Chapters 17 終わらない世界
母親は、「接しやすい」美人として、知られているらしい。どこからの噂かは分からない。でも、その意味が分からないほど俺は愚鈍ではなかった。
喉が渇いて。水が欲しくて。一度だけ、夜中に一階に降りたことがある。その時見たものを、鮮明に覚えている。
ソファの上で下着姿になった母親。見知らぬ金髪の男。二人が抱き合っていた。目を離すことができなかった俺は、母親に恐ろしい瞳を向けられて。
地獄が始まった。
一週間がたった。どこを見ても海ばかりで、船の揺れに吐き気を覚えて、でも、あっという間のことだった。
「もうすぐですね。」
「ああ。」
ミライは、あれから病室に籠っている。あの時外に出られたのは、ただの奇跡でしかなかったんだ。それでも、話すときは目を見て笑ってくれる。彼が失った右腕を見ることは悲しかったけど、彼が笑うから私も笑う。それだけだ。
「………見えてきた。」
「あっ!」
まだ遠い水平線。そこに、大きな島が見えた。この調子なら、一時間内にも着く。
「帰って、きた。」
呟いて、後悔した。聖さんにとっては、「帰る」ではなく「行く」なのだ。
島を見つめる。廃れ果てた故郷を見つめ、私は身震いした。
「こちらで手続きを行なってください。」
ずっと蒸気を吹いているかと思われた船が、ようやく止まった。まだ満足に歩けない俺は、松葉杖を借り、聖さんに支えてもらいながら移動した。入国の手続き。………何すればいいのか?
「不正物質の持ち込みは………ないですね。以上です。」
………それだけ?
「あの。」
「はい、何でしょう。」
「国籍の確認とか、そう言ったものの必要はないのですか?」
イマが港の職員に聞いて、すぐ顔を強張らせた。意味は、俺にだって分かった。
「………確認しても無駄でしょう?どうせパスポートも持っていないでしょうし。」
職員の鋭い目が聖さんに向いていることに、俺たちは気づいた。しかし当の本人は、特に気にしていない様子だ。
「それに、今の日本に『国籍』などはありません。」
間を空けた絶望。職員は言い放った。
「日本は滅亡したのです。」
手続きは無事終わり、俺たちはすぐ施設を後にした。外に出た瞬間、イマが突然駆け出した。
「お父さん、お母さん!」
そこで、俺たちにも理由がわかった。特に知らされていなかったけど、親が迎えにきてくれるのだろう。………少しだけ。家族に囲まれながら涙を流す彼女を、羨ましく思った。
「………また、今度ね。」
「うん。」
イマとの別れ際、少し俯いて呟いた。学生兵だった俺たちには、多分すぐ徴兵がかかる。今は怪我を治して体制を整えるための、猶予期間に過ぎない。それに加え、イマには家族がいる。家族を残して、戦場に行くんだ。
「………大丈夫。」
「え。」
どうしてこうしたのか、自分でもわからない。片手で、イマの手を取った。小さく震えていた。
「俺が絶対、守るから。」
不思議と、笑みが溢れた。笑って欲しかった。でも、反してイマの顔は少しずつ赤くなってゆく。………ん?
