百合香の父(後編)

 ある日の放課後。はるちゃんに部活を休むことを伝えて一人向かったのはとある喫茶店。入り組んだ路地裏にひっそりと佇む、レトロな雰囲気の喫茶店だ。平日の昼過ぎだからか、あるいは普段から客入りが少ないのか、中は閑散としている。本当に営業しているのかどうかも怪しい。一応、扉にかけられた看板は営業中になっているが、店主は暇そうに新聞を読んでいる。父が待ち合わせ場所に指定した店は本当にここで合っていたのか不安になり、アプリの会話履歴を開いて添付されている地図を確認していると「百合香……だよね?」と、自信なさげに私の名前を呼ぶ男性の声が聞こえてきた。その声が父の物であると確信は持てなかったが、どこか懐かしさは感じた。振り返り見上げた顔は、私の知る父より少し老けていたがすぐに父だと分かった。


「……久しぶり。百合香。……昔の小百合にそっくりだな」


「よく言われる。お父さんは老けたわね」


「老け……ま、まぁ……そりゃ……最後に会ったのは、小学生入る直前くらいだったから……」


「話は中でしましょう。私、ここ探すのに迷って歩き回ったから疲れちゃった」


「わかりづらいところにあるもんねぇ」


「もう。なんでこんなわかりづらいお店指定してくるのよ」


「百合香にもここのカツサンド食べてほしくてね」


 そう言いながら店に入って行く父の後について入店する。暇そうに新聞を読んでいた店主は父を見るなり「いつものでいい?」と問う。


「あ、はい。百合香、なんか食べたいものある?」


「お父さんのおすすめで」


「じゃあいつもので」


「はいよ」


 注文を聞いた店主はキッチンに入って行った。いつもので通じるくらい通い慣れているらしい。店内は他に客はおらず、店主の男性以外に店員もいないようだ。キッチンからカツを揚げる音が響いてくる。


「……私、揚げ物はあまり食べないの」


「えっ、苦手だった?」


「ううん。……お母さんが、太るの気にしてあまり食べないから。私もなるべく、食べたいって言わないようにしてた」


「ああ……そうなんだ……」


 母別に太ってはいない。むしろ標準よりは細い方だ。しかし小学生の頃は少々ぽっちゃりしていて、そのことがコンプレックスだったらしい。きっと私にも同じ思いをしてほしくなかったのだろう。揚げ物などカロリーや脂質が高いものは禁止とまではいかないが、たまにしか食べさせてもらえなかった。女の子らしくしなさいとか、太らないように気をつけなさいとか、同性愛者にならないようにとか、母が私にかけた呪いはきっと、全て母が誰かからかけられてきたものだったのだろう。なんとなく分かっていながらも、今まではそれに従ってきた。だけど海菜との一件以来は母もほとんど言わなくなった。食事には相変わらず厳しい。それは過去のトラウマから見た目を気にしているという理由が大きいかもしれないが、健康に生きてほしいという思いも少なからずあることは確かだ。なので、従える範囲では従うようにしている。

 母と本音をぶつけ合ったあの日以来、意見が対立してぶつかることが増えた。だけどお互いに本音を言えなかった頃よりは健全な関係を気付けていると思いたい。


「ここ、お母さんとはよく来るの?」


「うん。別居始めた後も、会う時はいつもここ」


「ふぅん。……兄さんも、来てるの?」


「うん。葵も連れて三人で来る日もある」


「……そう」


「……葵の連絡先は知ってるんだよね」


「ええ。海菜の従兄が同じ学校に通ってたらしくて。そこから繋いでもらって、今度の日曜日に二人で会う約束してる」


「そうなんだ……海菜ちゃんの従兄か……」


「兄さんの二個上の安藤あんどう和希かずきさん。兄さんと生徒会で一緒になったことがあるそうよ」


「へえ。海菜ちゃんは生徒会とか入ってないの?」


「生徒会は入ってないけど……入学式の時に学年代表で挨拶してた」


「ああ。そういえばしてた気がするかも。あれ、海菜ちゃんだったか」


 なんだか実際に入学式を見たような言い方だ。来ていたのかと問うと、気まずそうに頷いた。


「……駄目だった?」


「別に。……そう。来てたのね。もしかして、中学の卒業式とかも?」


「……うん。ずっと居たよ。保護者席に。運動会とか文化祭は行ってないけど、入学式と卒業式だけは参加してた。葵は流石に学校あるから連れて来てないけど」


「……そう。……気づかなかった。全然」


「小百合も葵の入学式とか卒業式は来てたよ」


「それは知ってる。……お父さんは、これからどうしたい?」


「どうって?」


「また四人で一緒に暮らしたい?」


「うん。僕は出来るならそうしたいよ」


 母にも同じことを聞いた。父と同じ答えが返ってきた。だけど私は賛同できない。


「……百合香は、また僕達と一緒に暮らすのは嫌?」


「嫌……というか……もう離れているのが当たり前になってしまったから。今更一緒に暮らしたいって言われても……正直困る。……お父さんのこと、まだ許せていないし」


「……そうか。そうだよね。それでも会ってくれてありがとう。それから……すまなかった」


「うん。許すとは、まだ言えないけど……謝罪は受け取っておく」


「……うん。ありがとう」


 話が一区切りついたタイミングを見計らったように、お待たせしましたと、店主がとんカツサンドとミックスサンドをテーブルに置く。飲み物はアイスコーヒー。これが父と母が注文する"いつもの"らしい。サンドイッチはそれぞれ四切れずつ皿に乗っていて、母と来た時はそれを三対一の割合で分けるとのことだが、今回は半々にしてもらった。


