第12話 天音空の日記
まるで防空壕だな。
それが、西園寺が数ヶ月暮らしたという、溶岩洞の奥地に辿り着いたときの、天王寺の率直な感想だった。広さは二畳もなく、高さも二メートルほどしかない。携帯電話のライトを消せば漆黒の闇に包まれる。とてもじゃないが、ここで一人きり、数ヶ月も暮らしていくなんて俺には無理だ、と天王寺は思った。月丸も同じ気持ちらしい。
「うひゃあ……」
先程から顔を顰め、忌まわしいものでも見るような表情で周囲を見回している。
「何かあったかい?」
足元の穴の向こうから聞こえてくる堂本の声で、月丸はここへ来た目的を思い出したようだった。
「そうだ、西園寺さんはどうして、俺たちをここへ導いたんだろう? 調査依頼ってのは、一体何だ?」
「何だろうな?」
首を傾げつつも、想像以上に居心地の悪い場所だったため、天王寺は早々に引き上げる決意をした。時間は他の場所でも調整できるだろう。そう考えながら、演技だとバレないように注意して、壁際の土を携帯電話のライトで照らした。
「あれ、何だこれ?」
「五百円玉だ。どうしてこんなところに?」
月丸が素早く硬貨を拾い上げる。
「何かの目印なのかも」
すかさず、天王寺は言った。
「掘ってみるか」
「そうだな」
汚れ仕事は月丸にやらせよう。彼が一生懸命、土を手で掘り返す姿を天王寺は見守ることにした。
「おい、お前も手伝え」
「もう少しだ、頑張れ」
「もう少しって何が?」
「あ、いや、何か見つかるかもしれない」
月丸が怪訝な表情を浮かべる。
「わかったよ、俺も手伝う」
天王寺がしゃがみ、土を掘るのを手伝っても、月丸はまだ何かを疑うような目で彼を見てきた。
「何だよ?」
「いや、何でもない」
月丸は頭を振り、再び土を掘り始めた。そしてほどなくして、二人の指先に同時に固い物が触れた。顔を見合せ、土の中に埋まっている物を慎重に掘り出す。
「何だこれ、文庫本……手帳か?」
姿を現わしたのは、月丸が言い表したくらいのサイズ、形の物だった。彼はライトで照らしながら、片手でページをめくった。中には小さな字がびっしりと書き連ねてある。
「日記かな? 字が細かすぎて判読不能だ」
「とりあえず、外に出よう。堂本さんを待たせておくのは悪いからな」
天王寺は月丸より先に穴の外へ這い出た。
「中は掃除したはずなんだけど、何か見つかった?」
待ち構えていた堂本が訊く。変人・西園寺絡みのことなだけに、少しは興味を引かれたようだ。
「ありました」
そう答えながら、天王寺は後から這い出てくる月丸をライトで照らし、腕を取って立たせてあげた。
「ふう……」月丸は大きく息を吐き、「これです」と、手にしている日記を見せた。堂本がマグライトで照らす。月丸が表紙にこびりついた土を指の腹でこすり落とすと、右下にローマ字で名前らしきものが空押しされていた。しかし、汚れのせいで読みづらい。ページをめくると、途中までは日付ごとに数行ずつ文章が書かれてあった。本来の用途である日記として使われていたようだ。女性の手によるものらしき丸文字が書かれてある。ところがその日記は途中で終わり、数ページ空白を置いて、急に枠外に至るまでびっしりと漢字ばかりが書き込まれていた。
「どうやら般若心経みたいだね」
老眼を細めて見つめる堂本がそう断定した。
「西園寺さんが写経を?」
似合わない、とでも言うように月丸は驚いた顔で天王寺を見た。
「ああ、もう事務所を閉める時間だ」
堂本さんが腕時計を見て言う。
「行こうか。明るいところで読んだほうがいいだろうしね」
月丸は歩きながら日記を読もうとするも、途中で頭をぶつけ、集中して歩かないと危険だと察知したらしく、日記を尻ポケットにしまった。
