第16話 ムーンリバー計画の裏側
大磯に到着したのは二十一時を少しばかり過ぎた頃だった。由美子の住む家の近所は、昼間もそうだったが、夜になるとさらに人気がなく、民家の窓から漏れる灯りと街灯の光しかなく侘しかった。
「奥様はすぐにお見えになられます」
由美子の家へ行くと、昼間はいなかった中年女性のお手伝いさんに居間へ通され、深々としたソファに座らされて、天王寺と月丸はしばらく待たされた。
「お待たせ」
ヒョウ柄のナイトガウンを着て登場した由美子に、天王寺は目を奪われた。月丸も圧倒されている様子だった。こんなにも派手好きでアクの強い母親と、奇妙奇天烈な父親から、どうして空のような清廉とした子どもが誕生するのか。生命の神秘に驚かされる思いだった。
「それで、空の日記が見つかったとか?」
「はい。これです」
月丸が空の日記をバッグの中から出した瞬間、由美子の顔色が変わった。毅然としていた表情が、切なさを帯びたものになる。表紙を見ただけで、それが空の持ち物であることがわかったようだ。月丸からそれを受け取ると、空押しされている名前の部分を指の腹でさすりながら、無言でじっと見つめた。やがて、ページをゆっくりめくっていく。
「間違いなく、あの子の物ね。この手帳はわたしがあげた物だから」
由美子はふっと顔を上げた。
「わたしが仕事が忙しくて、会話をする時間がなかったから、一日の出来事を書くようにと、小学生のときに日記を買ってあげたの。それ以来、毎年、これをプレゼントするのが恒例になっててね。初めてあげたときは、名前が彫り込まれてるのが大人っぽいって、あの子、とてもよろこんでた」
女優の殻を脱いで、母親の顔をしている。やはり、この人は空の母親なのだと、天王寺は納得しつつ話に耳を傾けた。
「空ちゃんが自分の娘ということは、新垣さんが妊娠したときから、西園寺さんは知ってたんですか?」
「いいえ。わたしは言わなかった。妊娠がわかったときには、あの人とは別れていたから。同時期に交際していた人と、どっちの子なのか、はっきり言ってわたしにもわからなかったし」
由美子はあっけらかんとそんなことを言う。天王寺と月丸は苦笑するしかなかった。
「でも、二歳くらいになったときには、西園寺のDNAを受け継いでるってことがわかった。好奇心が人一倍強いから。放っておいたらすぐにどこかへ行ってしまう。物怖じしない。人見知りしない。誰とでも仲良くなれる。わたしよりも女優に向いてるんじゃないかって思うくらい、感性が鋭くもあるし。とにかく、二股かけてた顔だけの男とは違って、この子は西園寺の才能を受け継いでる。それがわたしにはわかった」
「DNA鑑定はされたんですか?」と訊いたのは月丸だ。
「いいえ。そのときはしなかった。西園寺にも話はしなかった。西園寺が父親であることを、空に話したこともない。まあ、ネットで調べれば、あの人とわたしが交際してたことはわかってしまうけれどね。わたしに直接訊いてきたことはないけど、あの子も直感していたのかもしれない」
「西園寺さんが自分の父親であることをですか?」
「ええ。だから、あの月へ行く西園寺の計画に応募したんでしょうね。わたしは反対したわ。別に西園寺と会わせたくないからってわけじゃないわよ。単純に危険だと思ったから。いくら技術が発達したからって、月まで行って帰ってくるなんて。それも、高校を卒業したばかりの子が、大学を休学して半年あまりもトレーニングを積んで。その点、わたしだって世間の母親と同じよ」
同じ娘を持つ親として賛同の意を表したのか、月丸がしみじみとした顔で頷く。由美子は話を続けた。
「でも、絶対に宇宙に行きたいって言う、あの子の情熱に負けた。それに、あのプロジェクトには最初、元オリンピック選手やらピューリッツァー賞受賞者やら、世界中からあらゆる分野の超一流たちが応募していたでしょう? だから、空が選ばれることは万にひとつもないと思った。けどね」
「西園寺さんが気づいたんですか?」
天王寺が訊くと、由美子は頷きながら、空の日記の写経のページを開いて、その紙面を愛おしそうに手のひらで撫でた。
