参、包み焼き河童もどき

 やけに喉が渇いた。そう思いながら、芒は後宮の門へ続く一本道を歩く。


「……絶対、しょっぱいもの食べすぎたからだ」


 そう一人ごちる芒。

 日が傾き始めた頃合いに加えて、こんな寒い時期である。出歩く人も少ないだろう。

 はぁ、と芒は白い息を吐いた。脳裏をよぎるのは魚名のことだ。

 気に入ってくれるのはありがたいが、やや過剰に感じるのは自分だけだろうか。自他共に奇人と認める主に仕えているからか、芒には普通がわからない。

 再度ため息をついたとき、


「あれ、相棒?」


 と、背後から慣れ親しんだ声が鼓膜を振るわせた。

 この声を間違えるわけがない。

 勢いよく振り向けば、想像通り、捌がそこにいた。手には大きな包みを持っている。


「捌殿っ!」


 喉の渇きによってしかめ面となっていた芒の顔が、ぱっと明るくなる。次いで飼い主を見つけた犬のようにそばへ駆け寄り、うれしそうに口角を上げた。


「おかえりなさい。北部での任、お疲れ様です」

「ただいま~。相棒も毎日お勤めご苦労様です。いやぁ、北部も寒かったけど央都おとも中々寒いね」

「女房たちもこの冬は一段と冷えるって言ってました。……それにしても、どうしてここに? この先、後宮に入る門しかありませんが」

「知ってるよ。でもさ、早めに渡したかったから、おみやげ」


 そう言った捌は、持っていた包みを掲げる。


「本当は、門の警備にあたってる衛士えいし様にお願いして届けてもらおうと思ってたんだけど。ここで会えてよかった」


 捌は安堵したような雰囲気で告げると、芒におみやげの包みを差し出した。


「ありがとうございます。うれしいです」


 それを受け取り、素直に礼を言う芒。しかし内心、こういうとこだぞ、と悶えていた。

 おそらく捌は何とも思わずに「ここで会えてよかった」と言ったのだろうが、これでは都合よく解釈されてもしかたない。彼の一挙一動で淡い好意がしっかりと形を成すのだから、惚れるとは困ったものである。

 浮足立つ自分を律するように、芒は頭を振った。そして、


「今回の件はどうでした? けっこう遠征期間が長かったようですが」


 と、仕事の話題に戻す。すると、捌は話し出そうと口を開いたが、すぐに首を振った。


「冬は暗くなるのも早いし、今日はもう帰りなさい。次会ったとき話させてよ、約束」


 捌の話を聞くなら別に暗くなろうが、寒かろうが構わないのだが、本人からそう言われてはしかたない。芒は少々ぶすくれた表情をしてうなずいた。

 それに気づいたようで、捌は吹き出すように笑う。


「そんな顔しないの。あ、そうだ。おみやげ、七華殿しちかでんの皆様で食べて。ちと量が多いかもしれんけど、お漬物とか日持ちするものもあるからさ」


 漬物つけもの――その言葉を出たとき、一瞬芒の顔が強張った。天平家の屋敷で、もう当分の間はいらないと思うほど食べたことを思い出したからだ。

 しかし、彼女はすぐに笑みを浮かべる。


「食べるのが楽しみです。女房たちにも捌殿からだと伝えますね」

「う、うん。それはよかった……」


 芒は再度礼を言い、軽く会釈してから捌の元から離れた。

 先ほどの強張った顔がばれていなかっただろうか、と不安になりながら。



◇◇◇◇◇



 一瞬のことだった。

 普通であれば見落としてしまうようなほんの一瞬、彼女の顔が固くなった。

 鬼食いの少女と別れた捌は歩を進めながら思う。

 自分は何か気に障ることを言っただろうか。それとも、おみやげの中に何か嫌いなものでもあったのか。はたまた、買いすぎただろうか。いやでも、いつも目を見張るほど食べるし、日持ちするものも多いから彼女ならきっと食べてくれる……はず。

 そこまで考えて、はっとする。

 あれ、もしかして自分、無意識に彼女ならと甘えていた?


「……うわ、はっずかし。いい歳した大人が一回り近く年下の子に甘えるとか……」


 思わず己の顔を両手で覆ってしまう。嫌でも頬に熱が集中していることがわかった。

 自分に向けてため息をつく。


「……ちと好意的に見られてるからって自惚れてるなー、私」


 放った言葉を聞いている者は、一人としていなかった。



◇◇◇◇◇



 その日も、芒は天平家に向かった。

 いつも通り、ご馳走を準備して来訪を待っているという文が届いたからだ。しかし、今日の芒にはいつもと違う点が一つだけある。

 それは、伝えなければならないことがあるということだ。

 芒は魚名の前で当たを下げる。そして淡々と、


「大変申し訳ございませんが、数日はこちらを訪ねることが難しくなってしまいました」


 と、告げた。

 実は、近くで妖退治の要請が陰陽殿にあったのだ。もちろん、それを見逃す秋月ではない。捌がその件の担当になるよう指示し、芒にもいつもと同様に同行を命じたというわけである。