洞穴の中に入る前はまだ薄明るかったのに、外はもう真っ暗になっていた。遊歩道の両端には等間隔に照明が設置されてあるものの、その向こうには原生林の闇が広がっていて、どこか原始的な恐怖を掻き立てられる。こういう場所に来ると天王寺はいつも、未開の地を次々と開拓していった祖先たちに対して、多大なるリスペクトの想いが込み上げてくるのを感じた。
そして宇宙では今、かつて新たな居住地を求めて人類がアフリカ大陸から飛び出したように、勇猛果敢に開拓を進めようとする人々がいて、西園寺はその最先端を突っ走っていると言えるだろう。
「きみたち、着替えは?」
営業時間を過ぎ、客用の入り口のシャッターが閉められた事務所に到着すると、堂本が訊いた。明るい場所で見ると、地面を這って進んだ天王寺と月丸の服は、すっかり土まみれに汚れてしまっていた。手ではたいたところで完全には落ちそうにない。
「あります」
こうなることを予想していた天王寺は、荷物の中にTシャツとデニムを用意してあった。
「準備がいいな」
何も持ってこなかった月丸は、裏切り者でも見るような目をして天王寺に言う。
「もしかしたら泊りがけになるかもしれないと思って、念の為に持ってきてたんだ。そんな目で見るな」
天王寺は苦笑する。
「もしよければ、着替え貸すよ」
堂本が親切にもそう言ってくれた。
「少し、中で休んでいきなさい」
その言葉に甘えて、天王寺と月丸は営業が終わった事務所の中にお邪魔することにした。
二人は着替えを終えると、休憩スペースにあるテーブルを堂本と三人で囲んだ。月丸がウェットティッシュで表紙の汚れを拭き取る。右下のローマ字がはっきり表れ、そこには、
『S.Amane』と空押しされていた。
「空ちゃんの日記?」
月丸がハッとした顔をして天王寺を見る。天音空(あまね・そら)。彼女もまた、ムーンリバー計画に参加したクルーの一人で、当時十八歳、メンバー最年少だった。
「お知り合い?」
「知り合いも何も……」
堂本の問いに月丸は言葉を濁す。
「僕の恋人です。恋人……でした」
天王寺があえて過去形に言い直すと、月丸が口元を歪ませ、同情するような表情を浮かべた。それで察したらしい。
「今は別れてしまったと?」
「まあ、そんな感じです」
天王寺が薄っすら笑うと、堂本はそれ以上、追求しようとせず、日記の表紙をめくる月丸の手元に視線を移した。『デブリ』という文字が多く目立つ。日常では見慣れぬ工学系の専門用語も多い。スペースデブリ除去のための会社を鏑木とともに立ち上げ、開発に明け暮れていた空の情熱が書き記されていた。
「凄いな。いつ休んでたんだろ。土日関係なく書き込んであるよ」
天王寺に気を遣う様子を見せながらも、月丸はそんな感想を述べながらページをめくっていく。そして、二年前の四月十七日で日記は終了していた。そこには仕事に関するメモの後、最後に『明日はムーンリバーのみんなと久しぶりに再会。わたしの誕生日を祝ってくれるみたい。楽しみ!』と書かれていた。
「これって……」
月丸が顔を上げて何か言いたげに見てきたため、天王寺は頷いた。その様子を堂本が不思議そうに見る。
「これが、何か?」
「この次の日が、彼女の命日なんです」
「えっ!? 事故か何かで?」
「事故……」天王寺は一瞬、口をつぐむ。「そうですね。そういうことになっています」
「そういうことに?」
歯切れの悪い天王寺の言葉に、堂本は不穏なものを感じたらしい。月丸を見て、また天王寺に視線を戻した。
「あ、いや、失礼。話したくない過去もあるだろうからね」
「大丈夫です」
堂本だけでなく、心配そうに見つめる月丸のことも意識して、天王寺は微笑みながら頷き、言葉を続けた。
「二年前、ムーンリバー計画に参加したメンバーが、スペースコロニーにあるホテルに集まって、彼女の誕生日パーティーを開くことになったんです。ちょうど西園寺さんが、そのメンバーの中から遺産相続人を決めると発表したばかりで、みんなその話をしたかったんでしょう。火野という男が発起人でした。僕やこいつ、それから鏑木って奴は用事があって参加できなかったんですけど、そんな事情もあって集まりはよかったみたいです」
