかい」
しゃがれた声が上から降ってきた。一助が顔を上げるとハンチングを被ったお爺さんが立っていた。
「はい、この子なんですけど」
「茶トラかあ、このへんは野良猫が多いからなあ。三匹ぐらいいるよ。まったく、無責任な飼い主が多すぎる」
「いや、野良じゃないんです。ピンクの首輪を付けてるはずなんです」
「ふうん。見たかもしれん」
事も無げに老人が言う。
「えっ、どこでですか」
思わず立ち上がって両肩を掴んで詰め寄る一助に、老人はたじろいだ。
「おいおい、見たかもってだけだよ。海の方、天妃山の辺りを散歩してきたんだが、その時に茶トラの猫を見た様な。いや、期待されちゃ困るよ。ただの野良猫かもしれん」
「いえいえ、ありがとうございます。手詰まりで困ってたんです。早速行ってみます」
肩を揺さぶられて老人はあうあうと声を上げた。
波音が聞こえる。微かに潮の香りがする気がした。眼前には木々が張り出した塊がこんもりとそびえている。
天妃山は北茨城の海岸近くにある標高二十一メートルほどしかない低山だ。登山道の入口の鳥居の間から石段が伸びて、山頂にある弟橘媛神社へと続いていた。
一助は辺りを見廻しながらひんやりとした手すりを掴んで石段を登る。天妃山に踏み入ると、鬱蒼と茂った木々が夕日を遮り途端に薄暗くなった。タツヤが隠れていないか注意深く探しながら登っていく。
ほんの数分の登山行を終えたが、天妃山はしんと静まりかえっていて、猫の子一匹居なかった。
お社の前に立って手を合わせた。
「タツヤが無事見つかりますように」
一礼してから息を吐いた。
「神頼みかあ」
一人つぶやいて山頂の柵に寄りかかって、麓を見つめる。木々に遮られた隙間から夕日に照らされた海がきらきらと光を反射していた。視線を下げると防波堤に沿って作られた遊歩道が左右に伸びている。
「えっ、おっ」
茶色っぽい塊が遊歩道を動いていた。あれは猫かも、と一助は身を乗り出した。
「猫っぽいな。ちょっと待っててよー」
身を翻すと一目散に石段を駆け下りていった。
息が切れた。遊歩道に降りて肩を上下させる。体力が落ちたなあ、と一助は汗を拭いながらぼやいた。
すでに山頂から見えた茶色い塊は辺りには見当たらない。とりあえず猫と思しきものが歩いていった方向に向かってみることにした。
しばらく遊歩道を歩いていくと、海沿いに建つ野口雨情記念館が見えてきた。
「ジャボン玉飛んだあ、屋根まで飛んだあ、か」
調子はずれに口ずさんだ。その野口雨情記念館に走り込んでいく茶トラの猫が目に入った。
「おっ、タツヤか。待っておくれ」
一助も駆け出す。記念館は閉まっていた。どうやら定休日らしい。
ちょっと失礼しますよ、と言いながら、申し訳程度の車止めに渡されたチェーンを乗り越えて敷地に入った。立派な不法侵入だなと、一助は思った。
建物の前に設けられた駐車場の真ん中に植え込みがある。その中央に童謡詩人野口雨情の銅像が鎮座していた。その脇にはシャボン玉を吹く子供の像が立っている。
植え込みに近づくとシャボン玉のメロディが流れ出した。足元から実際にシャボン玉が湧き上がってくる。センサーに触れるとファンが回ってシャボン玉を飛ばすようになっているようだ。
しまったと思った瞬間、銅像の陰から茶トラの猫が飛び出して逃げ去った。
首輪は付けていないようだった。
「あら。あの子は野良かな」
そう呟いた一助は、植え込みの中に別の茶色いものを見つけて、はっと身構えた。猫の尻尾らしき物が見える。息をひそめて姿勢を低くした。猫らしきものに動きはない。
一助はそろそろと近づいていった。
茂みの中に隠されるように、それはいた。
前後の足を力なく投げ出し、横たわっている。本来、頭があるはずの場所からは真っ赤なバラが二輪、突き出していた。
少し離れた場所に、地面から生えるように猫の頭が置かれていた。
「えっ、はあ?」
思わず声が漏れた一助は、地面に落ちたものを見つけて愕然とした。
所々赤黒く変色したピンクの首輪。鈴が付いている。
「タツヤ、なのか?」
一助はめまいを覚えて口元を押さえた。
風に煽られたシャボン玉が壊れて消えた。
「確かに、タツヤだ。ひでえことしやがる」
一助からの連絡を受けて駆けつけた祐一は顔をしかめてタツヤの遺体の前にしゃがみこんだ。仕事帰りと見えて会社のロゴが入った作業着姿だった。
