第11話 ヴィーナスの死

「着替えろ」

 EVA用スーツが置かれた部屋に到着すると、明日真はヴィーナスの尻を乱暴に蹴って命じた。ヴィーナスは前のめりに倒れ、悲鳴を上げる。

「ん? どこへ行くの?」

 西園寺の声。そうだ、ギブアップ宣言をさせなければいけないのか。明日真は銃口をヴィーナスに向けた。

「遺産相続は諦めて帰ると言え」

 ヴィーナスは悔しそうに唇を噛みしめ、口を開こうとしない。睨みつけるように明日真を見上げる。生意気な女だ。明日真は苛立った。瞬間的に頭に血がのぼった。暴力の衝動そのままに、彼女の顔をサッカーボールのごとく蹴り上げようと、思い切り右足を振った。ところが、日頃の運動不足が祟り、イメージしていたのとまるで違う情けない蹴りになった。それをヴィーナスは意図もたやすく避け、明日真の左足を払った。当然、明日真はバランスを崩し、その拍子に拳銃を手放してしまう。ふわりと宙に浮いた拳銃は優雅に放物線を描き、壁に当たってレゴリス製のベンチの上に落ちた。それを先に拾った者に生殺与奪権は与えられる。

「うわあああああ!」

 一度奪われた権利を取り返すため、ヴィーナスは獣のような叫び声を上げて拳銃に飛び掛かった。それを阻止すべく、明日真は彼女の足を掴もうとするも、手をすり抜けてしまう。その間にヴィーナスは拳銃を手にした。

「てめえ、ざっけんな、クソ野郎、ぶっ殺してやる!」

 ベンチの上に立ち、鼻血を出しながら憤怒の表情を浮かべ、銃口を下に向けようとした。ところが、そのときにはもう明日真は、ラグビー選手の要領でヴィーナスの膝に向けて、肩からタックルを食らわせに行っていた。

 パンッ!

 乾いた銃声が響く。しかし、明日真には当たらず、どうやら床に着弾したようだ。彼はそのままの勢いで肩から突っ込んで行き、壁との間にヴィーナスの脚を挟んだ。彼女の膝小僧が奇妙な方向にズレる感触があった。

「ぐああああああ!」

 ヴィーナスは叫び、明日真の肩が離れると、膝を手で押さえたまま、前のめりにベンチの上から崩れ落ちた。その拍子に床に拳銃が転がるも、明日真はそれを放っておいて、床に倒れ苦悶の表情を浮かべるヴィーナスのマウントポジションを取った。両肘の辺りを膝で押さえつけて、顔を手でガードできなくしてしまう。

「ぶっ殺すだと? 生意気なこと言いやがって」

 明日真が微笑みかけると、「ひっ」とヴィーナスは喉の奥で悲鳴を上げた。これまでになく、その瞳に恐怖の色が宿っている。

「なめんじゃねーぞ!」

 明日真は大振りでビンタをかました。鼻血が飛び散る。

「や、やめて、お願い、お願い……」

「お願いしますだろ、コラァ!」

 左手で髪の毛を掴んで耳元に怒鳴った。あまりの恐怖に、ヴィーナスは痙攣したように震え、歯をカチカチとやかましくタッピングさせた。

「お願いします」

「もっと!」

「お願いします、お願いします、お願いします……」

「誰が許すかよ、バカ女!」

 明日真は今度は右手を握りしめて思い切り殴った。ガギッと音がして、歯が折れた感触があった。拳を痛めた。けれどそれ以上に、痛めつけることに快感を覚えた。下半身が猛って熱い。

「ごめんなさい、許してください、お願いします」

 涙を流しながらヴィーナスは懇願する。そうすればそうするほどに明日真は興奮し、許す気になれなかった。次は鼻の骨をへし折ってやる。痛いだろうなぁ。自然と笑みがこぼれる。ヴィーナスの顎を左手で固定して天井を見上げさせ、右手を握りこぶしにして振り上げた。彼女は明日真が何をするつもりか気づいたらしい。

「や、やめ――」

 明日真は右手をハンマーのようにして、思い切り振り下ろした。重力が軽いために大した速度は出ない。けれど、ヴィーナスの鼻はつぶれ、『く』の字を描くように曲がり、血が大量に流れ出した。呼吸ができず苦しいらしい。明日真の下で必死に身をよじり、脱出を試みる。それが無理だと悟ると、