「そういえば、そんな話があったね。一時期、マスコミが騒いでた。莫大な遺産を誰が継ぐのかって。でもあれは……」
「立ち消えになりました。西園寺さんは何も言いませんでしたが、たぶん、あのときの事故が原因だと思います」
「事故。そうか、思い出した」
納得した様子で堂本は頷く。
「大気圏に突入して、というあの事故だね?」
「そうです」天王寺は頷きながら、ぐっと唾を飲み込んだ。「空は……それが彼女の名前なんですけど、空は当時開発していた『ネメシス』という小型宇宙船の試運転を兼ねて、研究施設のある宇宙ステーションからホテルへ向かいました。そしてその帰りに事故に遭ったんです。宇宙ステーションへは戻らず、なぜか地球に帰還しようとして、大気圏で燃え尽きてしまいました」
「たしか、宇宙ステーションからの無線にまったく応答しなかったとか」
当時の記憶を辿る堂本の頭の中に、何が思い浮かんでいるか、天王寺は容易に想像できた。無線に応じなかったのは、ホテルでしこたまワインを飲んだからだ。莫大な遺産を相続する可能性がある候補者は、世間から嫉妬の目を向けられていたため、マスコミはそれの風潮を利用して、まるで空に非があったような記事を、何の根拠もないのにここぞとばかり面白おかしく書き立てた。
「僕はそう思わない。彼女はとても自制心の強い女性でした。お酒は飲むけど、取り乱した姿なんて一度も見たことはありませんでした」
「それなら、なぜ?」
「わかりません」
天王寺は無念とばかりに目をつぶって項垂れた。
「その点は僕も保証します。彼女は月へ行ったとき、まだ十八歳で最年少でしたけど、誰よりもしっかりしてました。月への移住、火星探査と夢見がちな西園寺さんに対しても、まずは宇宙にゴミを撒き散らさないシステムを構築してから、宇宙開拓を進めるべきだと、真っ向から主張してましたから」
空は決して鼻っ柱が強いタイプではなく、自分の意見を強引に押し通そうとする性格でもなかった。自分の考えをしっかり持った上で、それを相手が納得するまで論理的に丁寧に話す。頭が切れる西園寺でさえも、彼女の前では考えを翻す場面を天王寺はよく目にした。その頃から惹かれるものがあったが、当時彼は二十八歳で、相手は未成年。お互いに恋愛対象としては見てなかった。そして、月旅行した後はしばらく会う機会もなかった。ところが五年前、彼女が鏑木とともにデブリ撤去技術を開発する会社『コスモス』を立ち上げたことで、久しぶりに再会した。天王寺は鏑木とは気が合い、ちょくちょく会っていたのだ。そして、彼を通じて空と再び顔を合わせた瞬間、五年前とは違う感情を抱き、交際することになったのだった。
「けどさ……」
月丸は眉間に皺を寄せ、頭を傾げながら日記のページをめくる。しばらく空白が続き、やがて西園寺が写経したらしきページに切り替わった。
「どうして、西園寺さんが空ちゃんの日記を? それにこれ、西園寺さんが書いたのかな? だとしたらどうして、空ちゃんの日記に?」
「亡くなった家族や友人を供養するため、その人が使ってた紙を漉(す)き返した紙に写経することはあるそうだけどね」
堂本がぽつりと言った言葉を耳にした途端、月丸は何か閃いたような表情を浮かべ、ポケットから携帯電話を取り出して、何か調べ始めた。
「どうした?」
天王寺が問いかける。
「偶然かな」
と言いつつ月丸は、何か確信めいた口調だった。
「何が?」
「新垣さんの娘と空ちゃん、同い年じゃないか?」
「新垣さんというのは?」
「新垣由美子。昔、西園寺さんと交際していた女優です」
堂本にそう答えながら、月丸は日記のページを素早くめくっていく。
「西園寺さんはどうして、俺たちにこれを見せたがったんだ? 何かメッセージが書き込まれてるんじゃないか?」
