【妖怪熊】掌編小説

統失2級

1話完結

眠れそうで眠れない、不快で鈍重な睡魔が崎山吉晴の全身を支配していた。こんな夜は吉晴の28年の人生でも始めての経験だった。いつもの吉晴と言えばベッドに入ると物の10分で眠りに就ける様な男だった。(何故だろう?)吉晴は疑問に思いながらも、2時間以上、ベッドに横たわっていた。時刻は午前1時30分を回っている。(ビールを飲めば眠れるかも知れない)そう思い立った吉晴は不十分な睡魔が支配する不可解な体でフラつきながらも、普段は殆ど飲まないビールを1缶買うために近所のコンビニまで徒歩で出かける事にした。


コンビニまでの歩道に街灯は少なかったが、満月の月明かりが、程よく静寂の空間を照らしていた。吉晴がその歩道をフラつく足取りで歩いていると、一頭の大きな動物に遭遇する事となった。吉晴は元来は気弱な男である。しかし、この時ばかりは不十分な睡魔が思考回路を麻痺させていたのか、その動物を見ても恐怖心は微塵も湧いて来なかった。「デカくて良く肥えた犬だな、しかし」吉晴は威嚇の意味も込めて比較的、大きな声で呟く。犬の方はそんな吉晴の意図など我関せずとばかりに、怯える様子もなく吉晴と目線を合わせながら、ゆっくりと近付いて来る。「なんだ? やるのか?」犬との格闘にファイティングポーズが有効なのかは吉晴にも良く分からなかったが、吉晴は一応、ファイティングポーズを取ってみる。「吉晴さん、そんなポーズはやめて下さいな。僕は何も吉晴さんと喧嘩がしたい訳ではないんです。それと、僕は犬ではなく熊です。それも、極めて平和的な熊ですので、どうか安心して下さい」吉晴は一瞬戸惑ったが、直ぐに気を取り直し返答する。「人間の言葉を喋る熊など存在するものか、お前はさては妖怪だな」「まぁ、僕は一応熊ではありますが、980年も生きているので、妖怪かと問われると明確に否定出来る根拠はありません」この夜の吉晴の脳みそからは恐怖心が殆ど欠落していた。なので、平然と熊とも会話をする。「熊とも妖怪ともよく分からないお前が、俺に一体何の用だ? そして何故、俺の名前を知っているんだ?」「僕には超能力があるのです。吉晴さんの脳みそを読み取って、吉晴さんの名前を認識しました」「普通の熊には超能力なんて無いんだよ。やっぱりお前は妖怪だな」「まぁ、妖怪かも知れませんね」と熊は落ち着き払った声で呟き、その後にこう続ける。「僕が吉晴さんに声を掛けたのは、頼みがあっての事です。その頼み事とは500ミリ缶のビールを1本飲ませて欲しいというものです」「何故、俺が見ず知らずの妖怪なんかにビールを奢ってやらないといけないんだ? 俺にそんな義理は1ミリも無い」吉晴は厳しい口調で返す。「もし、僕にビールを奢ってくれたなら、吉晴さんにもそれなりの利点があります。吉晴さんはアナフィラキシーショックという言葉をご存知ですか? 蜂に一度刺されると体内に抗体が出来て、その後、再び蜂に刺されるとその抗体が過剰に反応し、体内でアレルギーが発生して、死に至るという恐ろしい症状、それがアナフィラキシーショックです。今、吉晴さんの脳みそを読み取ったところ、吉晴さんは過去に一度、スズメバチに刺された事がありますね。今度、もしスズメバチに刺される様な事があったら、命の保証はどこにもありませんよ。そんな危険な状態にある吉晴さんを僕が救ってあげます」「どうやって救うんだ?」「僕の爪で吉晴さんの腕を軽く掻かせて下さい。勿論、軽く搔くだけなので血も出ません。数日間、搔いた箇所が少し膨れるだけです。それで、アナフィラキシーショックとは無縁の体を手に入れる事が出来ます」吉晴は目を閉じ暫し沈黙して考えていたが、突然、目を見開くと「良し分かった、その取り引きに応じよう。今からコンビニでビールを買って来るので、ちょっとの間だけ待っててくれ」と穏やかな口調で発言した。


吉晴はコンビニで自分の分と熊の分の2本のビールを買って、先程の歩道に戻って来た。そして、熊に腕を軽く搔かせた後に、代わりに500ミリ缶のビールを1本渡してやった。熊の方は器用に両手を使い腰の保冷バッグにビールを収納すると、続けてこう言った。「吉晴さんが、話の分かる人間で本当に良かった。もう吉晴さんは蜂に殺される恐れもなくなったし、僕はキンキンに冷えたビールを手に入れる事が出来た。今後、再会する事も無いでしょうが、ウィンウィンの取り引きが出来て本当に嬉しい限りです。本当に良かった。それでは僕は山に帰ります。さようなら」


その当日の夕方、アナフィラキシーショックを完全に抑える薬剤が開発されたとテレビで報道されていた。その薬剤を一度注射すると、効き目は生涯に渡り続くとの事だった。吉晴も万が一に備えて予防接種を受けた。なので、あの妖怪熊との取り引きではビールを1本分、損した事になったのだが、それが余りにも悔し過ぎて、吉晴は死ぬまでに異様な数量の蜂蜜と蜂の子を食べ続ける事になった。それは、復讐とも呼べない何とも奇妙な憂さばらしではありました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【妖怪熊】掌編小説 統失2級 @toto4929

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画