伍、包み焼き河童もどき
芒が
白い息を吐きながら、芒は御門の敷居を跨ぐ。咎める声はなかった。
使用人たちはもちろん、
まぁ、それもしかたないことだ。央都で起きる事件はほかにもあるのだから。
枯れた樹木、濁った池の水。変わっていないはずなのに、どこか哀愁を感じるのは人がいないとわかっているからだろうか。
たとえ立派な屋敷だとしても、中に人が住まないそれは大きな箱と大差ない。
やけに響く足音と共に、芒は屋敷の壁に沿って歩を進める。
「……あの人の部屋は、この辺りだったかな」
目印のように佇んでいる枯れた巨木。中から見たら日が入らず、ろくに景色も楽しめない檻を彷彿とさせる部屋。みるみるうちに暗くなる空。感覚のない冷えた指先。
――そして、いつの間にか増えている足音。
芒が足を止めると、背後から鳴る足音も止まる。
振り返ると、そこには口角を上げた捌がいた。芒がじっと見つめると、彼は少し困ったような素振りで頬を掻く。
「やっとこっち向いてくれた。どんどん進むから困っちゃったよ」
左手を後ろに回し、捌は芒との距離を縮めた。
「どうしてここに?」
「どうしてって、当主様が殺された屋敷だよ? 心配だったからに決まってるじゃない」
「ありがとうございます」
「いーえっ! で、ここが件の姫様がいたって部屋? ひどい場所だね、ろくに景色も楽しめやしない」
彼の感想を聞きながら、芒は白い息を吐く。
「……さっむい」
紡いだ言葉は誰にも拾われず、こぼれてしまった。
目を閉じ、すん、と鼻を鳴らす。冷たい空気に含まれた塩っぽい匂いと、焦げた醤油の香り。
あふれる唾液を飲み込んで、芒は口を開いた。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「ん? なーに?」
「その姿になって、わたしの名を呼ぶに相応しい者にはなれました? 魚名様」
息を飲む音がした瞬間、その場は時が止まったような静けさに包まれた。
目の前にいる人は口を引きつらせながら、より左腕を背中に回す。
「……どうして、」
震える声でどうにか紡がれた、ひとり言のような言葉。
どうしてわかったのか、と言いたいのだろう。芒はそれに対し、
「私の言葉を拾ってくれなかったので」
と、答えた。
「は、」
「いつも拾ってくれるんです。どんなにくだらない言葉でも」
「それだけ……?」
「もちろん、それ以外にもありますよ。隠してる左手とか」
びくり、と肩が揺れたのを芒は見逃さない。
「傷跡までは消せませんでしたか?」
おそらく、魚名の癖だったのだろう。何かあると、彼女は己の左手を傷つけていた。芒の前でも、血が出るほどの強さで爪を立てていたのだ。
芒が捌の姿をした魚名に一歩近づくと、彼女は二歩ほど後ずさる。
以前までは彼女の方から近づいてくれていたのに、と思ってしまった。
「『河童の左腕』は、姿を真似ることができるんですか? 噂では身体を探して彷徨っていると聞いてたんですが……」
「こ、来ないでくださいっ」
「ごめんなさい、そのお願いは聞けないです」
芒はさらに一歩近づく。
錯覚だろうが、捌の姿をしているというのに華奢な少女のようにも見えた。
「どうして捌殿の姿を真似たんですか?」
「――ッ!」
そう問うた瞬間、我慢しきれないとでもいうように、魚名が芒の肩をつかんだ。骨が軋む音がする。ほんの少し、痛みに顔が歪んだ。
「そ、それはっ、あなたがっ!」
きっ、と歯を見せてがなる魚名に、芒はゆっくりとしたうなずきを返す。
「あ、あなたが……」
「はい」
「わ、私の知らないところで、知らない人と会うからっ……私の、力になってくれるって言ったのにっ……! あなたがいた一時だけは、あの部屋もっ、嫌では、なくなったのにっ」
「はい」
肩をつかむ力が、さらに強くなった。奥歯を噛みしめてどうにか耐える。
「あ、あなたは、私よりも、この、捌という男を信頼しているっ」
「優劣はありません。そもそも比べる土台が違います」
