陸、包み焼き河童もどき
建物の中だというのに、ここは凍えるほど寒く、ひどくかび臭い。それに、どこからか水が滴る音がする。
罪人を捕らえ閉じ込めておく場所――
殴れば壊れてしまいそうな木造の格子の先。そこにいるのは、毛先だけ茶色がかった黒髪に目元を隠すほど長い前髪を持つ華奢な少女だ。
「どーも、私の姿を真似したときぶりだね」
元々細かったが、またずいぶんとやつれてしまったように思う。
「魚名様って呼んでもいいですか?」
「……敬称などつけずとも。あなただって同じ上級貴族でしょうに」
「今はただの陰陽法師です」
捌が格子の前の床に腰を下ろすと、魚名は嫌そうな顔をした。
「私の顔してたころより感情がわかりやすい顔に戻ったね」
そう、今の魚名は捌の姿ではない。
あの姿は一時的なものであり、芒が「河童の左腕」を食い殺したことによって彼女は元の姿へと戻ったのだ。
「…………鬼食い様は?」
掠れた声の問いに、捌は首を振る。
「彼女は被害者って位置づけになるから、面会はできないよ。どれだけあの子が望んだとしてもね。その代わりに私がここに来たってわけ。……まぁ、貴殿もある意味被害者だけどね」
「ふ、それを言うなら、あなただって被害者でしょう。私とよく似た捌様」
じろり、と長い前髪の隙間から鴉のような黒い瞳が覗く。
「それとも、ちゃんと本名でお呼びした方がよろしいかしら。ねぇ――
「……勘弁してよ、もう十五年以上呼ばれてない名前なんだ。捌で生きてきた方が長い」
「ですが、捨てられるものでもないでしょう」
「そりゃそうだけどさ。……てか、どこで知ったのそれ」
一瞬にして捌の声が低くなる。そのことに気づいたのか、魚名は口角を上げて答えた。
「隠す必要もないので教えて差し上げます。『河童の左腕』によって、姿を真似たときに知ったのです」
「そんな便利な妖……いや、怪異かな? まぁどっちでもいいか。そんな便利なものなんだね、あれ」
「私の願い事を叶えてくれる左腕です。どうやら、身体の一部があれば姿だけでなくその者の過去まで知れるようでした」
「その根拠は?」
「鬼食い様に付いていたあなたの毛髪を使った結果が、あれでしたので」
「……そういうことね」
何て恐ろしいものだ、と捌は身震いする。
魚名が持っていたからよかったものの、極悪人なんかに渡っていたら大変なことになっていただろう。
だが、疑問点はまだ残っている。
「あの左腕ってさ、御父上の……だよね」
「はい」
「普通は妖に憑りつかれるのであって、妖になることはほとんどないんだ。よほどのことでない限りね。それに身体の一部分なんて、とても希少な例だ」
「では、今回はよほどのことだったのでしょうね。希少な例だと陰陽法師が言うほどに」
捌は困り果てて後頭部を掻く。のらりくらりと躱されていると確信があったからだ。
「……どうして御父上を殺したの?」
その質問をしてすぐ、がりがり、と嫌な音が捌の耳朶を打つ。魚名が己の手を傷つけている音だった。
「……どうして? 聞かなくともあなたはわかるでしょう真夏様っ」
――がり、がりり。
「殺されそうになったからですよッ! お父様は私の部屋に入ってくるなり、あの左腕で私を殴りつけた! そして『お前が生まれてから全てが狂った』などとほざき始めたのです! 母が自死したのも、歌会で負けたのも、全部自分のせいだろうに! 私がっ、髪色のおかしい私が生まれたせいだと、お父様は言った!」
――がりりりッ、がっ、がりッ!
