一章・後編

第27話 おかえり、ただいま。

——ラフィニア視点——



 夜に降りしきる雨の中、 アシュと再会出来た——。


 その事が、胸に溢れた安堵と歓喜が私の目を曇らせたのかも知れない。

 アシュの着る”守護者”の制服から覗く腕や、太ももに無数の赤黒い痕があった事すら、すぐに気付けなかったんだから……。


 線のように走る傷。

 痛々しく残り、腫れたような痣。

 さらには焼印のような火傷まで——。


「アシュ……何があったの? どうして、こんな……!?」


 溢れる涙で視界が滲む。声が震えて言葉にしきれない。


 あらゆる感情が胸中を渦巻く。

 胸を締め付ける熱は引くことはなく、滑り落ちる涙がアシュの頬を濡らす。


「……ん」

「ご、ごめん! ……アシュ、今はまだ寝てて」


 慌ててアシュの頬を拭うと、彼女がうなされるように声を零す。


「ラ、フィ……会い、たい……」


 その言葉一つで、私の中の感情が決壊した。

 いまも苦しそうな表情で眠るアシュの鼓動に耳を傾け、そっと抱きしめる。

 同時に、彼女をこんな目に遭わせた帝国に対して負の感情が頭をもたげる。


 でも、今は一刻も早くアシュを連れて帰らないと——


「グレインさん、アシュを運ぶの手伝ってくれますか?」

「いや、運ぶなら俺が——」

「ダメです。私がアシュを守ります」

「…………わかった。手伝おう」


 言葉を飲み込んだグレインさんは、それ以上は何も言わずアシュの肩を支える。



 ——と、あれだけ激しく振り続いた雨はもう、止み始めていた。

 それでも傷だらけのアシュの身体は冷え切っている。

 彼女の肩にそっと腕を回し、グレインさんと一緒に修道院へと歩を早めた。


 すると、わずかに身じろぎしたアシュの瞼が持ち上がる。


「ラフィ……ごめん。自分で、歩く——」

「アシュは黙ってて……今は私に任せてよ!」


 気が付いたアシュの足取りは弱々しく、それでも私に頼ろうとしない姿に、つい声を張り上げてしまう。

 それでも彼女は「ごめん……ありがとう」と掠れた声で答えを返すのみだった。

 咄嗟に「謝らないで」、そう言おうとした私の口はついぞ開かなかった。



 それから、沈黙のままひたすらに歩き続けた。

 腕が悲鳴を上げる。でも絶対にアシュの手を放すことは無い。

 この手を離せば、再び彼女を失いそうな気がしたから……。


 彼女をギュッと抱きしめれば、アシュは小さく微笑んだ。

 でも、その笑みは今にも崩れそうな儚いものに見える。


 そして、どれくらい歩いただろうか——


 ようやく視界の端に修道院の灯りが見え始める。


 ふと、私の足が止まる。

 静かに「どうした?」と、問いかけるグレインさんは眉を寄せた。


「グレインさん……このまま、アシュを連れ帰って大丈夫なんでしょうか?」


 アシュが戻れば、またあの視線と言葉が彼女を傷付ける。

 それが、怖かった……。


「……噂のことか?」

「はい。今度こそ、アシュが壊れてしまうかも知れない。そう思うと——」


 不安が口をついて出た時——灰色の影が音もなく建物の上から舞い降りる。

 一瞬グレインさんが剣へと手を伸ばすが——その直後、彼は肩の力を抜いた。


 灰色の影が歩み寄ると、軽い口調で語る。


帝国やつらの仕掛けた魔法印は潰しといたで。だから、安心して帰りや」


 声の主は、灰色髪の狼獣人——カイ・スピクラトさんだった。

 彼の赤茶色の瞳がアシュの顔を捉えると、優しく目を細めた。


「もう誰も、アシュリーを悪魔扱いはせぇへんで。心配はいらん」


 彼のニカっと笑う陽気な表情に肩の力が抜ける。


「もっとも、ホンマもんの悪魔やけどなっ! ぶはははっ!」


 お腹を抱えて笑うカイさんだけど、それは長くは続かず、冷めた空気感が漂った。


「いや、あの……ここは笑うトコやで?」


 と、急にオロオロと狼狽える姿に、私とグレインさんから小さな笑いが溢れる。


 カイさんはそれを確かめるように、わずかに頷き背を向けた。

 静かに立ち去ろうとした足を止めて振り返り、眠ったアシュを見やる。

 優しく細めた目が、私に寄り掛かる彼女を映すと、静かな声で呟いた。


「……よう頑張ったな、アシュリー」


 その言葉に、アシュの肩が静かに揺れる。

 ふと見たカイさんは、灰色の尻尾を揺らしながら街の影へと去って行った。

 


 眠ったままのアシュ。

 それでも、ようやく彼女の表情に安堵の気配が生まれようとしていた——。




▽ ▽ ▽



——アシュリー視点——



 長い——本当に長い悪夢を見ていた気がする。

 力に飲まれて、全てを失う。そんな夢……。


(いや……現実にあったこと、か……)