「他のものは食べないの?」


「基本的に小百合はミックスサンドしか食べないね。僕は日によってエビカツだったりチキンカツだったり照り焼きチキンだったりするけど」


「お父さんは意外とガッツリ系が好きなのね」


「意外かな」


「意外。サラダ系のイメージ」


「百合香は?」


「本当は私もガッツリ系が好き。……だと思う」


「だと思う?」


「……ずっとお母さんの思う正しさに従って生きてきたから、自分の本当の好みってよくわからないの」


「スペースレンジャーズは?」


 ウルトラ戦隊スペースレンジャーズ。私が昔好きだった戦隊ヒーロー。特に好きだったのは主人公のレッドではなく、元敵幹部のブラック。私が引き出しの中に隠した人形もそのブラックだった。捨てられずに残った唯一の人形。父が守ってくれたと私は思っていたが、父は首を横に振った。


「多分、その一体だけはどうしても手放せなかったんだと思う」


 昔の私なら父のその言葉を信じることは出来なかっただろう。だけど今の私はすんなりと納得できる。母が私を想う気持ちは嘘ではないと、今はもう頭ではなく心で理解出来ているから。


「今も持ってるの?」


「うん。机の上に飾ってる」


「そうなんだ。子供の頃は聞けなかったんだけどさ、百合香はどうしてブラックが好きなの?」


「どうして……」


 父に問われ、改めて考える。スペースブラックは悪の組織を裏切り、スペースレンジャーズの一員になる。だけど愛した人を人質に取られ、再び悪の組織に戻りスペースレンジャーと敵対し、最終的には組織によって化け物にされてしまった最愛の人を巻き込んで自爆してしまう。『俺にはやっぱり正義より悪の方が向いてるみたいだ。あばよ。スペースレンジャーズ。彼女の命はこの俺がもらっていくぜ』と悪役らしく笑って。全体的な物語はぼんやりとしか覚えていないが、彼の最期だけははっきりと覚えている。今思えば子供向けとは思えない重さだ。


「……死に様がカッコいいから?」


「ああ……子供向け作品とは思えない重さだったよね」


 父曰く、ブラックが死ぬ回が放送された翌日、私はあまりのショックで幼稚園を休んだらしい。そのことは覚えていないが、それ以降スペースレンジャーズを見なくなったことはなんとなく覚えている。母は確か、それを理由に私の人形を捨てた。『じゃあこれももう要らないわね』と言って。それから数日経って、机の引き出しを開けたらブラックだけが残っていた。それ以来彼はずっと引き出しの中に隠れていたが、今はもう隠れる必要はない。


「……良かったら、この子達も百合香の机に一緒に並べてあげて」


 そう言って父がテーブルに並べたのはスペースレンジャーの人形。レッド、ブルー、イエロー、グリーン、ピンクの五人。ブラック以外のメンバーが全員揃っている。


「これって……私の? 捨てたんじゃなかったの?」


「ううん。ずっと僕が預かってた。いつか君に返そうと思って」


「そう……だったの。……ありがとう。守ってくれて」


「……ううん。僕は守れなかったんだよ。君のことも、小百合のことも。君に全て押し付けて逃げ出した」


 自分を責める父に、そんなことないよと言ってやることは私には出来ない。父が兄を連れて逃げたのは事実だから。だけど、私は捨てられたと思ったことはなかった。距離を取る選択をしたのは家族を守るためだったと、今は理解している。それはそれとして、幼い子供に大人のケアをさせるのはどうかしてると思う。毒親と言われても仕方ないことをしたと思う。だけど、それでも私は、父を許したいと思っている。だから今日、会いにきた。そんな想いを包み隠さず父に伝える。父の目から大粒の涙がぼろぼろと溢れる。釣られて溢れそうになる涙を堪え、カツサンドを口に入れる。


「……お母さんのこと見捨てないでくれて、ありがとう」


「それはこっちの台詞だよ」


「うん。死ぬまで一生感謝して」


「言われなくても、感謝してもしきれないし、一生かけて償うよ」


「お父さんがじゃなくて、私が死ぬまでよ?」


「ええっ。僕の方が先に死ぬと思うけど……」


「駄目。私より長く生きて」


「む、無茶言わないでよ」


「冗談。でも、それくらいの気持ちでいて。それと……たまには、私にも会いに来て。もう会いたくないなんて言わないから」


「分かった。最低でも週一回は会いに行くよ」


「いや、そんな頻繁に来なくていい。月一で充分」


「それでも会いに行く」


「置いて行ったくせに。勝手な人ね」


 なんて悪態をついてみせるが、口元は緩んでしまう。父は許せる日はもう少し後になると思っていたが、案外近いのかもしれない。

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2025年12月30日 00:00
2025年12月31日 00:00

海菜と百合香の話 三郎 @sabu_saburou

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