「………あ、ああ、ありがと、」
「あ、うん。」
「じゃ、じゃあっ!」
なんかわからないけど、すぐに去ってしまうイマ。………なんか、俺、こんなキャラだったっけ。
「どうして………」
「知るか。」
そして、冷たい聖さん。どうしてだ。
「俺たちもいきましょう。」
「………そうだな。」
聖さんが、これからどこに行くのか。どこへ行くべきなのか。それはあえて、どちらも口にしなかった。ただ、なるようになるのだ。
「じゃあ、確かこっちの道に」
「すみませーん。」
遠くから、職員がこちらに向かって走ってくるのがわかった。その目が聖さんではなく、自分に向けられているのがわかり、不安が加速する。
「吉田、未来さんですね。」
「は、はい。」
「伝え忘れていたことが。」
職員の、機械的な声。耳にして、不安が頂点に達した。
ちょうど、三週間前のことです。hopeは東京の国会議事堂を中心に、瞬く間に全国へ広がっていった。そして、あなたのいた街にもhopeたちは迫った。
その地域では、共用の地下室で住民が避難していました。しかしそこをhopeが見つけ、住民はほとんど全員食い殺されてしまったのです。
その地下室に、「吉田カコ」つまりあなたの母はいました。
エレベーターを、登る。二人とも、何も言わない。心臓の鼓動が早まっていく。喉の奥が苦い。………大丈夫。会うだけでいいんだ。話す必要なんて、ない。
「ミライ。」
「っ!」
「落ち着け。」
聖さんに掴まれた手が、震えていた。目視でわかるくらい、激しく。
カコさんは、重傷を負いましたが生きています。B病院の集中治療室です。
辿り着いた。来る途中で事故に遭うとか、そういうことが起きて行かずにすまないか。なんて馬鹿みたいな期待をしていた。235号室の扉を、開ける。
カコさんは、生きました。しかし、今も尚病室で生死を彷徨っている様子です。
病室内に、光が差していた。静かで、誰もいない。カーテンの奥。ベッドの上で、横たわる影を見つけた。聖さんは心配そうに見ていた。大丈夫。大丈夫ですから。そう言う代わりに笑って、俺だけ進む。でも、うまく笑えた気がしない。
hopeの襲撃に遭い、私たちが来た頃には。
カーテンを避け、母親の顔を見る。ここでもし起きたら、彼女は俺を殺すだろう。油断するつもりで、ベッドに左手で触れる。感触がなかった。
彼女の胴から下は、hopeに噛みちぎられたらしい。
母親の目が閉じている間、俺は哀れみや同情に近い感情を抱いていた。
けど、目覚めた瞬間逆転する。
「………!」
「!」
母親の目が、少し動いた。離れたかったけど、体が動かない。
「………い。」
「え?」
何かを言っているように、聞こえる。怖かったけど。何にも抗うことができず、近づいた。口元が、動いている。
「………未来。」
身震いがした。風が吹いた。か細く掠れた声が、世界の騒音の中際立って聞こえた。なんのわけもなく、涙が落ちていた。
「あんたが。」
でも。わかっていた。
「あんただけ生き残るなんて、許さない。」
わかっていた。こんな時に良いことが起こるはずがないって。
俯くと、血が地面に溜まっていた。一瞬、何が起こったのかわからなかった。でもその直後、腹部の痛みを感じて。
気づくと、自分の鳩尾をナイフが貫いていた。
倒れ込む。遠くで、聖さんが勘づいて走ってくるのがわかった。痛い。ナイフを抜かれて、痛みを急に敏感に感じ呻く。痛い。ああでも。
これが、普通だ。
「あんただけ幸せになるなんて許さない。ここで死ね。地獄へ行って、苦しめ、苦しめ!私は、あんたが大嫌いだ!バケモノ!」
………ああ、そうだよな。母親が大声を出した弾みで咳き込んで。聖さんがすぐナースコールを押し、俺の近くで何かを言っている。でも、ノイズにしかならない。やっぱり、そうだ。
俺は、どこにも行けないんだ。
苛立ち。鼓動に比例して、大きく、強くなってゆく。時間が過ぎていく度に、この世の嫌なこと全てを思い出す。
「………聖さん!」
「………イマか。」
深夜九時。家を飛び出してそのままで来たようなイマの様子を見て、不快がまた増す。息切れながら、イマは尋ねる。
「ミライ、は。」
「生きてる。思ったより傷は浅かったみたいだ。今手術をしているが、今夜中には終わるらしい。」
ここで、彼女の青白かった顔が、少しずつ血色を取り戻していった。
「よかった………」
病院の床へ、足から崩れ落ちるイマ。でも俺は、何も言わないことに決めた。
「………知らなかった。」
その体制のまま、イマは口だけで呟く。もはや、周りにいる人間もこちらには気を止めない。全員が自分のことで精一杯だから。
「こんな生き方をしていたなんて。」