 魚名も秋月が妖を食べている奇人姫だということは知っているため、少し悲しそうな表情をしながらも納得してくれるだろう。


「――そうですか。わかりました」


 頭を下げた芒の視界で、うなずいたように魚名の身体が動いた。

 了承してくれたことを安堵し顔を上げると――


「――ッ」


 芒は思わず息を飲む。

 魚名の顔から、表情がごっそりと抜け落ちていたからだ。

 何を考えているのか、どこを見ているのか、わからない。

 そのとき、がりがりと嫌な音がする。

 何気なしに芒が視線を下げると、彼女は右手で左手のひらに爪を立てていた。驚愕に目を見張っているその間にも、凄まじい力で肉を抉っていく。


「……な、何してるんですかッ⁉」


 固まってしまった身体を無理やり動かして、魚名の行動を止める。しかし、あまりにも強い力で固定されている右手を引き剥がすことまではできなかった。


「大丈夫ですか⁉ あぁ、血がこんなに出て……痛いで――」


 彼女の身を案じる芒の声が止まる。


 ――魚名が、恍惚とした表情でこちらを見ていた。


 細められた闇のような黒い瞳が、長い前髪の隙間から覗く。

 芒は固唾を飲み、緊張していることがばれないよう努めて口を開いた。


「て、手当しますから。ほら、まずは傷を洗いに行きましょう」


 そう言って魚名の手を引き立ち上がる芒の裾が、強い力でつかまれる。血が流れている手だというのに、水干すいかんが破れんばかりの力だった。

 そして微笑みながら、魚名は告げる。


「――ねぇ、鬼食い様。秋月様の命を追えたら、その足で必ず魚名を訪ねてください」

「え、」

「明朝でも、夜が深まったころでも構いません。待っていますから……ね?」


 さすがにそれは申し訳ない、と口に出そうとした言葉は音にならなかった。芒はただうなずく。


「約束ですよ」


 声もなく、再度うなずいた。

 全身が粟立つような恐怖を感じ、喉が張りついて声が出せなかったのだ。



◇◇◇◇◇



 近頃、鬼食いの彼女は何かに疲れている様子だ。

 内親王の妖を食べたいという我が儘によって陰陽殿にも頻繁に顔を出してくれるが、すぐ帰ることに加え、菓子を渡しても遠慮することが多い。昼餉を共にするときだっておかわりしないのだ。

 そんなことが続き、捌はあることに思い至った。

 もしや体型を気にしているのではないか、と。

 巷では細い線の女人が人気らしい。彼女も年頃だ、そういう噂を本気にもするだろう。だが、初めて会ったときは気にしているようには見えなかった。そうなると、自分が食べさせすぎたことで、彼女は悩んでいるのではないか? もし本当にそうだとしたら、彼女に対して、気にしなくていいと声をかけるのは自分の義務だ。

 そう考え、妖退治に同行する年頃の少女へそれとなく体型の質問を投げかけてみた。

 すると、彼女は眉根を寄せ、


「……何の話です?」


 と、逆に問うてきた。


「え、だって最近――」


 そう前置きし、己が考えていたことを伝えると、彼女は何度も首を横に振った。


「全然体型は気にしてません……が、」


 少女は自分の身体を色々な角度から眺める。


「太りましたかね?」

「いや、私はそう思わないけど……でもその辺りの知識に疎いというかよくわからんから、ほかの人に聞いた方が――」

「――捌殿が大丈夫なら、わたしは大丈夫なんです」

「あ……はい」


 言外に「お前の好みが判断基準だ」だと言われていることが嫌でもわかってしまう。ここまで強く言い切られると、捌は小さく返事することしかできないのだ。

 彼女のこういう素直なところは本当に慣れない。元々そういう面はあったのだろうが、最初の印象は作り笑いが上手な子だった。それが今では屈託のない笑顔を向けてくれるようになったのだ。

 うれしいことだが、正直もっと気をつけた方がいいと思う。これでは勘違いする輩も出てくるというものだ。手始めに、そう、自分とか……。

 そこまで考え、思わず鬼食いの少女から顔を背ける。顔当てをしているとはいえ、熱が溜まっていく頬は誰だって隠したいものだ。

 すると、あ、と少女が声をあげた。


「もしかして、おかわりしなくて気を悪くさせましたか?」

「いやいやいや! そういうわけじゃないよ!」


 己の言葉のせいで、勘違いしてしまった彼女に首を振る。


「ただ、疲れた顔をしてることも多いし、前より食が細いからどうしたのかと思って……」


 正直に告げると、彼女は頬を掻き言いにくそうに口を開いた。


「あー、それは……ですね。最近わたしを気に入ってくれてる上級貴族の姫様がいて、たくさんご飯を振舞ってくれるんですよ」

「それは……よかったね?」

「はい。ありがたいことではあるんですけど、如何せん量がすごくて。汁物だったりすると持ち帰るわけにもいかないので、その場で全て胃袋に入れるしか選択肢がないんです。それにけっこう濃い味付けだから、その後食べたものとか味がよくわからなくなっちゃって……。皿洗いの対価としてもらえる厨のご飯も、最近は少し断ってるんです。あ、皿洗いは継続してますよ」


 最後の一言を自慢げに言った彼女に対し、捌は「へぇ……」と気の抜けた返事をする。

 ――え、料理だったら自分だって大体のものが作れるが? それに無理してその場で食べ切らせず、余ったものは持ち帰れるよう包むし、飽きさせないために薄味と濃い味をいい感じで使い分けるが?

