弐、包み焼き河童もどき
屋敷内に入り、廊下を駆けて、どうにか転がり込んだ間は、やけに殺風景な場所だった。
枯れた巨木がすぐ外にあるため、日も入らないし、ろくに景色も楽しめない。
だが、人がいた痕跡はあった。読み途中の本や、食べ終えた器が乗った膳も放置してある。
いったい何の部屋なのか、と思っていると、弱い力で胸元を叩かれる。そこで芒ははっとした。
そうだ。周囲に人の気配はしないし、まずは彼女を降ろしてやらなければ。
「申し訳ございません。大丈夫ですか?」
庭での会話も少々語気が荒かったと自覚しているため不安に感じ彼女の顔色を確認すると、可愛らしい顔は真っ赤に染まっていた。驚いた芒は、魚名の背をさすりなが問う。
「すみません、苦しかったですか?」
「そ、それもですが……そういうわけでなく……」
そうであり、そうではない。どういう意味だ、と疑問に思っていると、魚名は震える小さな口を開いた。
「……お、鬼食い様は、誰にでもこのようなことをするのですか?」
「へ? 誰にでも、ですか?」
思わず聞き返してしまう芒に、こくん、と魚名は小さくうなずく。
「いや、今回だけですけど……」
まずこのような状況がそう頻繁に起こることではないし、上級貴族を抱えることもない。言うなれば、今回だけ異例なのである。
その答えに、魚名はさらに顔を赤くした。まるで恋する乙女のようなその反応を、芒は食い入るように見てしまう。
自分に足りないのはこういう仕草や可愛らしさかもしれない。
しばし凝視していると、魚名は急に何か気づいた様子で慌てだした。
「あ、ひ……ご、ごめんなさいっ。こんな、汚い間でっ……」
何度も芒相手に頭を下げる魚名。そんな彼女を止めながら、芒は気にしないと首を振る。
「そもそもどこでもいいと転がり込んだから入ってしまった部屋ですし。むしろ謝罪するのは私の方です。礼儀も何もなくて申し訳ございません」
「れ、礼儀なんて必要ないですっ」
「必要でしょう。まずは屋敷の方にご挨拶してから――」
「ほ、本当に必要ないのですっ。だってここ、私の部屋ですからっ」
――は?
声には出なくとも、顔には出てしまっていたらしい。魚名は苦笑しながら、「驚きますよね」と言った。
いや、驚くどころではない。ここは百歩譲っても上級貴族の姫君にあてがわれる部屋ではないのだ。どちらかと言えば物置などに近いだろう。
そう考え、先ほど廊下を駆けたときのことが脳裏によみがえる。
誰とも、すれ違わなかった。女房とも、使用人とも。そんなことがあるか?
「……あの、大変失礼なのですが、魚名様の女房は今どちらに?」
この屋敷の異様さを問うと、魚名は前髪に隠れた目を泳がせた。
「に、女房たちは、歌会中です……。近所の屋敷の、女房と一緒に……」
「歌会だろうが何だろうが、最低一人はおそばにいるのが仕事でしょうに」
「い、いいのです、慣れてますからっ。それに――」
魚名は自分の髪を一房つまんで、芒にも見えるよう掲げる。
「――この髪だから、しかたないのです」
その髪は、毛先だけが別物のように茶色に染まっている。彼女の言うことが理解できたと同時に、芒は胸糞悪くなった。
上級貴族は黒にこだわる。髪と瞳が黒でないと、
そう、つまり、彼女はこの髪のせいで女房たちから貴族と認められずひどい扱いを受けているということだ。
「……このこと、お父上はご存じなんですか?」
眉根を寄せた芒の問いに、魚名は首肯する。
「し、知っています。この部屋をあてがったのも、お父様ですし……。あと、お父様もこんな変な髪の私を嫌っているから……」
やはりだ、と頭を抱えたくなった。
魚名の父――天平家の当主もこの現状を知っている。だが、そのうえで放置している。
おそらく、最低限の女房や使用人しかこの屋敷には配置していないのだろう。庭でも廊下でも、女房や使用人を見ないのがいい証拠だ。
上級貴族と認められない魚名にはろくに女房をつけず、仕える者たちでさえ己の歌会を優先する。
ただ、毛先が黒くないだけで。