「物凄い数の応募者がいたから、たとえ天海の姓で応募したって、気づくわけがないと思った。けれど、西園寺は気づいた。空がわたしの子だと。確認のための連絡をしてきた。それから、やっぱり自分の子じゃないかと。わたしはそのときも否定した。全然、あなたとは顔が似てないでしょって一笑に付してやった。だけど、西園寺は納得しなかった。シンパシーを感じるとか言って。そのときはそれで話が終わったんだけど、それから数日してからまた連絡があった。DNA鑑定をした。空は自分の娘だという結果が出た。そう言ってきた。それから、宇宙へ連れて行ってあげたいと。今まで親として何もしてやれなかった。だから、素晴らしい体験をさせてあげたいと。熱心に言ってきた。でも、元オリンピック選手やらピューリッツァー賞受賞者たちに混じって、名もない日本人の大学生が混ざってるのはおかしくない? 自分の娘だから特別扱いしたことが知れたら、どうなるかしら? 空を連れて行って欲しくなくて、わたしは嫌味たっぷりに言ってやったわ。最もだと思ったらしくて、西園寺は反論してこなかった。自分はよくても、空が世間からのバッシングに耐えられないと思ったんでしょうね。それで、あの人は諦めたとわたしは思った。西園寺が諦めが悪くて、一度やろうと決めたことはどんな方法を使ってでも遂行する人間であることを、わたしは忘れてた。あの発表があったのは、翌日のことだった」
「だから、僕たちが……」
吐息を漏らすように月丸は呟き、天王寺のほうを見てきた。その視線に頷きながら、彼は由美子を見た。彼女は紙タバコに火を点け、ひと息長々と喫ってゆっくり紫煙を吐いた。
「ええ。話はそこに繋がる。あなたたちのような普通の日本人が候補の対象になったのは。天海空。この名前だと、ウラノス、ネプチューン、サン、三つの候補になれるのよね。これだって、当時は色々とバッシングされたみたいだけど、それが空にまで及ぶことはなかった。マスコミも、空が西園寺の娘であることには気づかなかった。帰ってきたとき、あの子がひと回りもふた回りも大きくなったような気がしたわ。宇宙での体験をうれしそうに語って。無事に帰ってきたからってこともあったけど、宇宙に行かせてあげてよかったと思った。西園寺に感謝した。……そんな裏事情があったなんて、知らなかったでしょう?」
天王寺と月丸は同時に頷いた。
「ちなみに、僕がネプチューンで、彼の双子の弟がウラノスでした」
「じゃあ、もしかして空と?」
タバコを吸おうとしていた手を止めて、由美子は眉毛を少し上げ、天王寺の顔を凝視した。
「婚約者でした。あの事故の一週間ほど前にプロポーズして」
「その日の夜、電話がかかってきた。あの子、うれしそうにしてた。宇宙に行けることが決まったときみたいに。紹介したいからスケジュール空けといてって言われた。それなのに……」
娘を亡くした傷はまだ完全には癒えていないようだった。悲しみをぐっと堪えるように、由美子はしばらく黙り込んでいると、やがて何かに気づいたように顔を上げた。
「でも、どうして西園寺は、そんな回りくどいことをして、あなたたちにこれを見つけさせたのかしら?」
月丸が困ったように天王寺を見る。彼らは、そのことを由美子にどう説明するか決めないまま、ここまで来ていたのだ。まさか、現在進行形で広海が月面で空を殺した犯人たちに復讐をしていると言うわけにはいかない。天王寺は、そのことは隠して伝えることにした。
「裏表紙の裏側を見てもらえますか」
「裏表紙の?」
不思議そうな顔をして、由美子はページをめくっていく。やがて裏表紙を開き、そこに書いてある文字を独り言のように読み上げた。
「空は、水星、金星、地球、月、火星、土星に殺された。……これは?」
顔を上げた由美子の表情は強張っていた。
「そのままの意味です」天王寺は誤魔化さないことに決めた。「西園寺さんの遺産相続の話がありましたよね?」
「宇宙へ行ったメンバーから選ぶってやつね」
「そうです。そこに書かれたメンバーは、空ちゃんが西園寺さんの娘であることを知った。自分たちがただ当て馬にされただけだと思い、空ちゃんが乗る宇宙船に仕掛けをして殺害したんです」
「あのぉ……」