 心中で、無意識につらつらと感想があふれ出す。しかしそれに気づいた瞬間、捌は頭を抱えたくなった。

 ――いや、張り合ってどうする!

 上級貴族からの誘いでは、この子だって断れないだろうに。

 そう思い、捌は内心己に悪態をつく。情けない奴だ、と。

 以前であればどうにか口利きできたかもしれないが、陰陽法師の自分では何をしてやることもできない。

 だから――


「――無茶だけはしないでね」


 今できるとしたら、声をかけてやることだけだ。


「もし、もう食べたくないってなったら、ちゃんとその姫様に伝えてみること。どうにもならんくなったら誰かを頼って。私でもいいから。……まぁ、私は何もできんかもだけど、駆け込み寺くらいにはなれるよう頑張るから」


 そう本心を告げると、鬼食いの少女はとてもうれしそうに顔を綻ばせてうなずいた。



◇◇◇◇◇



「よかった、まだ日が高い」


 芒は天平あまだいら家の御門の前でつぶやいた。

 明朝でも夜が深まったころでも構わないと言われたが、さすがにその時間帯に訪ねるのは気が引ける。だからといって、約束と言われたことを破るのも悪い。どうにか日中に訪問できればと思っていたので、現在心の底から安堵していた。

 慣れた足取りで敷居を跨ぎ屋敷に入ると、相変わらず女房や使用人の類は見えない。代わりに、魚名が咲いたような笑顔で出迎えてくれた。この流れも見慣れたものである。

 そして彼女の間に招かれたと思えば、すぐにつむじからつま先までじっくり観察された。

 固まったまま芒は問う。


「あ、あの……何か?」

「動かないで。怪我が無いか確認中です」


 真面目な声音で告げる魚名に、心配いらないと伝える。


「わたし一人ではなく、捌殿もいたので大丈夫ですよ」


 そう補足すると、ぴたりと彼女の動きが止まった。


「……捌殿、とはどなたですか?」

「あ、そうか。まだお話していませんでしたよね。捌殿は妖を食べて祓うという根食派ねじきはの陰陽法師でして、料理がお上手で、えっと、優しい方なんですよ」

「そう、ずいぶんと信頼してらっしゃるのですね……」


 魚名は抑揚のない声で相槌を打つ。

 そのとき、どこからか暴れるような騒音が芒の耳朶を打った。


「え、え? 何の音ですか?」

「あぁ……お父様です」


 吃驚する芒に対して、心底興味が無い様子で魚名が答える。


「昨日催された歌会の勝負で、いい歌を詠めずに負けたそうです。日を跨いでもまだ気が立っていらっしゃるなんて、困った父です」


 まるで他人のように言い放つ魚名は言葉を続けた。


「でも、昨日の方がひどかったのですよ。帰ってきたときなんてお顔が真っ青で、ふふっ、まるで死人かと思いましたもの」


 そう言って、彼女はうっそりと笑う。

 その顔には、滑稽だと書いてあった。


「――そういえば、かつて同じような家がありましたね。たしか……波久礼はぐれ家だったでしょうか」


 その名は、教養がない芒でも知っていた。といっても生まれる前の出来事なので、かろうじてという程度だが。

 波久礼家とは、かつて央都に住んでいた上流貴族の名である。魚名の父と同じく歌会の席で相手貴族に破れ、その悲しみによって当主が屋敷に火を点け自死を計ったのだ。ただ歌詠みで負けただけでと馬鹿馬鹿しく思うが、髪の色などにこだわる上級貴族様にとっては大変なことなのだろう。だからといって、己の子どもや臣下たちまで巻き込む必要はないが。

 親から聞いた話を思い出していると、魚名がつんと芒の肩を優しくつまむ。


「失礼。塵がついていましたので」

「……あ、ありがとうございます」


 魚名は塵をつまんだ手を下ろすと、芒に頭を下げた。


「鬼食い様、こちらが招いたというのに、こんな騒音をお聞かせして申し訳ございません。お恥ずかしい限りですが、本日はお引き取り願っても?」

「ええ、それは大丈夫ですが……というか、わたしなんかに頭を下げないでください」


 芒は慌てて承諾し、魚名に頭ををあげるよう頼む。すると、彼女は小さく笑って元の姿勢に戻った。

 その笑みが、何だか今にも砕けそうに見えて、思わず芒は口を開く。


「――魚名様、一人で大丈夫ですか?」


 その問いに一瞬驚いたような顔をした魚名だが、再度口元に笑みが浮かべた。


「はい、慣れっこですから」


 少し心配ではあったが、芒は従うほかない。こうして天平家の屋敷を後にした。

 でも、後悔することになるのだ。やはり、魚名のそばにいればよかった、と。


 芒が悔やんだのはその翌日のこと――魚名が失踪したと聞いたときだった。

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