彼の予想は当たった。裏表紙の裏面に、
『空は、水星、金星、地球、月、火星、土星に殺された』
写経の規則正しい字とは異なり、まるで別人が書いたように、そう殴り書きされていた。それを目にした瞬間、
「おい、これ!」
月丸は興奮して唾を飛ばし、その文面を天王寺に見せた。日記を掲げ持つ手が震えている。
「これは、一体どういう?」
話の置いてけぼりをくった堂本が、二人の顔を交互に見つめて説明を求める。
「ムーンリバー計画に参加したメンバーはみんな、太陽系の惑星や衛星にちなんだ名前の持ち主でした。西園寺さんがそうやって選抜したんです。その惑星や衛星の英語名がそのまま、コードネームとして使われました」
月丸から日記を受け取り、殴り書きされた文面を見つめながら、天王寺は呟く。それを月丸が引き取って、堂本に説明を始めた。
「つまり、ここに書いてあることが正しいとするなら、マーキュリー、ヴィーナス、アース、ムーン、マーズ、サターンの六人が、彼女を殺したってことになります」
「空の誕生日パーティーに参加したメンバーだ」
天王寺が顔を上げて言うと、月丸は酸っぱい物でも口にしたような表情で小さく頷いた。
「あの、ちなみに、お二人のお名前は?」
「天王寺です」
「というと?」
「天王星。コードネームはウラノスです」
「ウラノス……」
堂本はどこか安心したような表情になり、今度は月丸の顔を見た。
「僕は月丸です」
彼がそう答えた瞬間、堂本は「えっ」と驚きの声を上げて顔が強張り、反射的に椅子を後ろへ引いた。月丸は慌てて笑いながら手を振る。
「違います、安心してください。僕はムーンではありません」
「でも、だって……」
「宇宙へ行くためのトレーニングをするとき、ムーンの候補者はすでに決定していたんです。だから僕は、もうひとつのコードネームの候補者として選ばれました」
「え、でも、月丸さんという名字で、月以外というと?」
「丸のほうです。マルは、スペイン語で海という意味なんです」
「それじゃあ、月丸さんのコードネームは?」
「僕は」
月丸はそこで痰が絡んだらしく、咳き込んでから言った。
「ネプチューンです」
「ネプチューン……。ここに書かれたメンバーは今どちらに?」
「みんな、月にいます」
「月?」
「はい。色々と事情があって。ムーン以外は今、月旅行中です」
そこまで言ったところで、「おい」と月丸はまた何か閃いた様子で天王寺に呼びかけた。天王寺が「何だ?」と問うように視線を返すと、
「陽介が、『太陽は消された』って文章を目にしたとき、あり得ないくらい驚いてたのは、このメッセージが真実を書いているからなんじゃないか?」
唾を飛ばしながら熱弁した。その隣で、再び話の置いてけぼりをくった堂本が、不思議そうな顔をしている。
「その陽介という人も、ムーンリバーのメンバー?」
「そうです。ブラン陽介といって、今は空ちゃんが立ち上げた会社で働いています」
話の腰を折られたため、月丸は口早にそう説明すると、何かを訴えるように天王寺を見つめた。その視線によって、『空ちゃんを殺したのは、ここに書かれてる奴らなんだ』というメッセージを送っているように、天王寺の目には見えた。
「そのブラン陽介という人は、名前からして太陽、サンということかな?」
「違いますよ」
天王寺が口を閉ざして何もリアクションしないため、月丸は堂本にしっかり説明してあげる気になったらしい。彼のほうへ顔を向けて答えた。
「サンは空ちゃんです。ソラから転じてソーラーということで、サンの候補者になったんです」
「なるほど。あれ、でも、それじゃあ、その陽介という人は?」
「彼は父親がインドネシア人なんですよ。向こうの言葉でブランは『月』という意味らしくて」
月丸はそこで言葉を止めると、怒りの感情を込めた目で天王寺を見ながら言った。
「彼がムーンです」