そう思ったとき、やけに赤い魚名の指が目に入る。
仮にも自分の部屋だというのに、居づらそうな表情をして左手に爪を立てていた。血が出るほどではないにしろ痛そうなことに変わりはない。だが、それよりも芒が気になったのは彼女の指先だ。小さな爪はがたがたに歪んでいて、甘皮部分は血がにじんでいる。
無意識に自分で傷つけてしまったのだろうその指を見て、芒の顔が歪んだ。
「お、鬼食い様、いかがしたのですか……?」
そんな芒に気づかないのか、魚名はおずおずと声をかけてくる。
彼女にとってはこれが日常だ。鬼食いである自分が首を突っ込んだところでどうにもできない。
だが、魚名の隠れた目元や呼び方が、芒にある人物を思い出させる。
それに、だ。この状況を見て見ぬ振りするのは、寝覚めが悪い。
芒は肺の中が空になるのではないかと思うほど息を吐き出す。そして大きく吸い込み、魚名をまっすぐに見つめた。
「……わたしは秋月様の鬼食いですので魚名様の女房にはなれませんが、鬼食いとしてできることなら力になります。ですから、いつでもお声がけください。もちろん、文での呼び出しでも構いません」
そう告げると、魚名はしばし固まり、次いで満面の笑みを浮かべた。
「まぁ、まぁ、まぁ! うれしいです、鬼食い様っ! 本当に、ありがとうございますっ」
前髪の隙間から見える瞳に涙をにじませ喜ぶ彼女に、敬称も敬語もやめてくれ、と伝える。すると、魚名は何度も首を振った。
「いけませんっ。このままがいいのですっ。あなたの名を呼ぶに相応しい者となるまではどうかこのままで……」
そこまで言われてしまえば、芒は折れるしかない。
しぶしぶ許可を出すと、魚名はぱっと花が咲いたように微笑んだ。そして唐突に、
「鬼食い様、空腹ではありませんか?」
と、尋ねてくる。
「厨に行ってご飯をお願いしてきましょうっ」
「ちょ、ちょっと待ってください。何で急にご飯なんですか?」
厨に向かおうと廊下に出た魚名を引き止める。急な話題変更に芒はついていけなかった。
すると、魚名は頬に手を当て、照れたように小さく言葉を紡ぐ。
「……じ、実は、歌会で見たとてもおいしそうに食べる鬼食い様のお顔が好きで……」
そう素直に告白され、芒は少々気恥ずかしくなる。が、嫌な気持ちではない。
「では、厨までお供します」
それから、魚名のところへお邪魔する機会が増えた。
どうやら芒が訪ねるたびに大量のご馳走を準備してくれているようで、帰るころには必ず腹がはち切れんばかりになっている。
高級食材を使ってくれているのだろう、味は言わずもがなだ。しかし、如何せん量が問題だ。
――今日も今日とて、その状態である。
「いかがです? 鬼食い様が東部出身だとおっしゃっていましたので、東部の特産品であるお漬物をたくさん取り寄せたのですっ。おかわりもたくさんありますから、いつでも言ってくださいねっ」
そう言って、魚名は晴れやかな笑みを見せた。
「わ、わー、うれしいです。ありがとうございます……」
頬を引きつらせて礼を言う芒は、正直もう味がわからなくなっていた。
彼女が思うこと。それは――米がほしいということである。
さすがに大量の漬物をそれのみで食べるのはきつい。漬物って大抵米と一緒に食べるもんだぞ。
だが、自分のことを思って準備してくれたのだ。漬物だけだと辛いから米をくれ、と言うのも悪いだろう。
そんなことを考えている中、ものすごい視線を感じた。この部屋には芒と魚名しかいない。当然、魚名の視線だ。
芒が咀嚼している姿をじっと見てくる。次いで、かりかり、ぽりぽりという咀嚼音にも耳を傾けているようだ。嚥下するときには、視線が喉元に向く。
た、食べづらい……! もうこの一心だった。
恐る恐る魚名の方へ目を向けると、視線がかち合う。
「……ね、鬼食い様。おいしいですか?」
頬を赤く染めてそう問うてくる魚名に、芒は小さく「……はい」と答えた。
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