第25話 人としての意地
閉じた瞼の裏で、あの子が笑っている……。
俺はその笑顔に手を伸ばすが、それは霞のように儚く霧散した。
——全身の痛みが、遠のくような錯覚。
同時に音も光も、こことは違うどこかの光景のように感じる。
時間の感覚など、とうに消えていた……。
薄っすらと瞼を上げると、目に映ったのは揺れる松明の灯りと、血に濡れた短剣を持った男の姿だった。
その背後には椅子に座る老齢の男——グイードの姿もあった。
ダニエレの姿はすでに無い。
ぼんやりと、夢見心地のように視線が宙をさまよう。
目に映るすべてが、水面越しに見る景色のように揺らめき、頼りない。
だが、そう感じた次の瞬間には新しい激痛と不快感が、俺の意識を強制的に浮かび上がらせる。
「あっ!? がっ——!」
皮膚を焼くような痛みが、無数に全身を走っている。
破れた肌から滴る血が、石床に小さく音を立てる。
天井から吊り下げられた鎖に繋がれ、手首の枷が皮膚に深く食い込む。
それでも俺の目は、怯えも哀願も映すことは無かった。
「……どうして、笑っている?」
尋問官の声に困惑と苛立つ音が混じる。
「……わら、って……?」
喉の奥から漏れる吐息のような声に、男が持つ刃の切っ先がかすかに揺れた。
笑っているつもりなんて、なかった。
すると、後ろで控えていたグイードが椅子から立ち上がり、こちらへと詰め寄る。
項垂れる俺の髪を掴みあげ、力任せに頭を持ち上げられる。
「やはり、お前が封印悪魔なのだろう? なぜ次期聖女と共にいた?」
「ラフィ……。知ら、ない……」
「あの娘の資質……あれは普通ではありえん。魂が変質を起こしている可能性がある……。是が非でも手に入れたい」
と、言葉を吐いたグイードの声に驚愕の気配が混じる。
「いや、待て……。悪魔が神聖魔法に干渉、だと? ……もしや、お前もなのか?」
髪を掴んでいた手から力が抜ける。
俺の頭は力なく項垂れ、口端からは鉄さびの匂いのする”赤”が石床へと落ちる。
「もしそうなら——あの封印が解けた事にも納得できる……。悪魔のお前が、神聖魔法に干渉出来た説明も付く——。お前という存在は、別のナニかに変わろうとしているのか? 次期聖女は、神の呪縛すら超えうる? 何が起こっている……」
グイードは顎に手を当て、その場で歩き回ってブツブツと独り言を漏らしている。
この場にいる誰もが、その奇行に口を挟めずにいた。
俺の意識が再び闇に沈もうとしていた時、小さな鼓動が背を撫でた。
『(……聞こえるか、アシュリー)』
沈みかけの闇の奥で、アシュタロトが囁いた。
『(これ以上は……キサマが持たん。封印を揺るがせ、我に代われ。こ奴らなど刹那の間に消してくれるわ)』
(駄目だ……お前に、頼れば……俺は戻れなくなる、気がする)
アシュタロトの圧倒的な力。以前それを体験して知っている。
(お前の、力は中毒性が、強すぎる……。力に、呑まれそうに、なる……)
あの力は、ラフィニアと見たい未来とは真逆の力だ。
それに溺れては、今度こそあの光の道へ戻れなくなる。その予感が、俺の身をすくませる。
『(だが、今死んではラフィに会う事すら出来んぞ? キサマの恐怖も、我には手に取るように分かっておる——)』
(これは、俺の戦い、なんだ……。人としての、俺の意地、なんだよ……)
アシュタロトの押し黙った気配がした。
それでも、あいつは俺に寄り添うように小さな鼓動を刻んでいる。
——と、意識を内側に向けていた俺の全身に、今までにない不快感が走る。
「——っ!? あ、がっ!?」
「研究はすべてが終わってから、ゆっくり続けるとしようか」
グイードの声が、俺を意識の表層へと引きずり出す。
重い瞼をあげると、奴の手には奇妙な棒状の魔法具が握られていた。
「これは、魔力を逆流させる魔法具だ。痛みなどより、よっぽど辛いだろう?」
——言って、魔法具を俺の背中へと押しつける。
かつて廃教会で苦しんだ、封印の力と似た痛みと不快感が全身を駆け巡る。
全身の神経が沸騰しているかのような錯覚。
もはや俺の喉からは、声すら漏れてこなかった。
意識が完全な闇へ沈んでいく……。
「ちっ! やりすぎたか……。まぁ良い、
「ラ、フィ……? とら、える?」
意識が沈むほんの一瞬だけ前——グイードの言葉と、封印具の奏でる「リィン」という音が俺の意識を瀬戸際にとどめた。
「させ、るかよ……。ラフィを、傷付けるなら、お前、ら——」
グイードの鼻で笑う音が耳に不快感を残す。
「ふっ、『傷付けるなら』なんだ? 魔法封じの枷でお前の魔力は使えんぞ?」
背を向ける老齢の男は嘲笑するように言葉を続ける。
「もっとも、お前が”封印悪魔”であれば、結果は分からんがな……」
——視界が暗転した。
沈んだ意識の底に、赤い脈動が走る。
血の流れが逆巻くような熱と、渦巻く風の音。
それが、どこか遠くの出来事のように感じている。
無意識に、瞼が上がる。
視界の端で、鎖が軋みを上げた。
手足にまとわりつく冷たい枷が、赤い光へと染まっていく。
「——なっ!?」
一陣の風が壁際に佇んだ男のそばを吹き抜ける——尋問官の叫びはそこで途切れた。
「なんだとっ!? この小娘、”魔法封じの枷”すら突破するというのか!」
どこか遠くでグイードの切羽詰まった声が聞こえる。
鉄の枷は赤熱し、原型を留めないまでに溶け落ちた。
たった一つの誓いが、全ての痛みを塗り潰し、俺の身体を立ち上がらせている。
ラフィニアと契約した魂が、軋みをあげながら燃え立つ。
「……ラフィニアを、守るんだ」
俺の呟きは、次の瞬間には別の存在に塗りつぶされる。
『すまんの……アシュリー。じゃがキサマの誓い、我が守ってやろう……』
黒い暴風がこの場の全員を飲み込んでいく。
石壁は崩壊し、天井の構造は紙切れの様に崩壊し始める。
俺の口から、あの魔法の名が紡がれた——
「——【
飛び交う瓦礫が、悲鳴すらかき消して闇色の竜巻が天を衝く。
——場のすべてを引き裂く風切り音と、崩壊の振動。
破壊の限りを尽くした魔法が消える。
そのすぐ後には小石の転がる音と、地上からのそよ風だけが響く静寂が広がった。
夜の聖都を照らす月明かりが、崩れた地下に白銀の色を灯す。
差し込んだ光が、俺の影を色濃く地面に落としている。
その影に、翼を広げた悪魔の姿が、一瞬だけ映っていた気がした——。
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