「………」
「あんなに、近くにいたのに………っ!」
床にへたり込んだ拳に、爪が食い込んでいる。顔は見なくとも、それだけで全てがわかる。………違う。
「でも、お前のせいじゃない。」
「………え。」
あいつがベッドに近づいて、その時にはわかっていたのかもしれない。なのに、止めなかった。止められなかった。
「あいつは、自分から母親に近づいた。」
「手術中」のランプを睨みつける。赤い残像が水晶体に残る。
「わざと、刺されにいった。」
イマが、少し時間が経って、顔をあげ、息を呑む。静寂が落ちる。でも、間違いはない。本当に、わかっていた。のに。
俺は、何もしなかった。
「………どう、して。」
「わからない。………でも。」
俺は、「家族」を知らない。だから、無責任なことしか言えない。でも、確かなことはある。
「あいつにとってあの毒親は、まだ『母親』だったんだよ。」
あの傷が、痛かった。いろいろなことがあったけど。ミシンで指を縫われたこととか、真夏に一週間物置に閉じ込められたこととか、色々………。もう、忘れていたけど。どこかで、ずっと覚えていた。母親が、嫌いだったこと。
だけど、あの人は俺の「母親」だった。それに変わりはない。
だから、愛そうと思った。
「未来」
あの人が俺を名前で呼ぶ時に、良いこと一つ起こらないことくらい、知っていたのに。俺は、期待した。全部謝ってくれるのではないか。目を合わせてくれるのではないか。世間話なんてできなくても。笑ってくれなくても良いから。
けど、違う。
目覚めたら、白い天井が視界に映った。あの人から見た世界。無機質で孤独で、何もない。俺は、生き延びたんだ。
「………起きたか。」
知っている声。少し視界をずらすと、聖さんがいた。まるで、俺がいつ起きるか分かっていたように。笑いもせず、こちらを見ていた。体を起こす。傷が痛い。
「………聖さ」
名前を呼ぼうとした。その途中で、頬を張られた。手加減はしたのだろうけど、やっぱり痛い。気づいていたんだ。俺が、わざと殺されにいったことを。
「………どうして。」
ここで初めて、聖さんの声が震えていることに気づいた。全然、冷静じゃない。錯覚していただけで。
「………母親は、死んだよ。」
「そう、ですか。」
わかっていた。なのに、涙が溢れそうになった。あれが、最後の対話になってしまった。一方的に、罵られ続けただけだけど。
「………大嫌いでした。」
「うん。」
「でも、愛していました。」
「………うん。」
確証を持って、俺はそう言った。あの人は、俺を愛していなかったのに。
『あんただけ生き残るなんて、許さない。』
誰にも望まれず、拒まれ、疎まれる。こんな人生の中で、俺は生きていた。
「愛して欲しかった。」
そのために、繕った。でも、本当は逃げていただけだった。わかっているのに、無視したかった。
「でも、駄目だ。いつまで経っても、俺が俺である限り、俺は、誰も幸せにできない。」
「ミライ。」
「だけどずっと切望して、何度も、何度も、何度もっ!」
傷が痛い。開いたわけではないけれど、代わりに瞳から涙がこぼれ落ちた。自分という存在が、内側から剥がれ落ちていくように。
「なのに、駄目だった。」
生きていることが、辛い。聖さん。俺に、何ができる。
「ふざけんなよ。」
返ってきたのは、罵倒だった。ふっと、風を切る感覚がして、目を閉じようとした。聖さんが大股で近づいてきて、前髪を強く掴んだ。顔が近い。
「今、ここに俺がいる。」
真っ直ぐな瞳を、ただ凝視した。窓に、光が入ってきた。光と熱を同時に感じて、でもどうでもいい。
「俺だけじゃない。お前のそばには、イマだっている。」
「!」
イマ。俺は知っていた。彼女は、俺を見てくれた。
「お前が。」
「………っ!」
「お前が一人だなんて、お前が決めつけんなよ。」
頬が熱い。聖さんに叩かれた頬だ。涙が傷跡を、濡らしていく。苦しい。それでも、瞳だけは開いていた。聖さんのこんな顔、初めて見たから。
「ぉれ、は。」
「………」
「ま、だ………っ!」
死にたく、ないです。
「ありがと。」
ハッとした。似つかわしくない笑顔が、とてつもなく脆く見えて。聖さんは、ゆっくり俺を抱きしめた。力がだんだん強くなっていく。苦しくて、でも心地よかった。
「ごめん、なさい。」
「うん。」
「ごめんなさい………っ!」
「いーよ、あんま謝るな。」
『ごめんなさい』。これに返答が来ることが、俺にとって何よりも嬉しかった。しゃくりあげて、頭がぐらぐらして、握りしめた拳が痛かった。大好きな人が、耳元で撫でるように囁いた。
「生きててくれて、ありがとう。」
