肆、雪兎の削り氷

「……彰子しょうし様。妖に、憑りつかれているんですか?」


 尋ねたところで正直に答えてもらえるわけないのに、芒の口は動いていた。

 すると、彰子はどこか納得したように何度かうなずき言葉を紡ぐ。


「……妖? あぁ、そう、妖。なるほど、そういうことだったのね」


 要領を得ない答えに眉をひそめると、「気にしないで。こっちの話よ」と笑みを浮かべた。そして、ずり、と座ったまま芒に近づく。

 一歩遅れて、芒は腰を浮かして後ずさった。匂いのせいで頭も身体もうまく働いていない芒の反応が面白いのか、彰子はくふくふと可愛らしい笑い声をもらす。


「ねぇ、悪いようにはしないわ。私についてきて? 見せたいものがあるの」


 そう言って彰子は立ち上がった。小さいとは思っていたが、芒の腰ほどしかない。そんな彼女が、芒の手に自分の指を絡めた。


「こんな状況で、素直にうなずく方が珍しいと思うのですが……」

「強気ね。好きよ、そういうの。……でも、あなたはきっとついてきてくれるわ」

「どうしてそう思うんです?」

「理由はないけど……そうね。しいて言うなら、今この瞬間に逃げようとしないから、かしら?」


 彰子は試すような目つきで芒を見上げる。


「十にも満たない女の手なんて、いつでも振り解けるはず。でもあなたはそれをしない。優しい子。口ではどうこう言っておきながら、思いのほか好奇心が強いのね。それとも、抵抗できない理由でもあるのかしら? さっきから動きも鈍いものね」