「じゃあ、ここに書いてある?」
と、日記を指差した堂本は、天王寺の気持ちを推し量るように、指をそっと引いた。
「もうこんな時間だ」
月丸がわざとらしく柱時計を見上げながら言う。
「ワガママ言って、案内してもらって申し訳ないです。お陰で助かりました。この着替え、洗濯してお返ししますので」
さっさと立ち上がり、「行こう」と言うように天王寺を見下ろしながら、顎を出入り口のほうへ向けた。
日記を閉じて手に取り天王寺が立ち上がると、
「ああ、そうだね、今から神奈川に帰らなければならないんだったね」
話の続きを聞けず、残念そうな様子で堂本も立ち上がった。
「暗いから気をつけて」
親切に見送ってくれる堂本に礼を言い、二人はそれぞれ車とバイクに乗り込んで、その場を後にした。
しばらくジープを先頭に走っていると、道端に自動販売機が数台並んだ場所で、ウィンカーが点滅した。喉が渇いたのだろうか。天王寺はジープの後ろにバイクを停めた。
「話がある。しばらくコンビニもないから、ここでお茶して行こう。何飲む?」
運転席から出てきた月丸は自動販売機を指差す。
「自分で買うからいいよ」
「水臭いこと言うな。奢るよ、西園寺さんが」
月丸はポケットから五百円玉を取り出して、感情のない笑顔を見せた。
「じゃあ遠慮なく。冷たいカフェオレを適当に選んでくれ」
「わかった」
月丸はなぜだか神妙な面持ちをして頷くと、自動販売機に歩み寄って行った。天王寺はバイクから降りて、ヘルメットを椅子の上に置く。
ガタンッと落下音がして、自動販売機の取り出し口から月丸が缶を取り出した。
「ほらっ」
乱暴に投げてきたため、天王寺は危うく落としそうになり、ヒヤッとしながらも何とか左手でキャッチした。非難の目を向けると、そこには月丸の無表情な顔があった。
「何だよ?」と天王寺は笑う。
「ずっとおかしいと思ってたんだ」
「何が?」
その問いには答えず、月丸は自分の分の缶コーヒーを買うと、プルトップを開栓して、天王寺を見つめながら中身を飲んだ。
「何だよ?」
笑いを引っ込めて天王寺が訊くと、月丸はジープの後ろに背中を預け、じっと見つめ返してきた。そしてそのまま数秒、天王寺の顔を観察するように見つめたかと思うと、缶コーヒーを持つ天王寺の手を指差して口を開いた。
「天王寺は俺と一緒で、右利きだったはずだ」
「え?」
一瞬、天王寺は意味がわからなかったけれど、コーヒーを持つ左手を月丸が指差したままであることに気がついた。
「ああ、これ? 今のはたまたま――」
「不意打ちで、あの威力で投げられたら、普通は利き手でキャッチするもんだ」
冷静な口調で言うと、コーヒーを口に含んでから、月丸は話を続けた。
「ペンを持つときも、電子タバコを持つときも左手だった。そもそも、俺が知る天王寺はタバコなんて吸わなかった。チーズは嫌いだし、コーヒーはいつも」
そこで一旦、口をつぐんだ。彼が何を言おうとしているのか、天王寺は理解した。心の中で苦笑いした。やっぱり、こいつはさくらちゃんの父親なんだなと、その観察力を見直した。
「カプチーノでもカフェオレでもなく、ブラックを飲んでた」
月丸の言う通りだった。けれど、天王寺は最後の抵抗を試みた。
「右手で原稿を書いてたら腱鞘炎になって、左手でも書けるように訓練したら、その癖で左手をよく使うようになったんだ。習慣は第二の天性と言うだろ。食べ物や飲み物の趣味だって、しばらく会ってなければ変わる」
「ちょっと無理があるな、その言い訳は」
月丸は苦笑いする。
「俺は天王寺だよ」
「たしかにお前は天王寺かもしれない」
月丸は真顔に戻り、ジープから背中を離すと、天王寺を真っ直ぐ見つめて断言した。
「だけど、ウラノスではない。だろ?」
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