「嘘だッ!」
痛いほどの怒声。
「嘘、嘘ッ! 嘘ですッ!」
狂ったように魚名は首を振った。肩から外された手は髪を乱し、口端からは泡を飛ばす。
「こ、この男は、私と同じですッ! 歌会に敗れた父親の都合に巻き込まれっ、家族を亡くしっ、それでも己だけは死にたくないと願った! あの日、気が立っていた父に殺されそうになって、全力でもがいた私と! ならっ、私でもいいでしょうッ⁉ この男ではなくっ、私を見てくれても――」
「――自分から姿を捨てたのに?」
口から出たのは低い声だった。
どうやら、思っているよりも自分は怒っているらしい。
「自分で姿を捨てて、人を真似て……何を見ろって言うんだ」
「――あ、あぁ、」
がち、がち、と魚名の歯が鳴る。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ‼」
絶叫と共に振り下ろされた傷跡の残る左腕。それは確実に芒の顔を捉えていた。
当たったらきっと痛いだろう、なんて他人事みたいに思いながら目を閉じる。拳の一つくらい受け入れる気で来たため、覚悟はできていた。
しかし、一向に痛みがやってこない。
おそるおそる目を開けると、芒に向けられた左腕をつかむ手が見えた。黒い法衣に包まれたそれは、芒の背後から伸びている。
芒は咎めるような口調でその名を呼んだ。
「捌殿」
「うん、ごめん。でもさ、自分と同じ顔した奴が暴力振るう瞬間なんて見たくないじゃない」
そう言った捌は、慣れた手つきで魚名の腕を捻り上げ羽交い絞めにする。
「一発くらい殴られる覚悟はできてるって言ったじゃないですか」
「相棒がそうだとしても私が嫌なの」
どうせ式神である守矢だって準備しておいてくれただろうに、どこまで心配症なのだ、と芒は思う。
話は少し前に遡るが、
そして頼んだのだ、依頼人として。魚名が人を傷つけるようなら、陰陽法師として力を貸して欲しいと。
最初から直感があった。人がやったとは思えない当主の死に方、足取りがまったくつかめない魚名、証拠すら見つからない事件。人間の力では、ここまで何も残さないのは不可能に近い。
つまり、妖が絡んでいるということだ。
そうなると、一番怪しいのは行方知れずの魚名である。
どうやったか、彼女は父親を殺害し姿をくらました。しばらくは失踪という体でどこかに身を潜め、芒の動向をうかがっていただろう。だとすれば、魚名は必ず芒が一人のときを狙って接触を仕掛けてくる。
そう思ったがゆえ、とてつもなく渋る捌に頼み込み、こうして自らを囮に使ったというわけだ。
「……ふ、ふふっ、あははっ」
乾いた笑い声が響く。
「……あぁ、そう、そうだったの。最初から私を捕まえる気だったのですね」
羽交い絞めにされた魚名が肩を揺らし、そうつぶやいた。もう何もかもどうでもよくなったかのように脱力している。
「――いいえ、違います」
そんな彼女に、芒は首を振った。
「――わたしは、あなたを食べに来たんです」
「はぁ? 何を言って……」
芒は魚名の胸元に手を差し入れ、法衣の中にしまわれていたあるものを取り出す。
――それは、赤黒く変色した腕だ。
腕だけで生きているはずがないのに、それはびくびくと痙攣するように動いていた。
塩っぽい匂いと、焦げた醤油の香りが強くなる。
これが天平家当主の腕、もとい「河童の左腕」なのだろうことはすぐにわかった。
「な、何をする気ですか……」
震える声で尋ねる魚名に、芒は腕から視線を外さず答える。
「先ほどいった通りです。食べるんですよ」
そう告げて、芒は大きな口で「河童の左腕」に噛みついた。
肉を噛み千切って咀嚼し、嚥下する。おいしくはない。腐った生魚のような味がする。
二口目、三口目と食べ進めると、腕は一度だけ大きく揺れ、それ以降は動かなくなった。
こうして、「河童の左腕」は一人の鬼食いに食べ殺されたのである。
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