 的確に言い当てる彰子に思わず歯嚙みする。

 芒が抵抗できない理由――それは、妖の味を知ってしまったからだ。

 普通の食事とは違い、中毒性があるあの味。脳に直接襲いくるこの匂いを嗅いでしまえば、鳴りを潜めていた妖への食欲が湧き上がる。簡単に言えば、癖になってしまったのだ。

 芒は唾を飲み込み、触れられている手から力を抜いた。




 彰子の小さな手に導かれ、芒の足はある部屋へと向かった。

 立葵が描かれているふすまがきっちりと閉められている。なのに、なぜかその部屋から冷気を感じた。

 今日は暑いのに、どうしてここはこんなに寒いのか。それに、人の気配が一切しない。そういえば、ここに来るまでも使用人にすれ違わなかった。

 その思いが顔に出ていたのか、彰子は「ここは使用人の出入りを禁止しているの」と告げる。

 より一層濃くなった甘ったるい匂いのせいで頭が回らない。芒は子どものような素直さでうなずくことしかできなかった。


「開けるわね。少し驚くかもしれないけど、襲ってきたりしないから大丈夫」


 そう言ってゆっくりと開けられた襖の隙間から真冬の寒さが這いずり出てくる。吐く息が白い。


「――あ、」


 そして、部屋の中を視界に収めた瞬間、意味のない言葉がこぼれ落ちた。

 そこにいるのは、人間だ。

 小袖こそで湯巻姿ゆまきすがた――この家の使用人が身を包んでいた服であることがかろうじてわかる。

 なぜかろうじてなのか。それは、霜が降りた葉ように、表面が白くなっていたからだ。


「……こ、これは、」


 ――何ですか。

 そう問えば、彰子は当たり前のように答える。


「人間を蒐集しゅうしゅうしたの」

「蒐集……?」

「そう。美しい姿で留めておきたいと思うのは、人間の本能だから」


 すい、と敷居を跨いだ彰子は、盆を持ったまま固まっている使用人の女性に近づいた。そして、凍った指を愛おしそうになぞる。


「この娘はね、お盆を持つ手が素敵だったの。少し不器用だったけれど、それすらもこの手の美しさを引き立てていたわ」


 次いでそこから三歩進み、胸元をはだけさせた女性に近づく。


「この娘はそれはもうきれいな胸の形をしていたの。もはや芸術的だったわ」


 次、そのまた次と、彰子は凍った人々の紹介をしていく。

 芒は、ただ呆然と見ていることしかできなかった。言葉はわかるのに、脳が理解を拒む。

 そんな芒に気づいたのか、彰子はこちらに歩み寄り、唇に手を這わせた。びくりと肩が震える。


「芒、あなたの口もきれいよね。お菓子を食べているとき、思わず見入ってしまったわ。あぁ、でも――」


 彰子は悲しげに眉を下げた。


「――私が良いと思ったのだから、あの人も気に入ってしまったわね。だって私たち、好みがよく似ているもの」

「な、に言って……」


「――この部屋を見たなら、感想をもらわねばならないな」


 芒でも彰子でもない、男の声が耳朶を打つ。

 弾かれたように振り向くと、そこには薄い笑みを浮かべた行平が立っていた。

 声も出せずに固まっていると、行平がある女性指さす。爪を見せるような形で、手を前に出していた。

 それから視線を逸らせない。すると、行平は一つ息をついた。


「紫の知り合いというのはやはり嘘だったか」


 大方あの子が文でも出したのだろう、と言葉を続ける。


「今君が見ているあの娘、あれが紫だ。初対面だからわからなかっただろうがな」

「――な、」

「爪がきれいな娘でなぁ。雑用で欠けてしまっても困るから、保存しておいたのだ」

「ほ、ぞん……?」


 人間にはあまり使わない言葉だ。思わず復唱してしまう。


「そうだ。爪も生きているからな。切れば伸びる、若ければつやが出る、髪と同じだ。だったら、若くきれいなうちに保存しておいて損はない」


 何を言っているんだ、この男は。

 何か言いたいのに、言葉が紡げない。ただ口を開閉させることしかできないでいると――


「――んぐッ⁉」


 突然、口内に指を突っ込まれる。

 身を屈めてまじまじと芒の口を観察をする行平は、やっぱりだ、と何度もうなずいた。


「君が大広間で大福を食していたときから思っていたのだ――なんって、美しい歯並びだろうと!」

「う、おぇっ!」


 ぐちぐちと口内で指が暴れるたびにえずく。そのせいであふれた涙は、芒の視界を不鮮明にした。


「大丈夫、怖がらなくてもいい! 冷たいのは一瞬だけだ! ほかの者と同じく、きれいに保存しておいてやるからな! な!」


 興奮が抑えきれないその声に背筋が粟立つ。

 そのとき、行平の肩で何か白いものがうごめいていた。また、ぶわり、と甘ったるい匂いが強くなる。すると、次第にぼやけていた白い輪郭が鮮明になった。

 ――兎だ。

 もちろん本物の兎ではない。雪の日にしか作れない、白い――雪兎。

 耳を模した笹と異様なほど赤くきらめく南天なんてんの目。

 こんな時期に少しも溶けず、あまつさえこちらを凝視しているその姿に、本能的な恐怖を感じた。


 ――こいつだ。


 そう直感があった。


 ――この兎が、妖だ。


 だが、わかったところでどうにもならない。芒は陰陽法師ではない、ただの鬼食いだ。太刀打ちする術がない。

 すでに冷えすぎて、口内の感覚もなかった。捌を呼ぼうにも、舌が凍って声が出せない。呼吸も苦しくなってきた。

 死という言葉が芒の脳内を掠めた刹那、風切り音と共に行平の腕に矢が刺さる。

 それを芒が理解したと同時に、行平の絶叫が屋敷内に響いた。