天王寺の言葉を引き取って、月丸が口を開いたものの躊躇してしまう。
「何?」
由美子に訊かれると、月丸は天王寺を見てからまた由美子に視線を戻して、意を決したように訊いた。
「遺産のことも、ムーンリバー計画のときのように、空ちゃんに世間からのやっかみや誹謗中傷が集まらないようにするためだったんですか?」
「ええ、そうよ」
由美子は即答した。
「たしかに西園寺は最初、空に相続させるつもりだった。だけど、空は自分がそれにふさわしいかどうか、わからないと言った。莫大な資産を手に入れることで、人生が狂ってしまうかもしれない。それが怖いとも言ってたわ。ただね、奇跡的に手術が無事に済んで寿命が延びたけど、あの当時、西園寺は自分の命がいつ尽きるとも知れないという状況にいたの。宇宙開拓という夢を、唯一、自分の遺伝子を受け継いだ空に叶えてもらいたい。そのために自分の財産を使って欲しい。だから、月へ行ったときと同じ方法を取ることにしたのね。空が遺産を受け取らなければならない状況を作ろうとしたの。いわば、押しつけようとしたわけ。それを感じ取った空は、自分一人ではなく、一緒に月へ行ったメンバー全員に分配するように申し出た。それだったら受け取ると」
「え!?」
天王寺と月丸は同時に驚きの声を発した。
「知らなかったでしょう?」
由美子は頷いてタバコを吸う。
「西園寺はその提案を承諾して、そのことを発表しようとした。だけど、その前日に、空が死んでしまったの。皮肉ね。空を殺しさえしなければ、ここに書いてある人たちは、空のお陰で莫大な資産を得られたというのに」
皮肉どころではない。西園寺が一日、いや数時間でも早くそれを発表していれば、空は殺されずに済んだのだ。
「だから、西園寺さんは余計に自責の念に駆られたのですね」
樹海の中の真っ暗な洞穴を思い出しながら天王寺は言った。まともな心理状態であれば、あそこで暮らそうとは思わなかっただろう。そして、常軌を逸した精神状態だったからこそ、月面に完全移住できる基地を建てるという目標を達成できたのだとも思った。
「そうね。空の葬式が終わってしばらくしてから、あの人、わたしに会いに来た。病気の影響もあったけど、憔悴しきってやつれた顔をして、最初誰かわからなかったくらい。空が好きだった二階の部屋を守ることを条件に、この家を相続してくれないかって言われた。そのとき、ここがどんな家なのかわたしは知らなかったけど、承諾したわ。わたしが首を縦に振るまでは帰らないぞって、決心したような顔をしてたから。それですぐに生前贈与の手続きをすると、もしかしたら、もう二度と会うことはないかもしれない。西園寺はそう言った。空を産んで育ててくれてありがとう。頭を下げて帰って行った。それ以来、一度も会ってない。あの人はまだ生きてるの?」
天王寺は無言で頭を左右に振った。
「そう」
由美子は寂しそうにただひと言、そう言っただけだった。そしてまた日記に視線を落とした。
「わたしはこれをどうすればいいのかしらね」
日記を、という意味ではなく、空が殺されたという事実を警察に訴えるべきなのかどうか、という意味で訊いているらしかった。
「これは、西園寺が書いたものなの?」
何かを直感したように、由美子は天王寺を見た。この人に嘘はつけない。天王寺はそう判断した。
「いいえ。それは、僕の弟が書いたものです」
「そうだったのか?」
由美子以上に月丸が驚いた。天王寺は、彼に済まないと頭を下げるように頷いた。
「それで、あなたの弟さんは今どこに?」
そう訊いたものの、タバコの煙を払うように由美子は手を振った。
「いいわ、答えなくても。ただ、弟さんに会ったら伝えておいて頂戴。空を忘れないでって。お線香を上げに来てって。あの子、よろこぶと思うわ。人生で初めてできた彼氏だって言ってたから。わたしを反面教師にして、一途な子に育ったのよ」
「わかりました」
これを聞いたら広海はどう思うだろうか。天王寺は気が重くなるのを感じながら頷いた。隣で、泣いているのか月丸が鼻をすすった。
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