 苦笑が漏れる。と同時にゆっくりと瞼が上がる。

 目の前には見慣れた景色があった。そこは修道院でのかつての自室。


 陽はすでに昇りきっているようだ。

 窓から見える花壇には眩いばかりの陽光が降り注ぎ、以前見たつぼみも満開に咲き誇っている。


 窓に掛かるカーテンがふわりと、優しく揺れる。

 暖かな風が頬を撫でると、部屋の扉を控えめにノックする音が響いた。


「アシュ、起きてる? 入るね?」

「……ここラフィの部屋だろ? なんで遠慮してんだよ?」


 つい軽口で答えてしまってから後悔する。

 俺はラフィニアの前から逃げ出した——そういう事になっているハズだから。

 

(どの面下げて帰って来てんだろうな……俺)


 うつむき、掛けられた薄手の布団を握り締めた。


 ラフィニアは静かに扉を開くと、一直線に俺へと歩み寄る。

 引っぱたかれるのも覚悟で、ぎゅっと目を閉じた。 


 だが、暗闇のなか最初に感じたのは暖かく腕に抱かれる感触だった。


「……ラ、フィ?」

「おかえり、アシュ……」


 ふと「ただいま」と言いかけた口を噤む。

 すると、ラフィニアが俺の両肩をきゅっと握る。アメジスト色の瞳が揺れることなく俺を見据えていた。


「アシュ……『ただいま』は?」

「はぁ……? いや、だって——」

「ちゃんと『ただいま』って言わないと私、怒るよ……?」

「え、いや、あの……。だって俺」


 ラフィニアの目は真剣そのものだった。

 言葉を濁す俺に、彼女の目が据わった。


「勝手に出て行って、意味不明な手紙残して! 私がどれだけ心配したか!」


 彼女にしては珍しいくらいの激高だった。だが、その声は酷く震えていた。

 

「アシュが居なくなって、私が平気だとでも思ったのっ!?」

「あ、あぅ……ごめん」

「しかも大怪我して、あんな路地裏に座り込んで! アシュの馬鹿っ!」

「……ごめん、なさい」


 ラフィニアがこんなに怒りを露わにするのを始めて見た。

 怖いとか、そういったことではなく——ただただ、涙を浮かべて怒る彼女が、大切に思えて言葉が出なかった。


「ごめん、ラフィ。でも、ここは俺が返る場所じゃ——」

「アシュ、まだ私を怒らせたいの?」


 ラフィニアの顔は真剣そのものだ。

 眉を吊り上げながら、目尻に涙を溜めるラフィニアの願いくらい叶えたい——と、そう思ってしまった。


「……た、ただいま」


 その言葉を聞いたラフィニアは手で涙をぬぐい、「よし!」と鼻息荒く頷いた。


 不思議と「ただいま」と口にした途端、ここが返る場所なんだと意識してしまう。

 

 心が軽くなった。

 肩の力がスッと抜ける。


 なにより、ラフィニアの声と姿が俺の荒んだ心に、光をくれる。


 すると——


「え、あれ? アシュ、どうしたの!? どこか痛い?」

「……え?」


 寝具に落ちる雫の音で、初めて自分が泣いていると気付いた。

 ラフィニアも慌てた様子で、俺の顔を覗き込んでいる。


「あ、あれ? なんで……止まら、ない」


 なんども腕や手で拭くが、涙はあとから絶え間なく頬を伝って落ちる。

 

 見かねたラフィニアが静かに歩み寄り——そっと、俺の頭を包み込むように抱きしめてくれた。


「おかえり……アシュ」



 そうして俺は少しの間、ラフィニアの鼓動を耳にしながら静かに身を預けた——。



▽ ▽ ▽



 落ち着きを取り戻した俺は「もう、大丈夫」と声をあげる。

 そっと腕を緩めたラフィニアは、そのままベッドへと腰掛けた。


「手紙……読んだよ」


 脈絡のない一言だったが、その声は色んな感情を痛いほどに俺へ伝えてくる。

 どうしてラフィニアに読ませたのか? とソフィアさんへの苦言も浮かんだが、それは口に出る事なく胸の奥へ消えた。


 すると、ラフィニアが沈痛な表情で口を開いた。


「こんなに傷だらけで……何が、あったの?」

「…………」


 あんな凄惨な拷問——出来事を彼女に話すのは気が引けた。

 俺が沈黙のまま少しの時が流れると、部屋の扉がノックされる。


『ソフィア様がお会いしたい、と。開けてもよろしいでしょうか?』


 扉越しの声が響く。

 この少しハスキー掛かったアルトボイスは、たぶんマーシーさんだろう。 


「はい。アシュリーちゃんも目を覚ましたので、大丈夫です」

「……失礼します」


 静かに扉が開かれ、マーシーさんに続いてソフィアさんが顔を見せる。

 だが、いつもなら聖女然とした彼女の表情には影が落ちていた。 


 そして、俺のベッドの傍に立ったソフィアさんはゆっくりと重い口を開いた。


「アシュリー……アナタの身に起きた事について、話がしたいの……」

「……え?」


 ソフィアさんの唐突な言葉に首を傾げていると、胸の奥から自分とは違う鼓動が脈打つ。


(アシュタロト……?)


『ふむ。どうやら、今代の聖女はキサマの変化に気付いたようじゃな……』


「俺の、変化……?」


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