 口内から指が抜け、息がしやすくなる。

 矢が飛んできた方向へ顔を向け、


「――も、守矢氏⁉」


 と、矢を射った者の名を呼んだ。

 天井近くに浮いていた彼は、芒の隣に降りてくると両手の親指を上げ応えてくれる。

 なぜここにいるのか知らないが、助けてくれたことはたしかだ。未だ掠れる声で礼を言うと、気にしないで、とでも言うように手を雑面の前で振った。

 そして、呻き声をあげる行平に向かって矢をつがえ、けん制の構えを取る。


「……何してる彰子! 早く、早く彼女を保存してあげなさいッ!」


 袖は血に染まり、うずくまって脂汗をにじませる行平は叫んだ。

 手足が無いため、床に転がったまま動けない雪兎も何かを言っている。


「今このときにも! 彼女の美しい歯は歳をとっていく! 今この瞬間が一番若く美しいんだッ‼」

「ぶぅーッ■■■ッ、■ぶぅッ‼ ぶッ■■■ーッ‼」


 壁が揺れるほどの叫び。鼓膜が破れそうだ。そう思ったとき、


 ――とん


 と、軽い音が鳴った。

 それと同時に、二つの醜い叫び声がぴたりとやむ。

 視線の先――雪兎の胴体を貫いているのは、丁寧に手入れされた切り付け包丁。

 その持ち主を、芒は知っている。

 視線を上に滑らせれば、肩で息をする捌がいた。


「……このっ、お屋敷、でかすぎっ……すっごい迷った」


 よく見れば、玉の汗が流れ落ちている。


「は、捌ど――」

「――相棒っ、ご無事⁉」


 食い気味で確認されたことに驚きながらもうなずく。

 守矢のおかげで、と告げると、


「あー、やっぱり相棒の方に憑いてってもらって正解だったー……」


 と、捌は安堵の息をついた。

 どうやら捌は、守矢に芒の護衛を頼んでいたらしい。本当にまずい状況になったら実体化するように、と。


「――で、何があったの? この部屋も中々の趣味だし……」


 少々引き気味に問う捌に、これまでのことを説明する。

 今回は甘い匂いがしたことも、もちろん報告した。すると捌は茶化すように、さすが、と芒を褒める。


「前回同様、妖を見つけるのが上手いね」

「見つけたくて見つけてるわけじゃないんです。何か匂いがするから……」

「鬼食いの訓練頑張った証拠じゃん? もっと胸張りなって」


 軽口を叩く捌のおかげで、恐怖心が薄れていることに気づく。

 密かに感謝していると、廊下からつんざくような悲鳴があがった。

 主人の叫びを聞き、使用人たちが駆けつけたのだろう。青い顔で血を流す行平に吃驚していた。その背後にあるこの部屋の全貌を視界に入れた瞬間、声すら出なくなっていたが。


「大丈夫、これくらいじゃ死なないよ」


 捌は落ち着いた声音で、使用人に言い聞かせる。


「なので、検非違使様を呼んでもらえます?」


 使用人は何度もうなずくと、足をもつれさせながら走って行った。

 さて、と行平に話を聞こうとする捌だったが、


「……我はただ、美しいままとどめようと……それは人の本能であり、性であるから……」


 と、虚ろな目でつぶやく彼を見て困ったように口を噤んだ。

 芒は青鬼の宿主だった幸也を思い出す。

 彼も青鬼が退治された後、何の感情も灯っていない目をしていた。

 妖は宿主の負の感情を餌に力を蓄えるという。それで心の奥底に眠る願いを叶えるのだから、もはや一心同体のようなものなのかもしれない。憑りついていた妖が退治されれば、その人自身は伽藍胴となってしまうのかも。

 行平から話を聞くことを諦めた捌は、彰子に顔を向ける。


「旦那様が話せない状態なので、どういうことか代わりに説明してもらえない? 娘の彰子氏」

「――え⁉」


 思わず声をあげてしまう。


「彰子様は行平様のお孫様でしょう⁉」

「そう聞いてたけどね、実際は違ったみたい。立花家に孫はいないし、一人娘はまだ嫁に行ってないって」


 理解が追いつかずとも、不思議なことに納得はできた。

 彰子の大人びた話し方、やけに色っぽい微笑みと触れ方。あれらの行動は、中身が大人の女性だったからこそのものだったのか。

 彰子の黒い眼が芒に向く。


「必要以上に騒がない。好きよ、あなたのそういうところ」

「……誤魔化さないでください」

「誤魔化してなんかいないわ。あなたの感じた違和感が、ようやく種明かしされる、それだけでしょう?」


 何も言わずに彰子を凝視する芒。彰子はそんな彼女に笑みを送った。


「私の身体ね、九つのころで止まっているの。どこもかしこも子どもまま。……まぁ、中身だけは変わらないけれど」


 凍った使用人の元へ近づき、彰子は息をつく。


「なぜ成長が止まったのか、理由はわからないわ。最初は怖くて、不安で、きっともう死ぬとさえ思っていたの」

「行平様に相談はしなかったんですか」

「したわ。でも相談したら、恐怖なんて吹き飛んだ。だって父様ったら、大変だって慌てながらも、どこか安堵しているんですもの」


 きゃらきゃらと笑い声をあげながら、彼女の話は続く。


「私は死んだ母似でね。父様は母のことをそれはもう愛していたから、そんな彼女によく似ている私の成長が止まったことで、その美しさを留めておけると思ったのでしょう。さすがに娘は無理があるから孫と嘘をついていたけどね」


 彰子は虚ろな目をした行平を見下ろす。


「ね、父様?」


 答えが返ることはないとわかったうえで、彰子は父を呼んだ。

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