「ごめんなさい。僕がもっと早く見つけてれば、こんなことには」
「いや、ちゃんと見てなかった俺のせいだろ。でもよお、これはあんまりだよな」
祐一はタツヤの体を慈しむように撫でた。目が潤んで赤くなっているように一助には見えた。
「それに、もう冷たくなってるよ。多分、昨日居なくなった後にはもう。だから、イチは気にするんじゃねえぞ」
一助は何も言えずに、うずくまった背中を見つめていた。
後ろからエンジン音が聞こえた。二人が振り返ると車止めの前に丸っこいミニパトカーが停まったところだった。左右のドアが開き、二人の制服警官がこちらに向かって来た。
「どうも、通報を受けてきたんですが、通報者はあなた方で?」
細身の、というより全体的にひょろ長い中年の警官が、帽子を被り直しながら二人の前に立った。後ろには、体も顔も四角いガタイの良い若い警官が控えている。
「はい、そうです。私が通報しました」
一助が一歩進み出る。
「猫が殺されてると聞きましたが」
「はい、こちらの荒木さんのところの猫が」
「ほう。で、あなたは?ここの職員かな」
「いえ、何でも屋をやっている結城と申します。荒木さんから依頼を受けて飼い猫を探していたところ、遺体を見つけました」
「何でも屋ねえ」
ひょろ長い警官は胡散臭そうに一助を見る。
「まあ、とりあえず見させてもらいますよ」
一助を押しのけるようにしてタツヤの前にかがみ込んだ。
「これは、なんとも。悪趣味だな。山田」
山田と呼ばれたガタイの良い警官が「うす」と言ってデジタルカメラを中年の警官に手渡した。眉根を寄せてタツヤの遺体を覗き込む浅黒い顔が、心なしか青ざめている。
ひとしきり現場の撮影を済ませると中年の警官は腰を叩きながら立ち上がった。
「それじゃあ、一応話を伺いたいんですがよろしいですか?」
祐一に目線を向けてメモ帳を取り出した。
「はい」と祐一が応じる。
警官は最初に、名前、住所、連絡先等の基本的な情報を聞きながらメモを走らせていった。
「それでおたくの猫は、いつから行方がわからなくなったんで?」
「昨日の夜からです。 いつもなら夕飯時には戻ってくるんですが、戻って来なかったもので。近所を探したんですが見つかりませんでした」
「ふむ。じゃあ最後に見たのは」
「妻が昼過ぎには居たと言ってました。おやつをあげた後、外に出してやったそうです」
「これまで逃げ出したことは?」
「いや、そんなことはなかったですね。出歩いても近所には居ましたし、夜には必ず戻ってきてました」
「不審な人物を見たりはしてないですか」
「いや、見てないですね。妻もそんなことは言ってなかったです」
祐一は記憶をたぐるように目を閉じながら答えた。
「そうですか。それでこちらの便利屋さん?に依頼をしたんですか」
「はい。今朝頼みました。私も仕事がありますし、元々顔見知りでしたので。頼んでみるかと、妻と話して」
「なるほど、わかりました。では、次は便利屋さん。あなたにも一応」
警官は広い額をボールペンで掻きながら、一助の方に向き直った。
「結城一助です。何でも屋をやっております」
一助は訂正した。警官はどっちでも良いだろ、と露骨に嫌そうな顔をした。
その後、依頼を受けてから遺体の発見にいたるまでの経緯をひとしきり説明した。
「わかりました。この件は報告しておきますんで。私らは交番勤務なので、しばらくの間は周辺のパトロールを強化するようにします」
中年の警官はそう締めくくった。若い警官はビニールシートを準備している。タツヤの遺体は一旦警察で預かるそうだ。
そこへ小さな影が駆け込んできた。
「祐実、だめよ。待って」
赤い靴が視界を横切る。遠くから和美さんの声が聞こえた。
荒い息を吐きながらタツヤを見つめる。次の瞬間、甲高い悲鳴が上がった。
「祐実」
祐一が祐実ちゃんの視界を遮るように前にしゃがみ込んだ。
祐実ちゃんは声を上げて泣いた。嗚咽混じりに言う。
なんで。タツヤ。見つけてって。探偵さん。嘘つき。
途切れた言葉を聞きながら一助は唇を噛み締めた。血の味が口に滲んだ。
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