「そうして私の首を力いっぱい締めましたッ! 痛くて、苦しくて、私はっ、涙が出ましたっ! でも、死にたくなくてっ、死ぬ前に、あの方の名前を呼びたくてっ、」
魚名の左手はもう血まみれだった。
まるで、瞳の代わりに涙を流しているかのように見えた。
「……気づけば、お父様は死んでました。刀で心臓を一突き。何も覚えていないけれど、おそらく、私がやったのでしょうね。お父様の部屋に飾られている刀を私が持っていて、手は血に染まっていたから」
落ち着いた声音に戻った魚名は話を続ける。
「その後は、怒りのままにお父様の身体に刀を振り降ろしました。でも、人間の身体って思っていたより固いのですね。腕を切断するのがやっとでした」
「そう言うわりに、死体は腕以外もばらばらだったらしいけど?」
「あぁ、腕の切断以外は腕がやってくれました。ふふ、変な言葉ですね、訂正します。『河童の左腕』が私の願いを叶えてくれたのです。お父様を見るも無残な肉塊にして欲しいという願いを」
捌はやっとこの事件を流れを理解した。
やはり死体をばらばらにしたのは、魚名の凄まじいほどの恨みによって生まれた「河童の左腕」という妖だったのだ。
きっと、そこまで積もってしまった彼女の恨みは相当なものだったろう。だというのに、願いを叶えてくれるのが彼女を殴りつけた父親の腕だというのだから、何とも皮肉なことだ。
そう思っていると、ずりずりと魚名が捌の方へ近づいてくる。そして、血だらけの左腕を格子の間から伸ばした。
「真夏様でしたらわかってくれるでしょう、この恐怖と恨みを」
そう言って、魚名の指は捌の顔当てをつかむ。真白いそれに、じわじわと赤が広がった。
「うん、そうね。わかるよ」
捌は、もう声すら覚えていない父親を思い出す。
歌会で相手貴族に敗れ、屋敷に火を放ち、臣下諸共焼き尽くした罪人。
炎のせいで昼のように明るい屋敷の中、死にたくないと言った自分に、こんな恥を晒してまで生きていけるわけがないだろうと肩を強くつかみ言い放った愚かな人。
――命を絶つくらいなら、恥晒しらしく顔を隠して生きていけばいいのに。
魚名の指に力がこもる。そして思ったよりも簡単に、捌の顔当てが取れた。
その中を見た魚名は、大きな黒い瞳をより大きく見開く。
「……本当に、黒い瞳をお持ちだったのですね」
その言葉に、捌は形の良い眉を下げ、切れ長の目を細める。
瞳は夜のような色をしていた。
「何それ。わかってたんじゃないの?」
「実際に確かめはしませんでしたし、髪が黒でなかったので半信半疑な部分もありました」
「あー、言われればそうね」
苦笑する捌は己の髪を一房つまむ。どこからどう見ても朽葉色だ。
「これね、染め粉使ってるの。だから水に濡れたりするとすーぐ黒髪に戻っちゃうんだよね。毎朝面倒だよ、本当に」
「波久礼家の生き残りだとばれないために、そこまでしますか」
「うん、する」
捌は断言した。
「あの日、波久礼真夏は臣下たちと共に死んだからね。生きてちゃいけないんだ」
「死人のような顔当てをしているのも、それが理由で?」
「そこまで考えちゃいなかったけど……見方によればそうかもね」
赤に染まった顔当てを魚名から奪い取り、捌は再度縛り直す。
もう聞きたいことは全て聞いた。ここに用はない。
捌は床から腰を上げた。
「よいしょっと。……そうだ。御父上を殺したこと、そこまで重い罰にはならないと思う。理由が理由だからね。いつかは外に出られるはずだよ」
「……そうですか。では、勝負をしませんか?」
「勝負?」
居房に背を向けていた捌が振り返る。
「はい。私がここを出たとき、どちらが鬼食い様好みの食事を用意できるかなんてどうでしょう」
「うん、お断りです」
不敵に笑う魚名に、捌も笑って即答した。
彼女は少し驚いた様子で口を噤む。
「そもそも私料理人でも何でもないし。料理は生きるために必要だったから覚えただけ。今はまぁ……ちと趣味な部分もあるけど。とにかく、競う腕なんて私は持ってないよ」
再度捌は前を向き、歩を進める。しかし、その足はすぐに止まった。
顔は前を向いたまま言葉が紡がれる。
「……ねぇ、貴殿が言った通り、私たちってよく似てるよ。考え方とか置かれた境遇とか。……でもだからって、好みの人まで同じじゃなくてもよかったのにね」
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