本当に、脆い世界だ。小さな蝶の羽ばたきにより、遠方で竜巻が起こる。一人が命を落とすだけで、たくさんの人間が生きる意味を失う。
ミライには、すぐ会うことができた。見てすぐに、殴ってやろうかと思った。でも、頬に絆創膏が貼られているのを見て、その気は流石になくなった。代わりに、たくさん罵倒した。
「最低………!」
私はこんなに泣いているのに。私はこんなに好きなのに。
「ごめん。」
そんなことを、言って欲しいんじゃない。彼もそれを途中で察したらしい。私も彼も、何も言わない時間が続いた。
続いていく。私たちの関係は、きっと。縁はいつまでも、繋がっている。
その縁は、他にもあった。
「こちらへ、どうぞ。」
取り調べだと言って、私だけ旧日本軍隊の本部に呼び出された。コンクリートだけでできたような部屋。私は信じられないものを見た。
「………久しぶり、キラキラネームのお姉さん。」
「ベルーカ、さん?」
取り調べの部屋のパイプ椅子に、あの少女が座っていた。
「この子が、あなたじゃないと話さないと言うんです。」
「え………」
「安心してください。もしも妙な仕草を見せたら、首に取り付けた爆弾でいつでもこの少女を殺せます。」
職員の声は、至って淡々としていた。よく見ると、彼女の首には首輪のようなものが取り付けられている。まだ十歳余りの子供が、こんなに簡単に殺せてしまう状況にあるのだ。
そんな状況下で、彼女は驚くほど、つらつらと情報を述べた。UNOという組織の、知っている最大限のこと。構成員のこと。リバース・アウフタクトのこと。
「これくらい、かな。これしか私は知らない。上の本部は、秘密主義だったから。」
「これだけ………」
本当に、わずかな情報だった。長である社長の名前も出てこなかったし、構成部員のこともわずかしかわからない。謎は依然として、多いままだ。
「ありがとね。私なんかのわがままに付き合ってくれて。」
「………あなたは。」
これから彼女がどうなるのか。きっと。
「処刑は免れないでしょうね。」
「!でも。」
「いーの、気にしないで?もう全てが、どうでもいいの。」
嘘のない声。だけど、気丈に振る舞っているのが、すぐにわかった。当然だ。彼女はまだ、子供なのだから。
私が、守る。
「………あの、職員さん。」
勝機はある。けど、このやり方は、彼女を深く傷つけるだろう。それでも、許してもらうしかない。
「私に、提案があります。」
やるべきことをやる。誰も、死なせないために。
街を、徘徊した。「街」なんて呼べるものでは、もうないけど。怪我が治って、家に帰る途中だった。なんとなく、聖さんも一緒に。
まるで、スラム街を歩いているようだ。だけど、なぜかそこに、絶望はない。
続くからだ。こんなにボロボロになっても、終わらない。だから、生きる。
「………!」
「!ごめんなさ」
通行人と、ぶつかった。咄嗟に謝ったけど、その人はそのまま行ってしまった。フードの下から覗けた目は、こちらを睨んでいた。
「誰………」
途方に暮れた。あの目が、他人ではない気がした。
「………いくぞ。」
「あっ、はい。」
そうだ、帰るのだ。家。………家?
「着きました。」
………ホーンテッドマンション小さい版括弧和風みたいな建物。わかりやすいから助かるが。
「入ってください。汚いですけど。」
「………すまない。」
戸を開けて、ひどい異臭に鼻を覆った。香水と、血の匂い。あの日と変わらない。
母親の死体は、集団墓地で火葬された。誰もが美しいと言った母親の顔が炎で溶かされてゆくのを、俺は最後まで見ていた。母親を、許したわけじゃない。だけど、忘れることもないだろう。
「………掃除、しますか。」
「手伝う。」
そもそも箒とか家にあったっけ。何も決めず、靴を脱いだ。
物置の中を見た。俺にとっては、別に現実離れしたものではなかったけど。壊れた手錠と、ロープと、血。何があったのかを察するには、十分過ぎるだろう。
「聖さん。」
「ああ。」
「………そこは、俺だけでやります。廊下と玄関だけ、頼んでもいいですか。」
「………わかった。」
作業に戻る。互いに何も感じていないふりをして。
カーテンを開けた。ちょうど光が差し込んだ。埃が光の反射で、輝きながら踊る。
「………大丈夫か?」
顔を見ないまま、さりげなく聞いた。なんで聞いたのかは、俺にもわからない。けど、わからなくてもいい。
「………もう、大丈夫です。」
ハッとして、振り向いた。ミライは、こちらを見ていた。
陽の光に照らされたその顔は、笑っていた。
たった、それだけだった。
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