「人殺し! あんたが全員、殺したんでしょ! やめろ、やめろ!」

 血を吐き飛ばしながら、狂ったように喚き始めた。

「うるさい、黙れ!」

 明日真が頬を張っても逆効果で、悪霊に憑りつかれでもしたように目を見開いて叫びまくる。

「うるさい、黙れ! 黙らないと殺すぞ!」

「どうせ殺すんだろ、ロクデナシ! バカヤロー! 化けて出てやるからな、覚えてろチクショー!」

 死を前にして火事場のバカ力が出ているのか、ヴィーナスは全身を激しく動かし、明日真はまるで暴れ馬に乗っているようだった。もう面倒だ。さっさと殺してしまおう。両手で首を掴み、絞め殺そうとしたときだった。ムーンパレスの内部から「ぎゃあああっ!」と女性の悲鳴が聞こえてきた。いや、悲鳴と言い表すのでは生易しい。断末魔の叫びと形容するほうがふさわしいほど、身の毛のよだつような響きに、思わず明日真の手は止まった。ヴィーナスと目が合う。彼女は自身が殺されかけていることを忘れ、「誰の声?」と問うような表情をしていた。

 そしてもう一度、

「ぎゃあああああああ……」

 生命の最期のエネルギーを使い果たすように、尻すぼみに消えていく叫び声が聞こえた。その瞬間、明日真はヴィーナスから離れ、拳銃を手に取ってドアを見た。ムーンパレス内部へ通じるほうのドアだ。誰かが誰かを殺したのだとしたら、加害者がこちらへ来る可能性がある。ヴィーナスになど構っている暇はなかった。

「だ、誰?」

 血みどろの顔をしてヴィーナスが訊く。

「シッ!」

 黙れ、と口に人差し指を立てて制すと、明日真は音を立てないように注意しながら、ゆっくりドアを開けた。隙間に銃口を向けて、いつでも撃てる準備をしておく。しかし、ドアの前には誰もいなかった。足音を立てずに階下を見る。階段上には誰もいない。恐る恐る階段を下りた。左手側に並ぶ部屋のドアが突然開き、誰かが飛び出して襲いかかってくるかもしれない。柵に身を寄せながら、ドアに銃口を向けて警戒して下りて行き、自分の部屋の前まで来たところで、階上からヴィーナスが叫んだ。

「あれ見て!」

 振り返ると、彼女は最下層にある集会室を指差していた。

「マーキュリー!」

 そんなバカなと思いつつ、明日真は手すりに半身を乗り出し、階下を覗き見た。

「あっ!」

 思わず叫んでしまった。サターンが落下して壊れた円卓の窪んだ部分に、マーキュリーが仰向けに横たわっていたからだ。目をカッと開いて、左胸にナイフが突き刺さっている。

「どうしてあんなところにいるのよ」

 鼻から血を流しながら、苦しそうにヴィーナスが言う。そんなこと知るか、俺も知りたいくらいだ、と明日真は心の中で罵る。マーキュリーはとっくに死んでいたはずだ。

 ……死んでいたのか? 明日真は急に確信がもてなくなった。マーズの死体を安置室に運んだとき、マーキュリーの髪の毛が乱れているように思えたのは、勘違いではなかったのではないか。彼女は死んだフリをしていたのではないか。その可能性があることに気づき慄然とした。なぜなら、マーキュリーの死を断定したのはネプチューンだけだったからだ。まさか、あの二人はグルだったのか? けれど、そのネプチューンは死んだはず。それを確認するため、明日真は再び階段を下りた。

「西園寺さんでしょ! そうとしか考えられない!」

 ヴィーナスが大音量で泣き叫んでいて喧しかった。階段の一番上にいるために地下洞内に声が響いてしょうがない。

「もう遺産なんていらない! そんなもんクソくらえよ!」

 演技ではなく、彼女は本当にギブアップ宣言をした。しかし、西園寺はうんともすんとも言わない。

「明日真! あんた覚えてなさいよ! 地球に戻ったら、殺人犯だって言いふらしてやるから! あんたは大富豪になる前に豚箱に入れられるの。ザマァみろ、バァカ!」

 拳銃で撃たれない距離だからか、ヴィーナスは強気で罵ると、EVA用スーツがある部屋へ入り、乱暴にドアを閉めた。恐らく本当にイカロスに乗り込む気だろう。

 明日真は構わず階段を下り、安置室の前に差し掛かった。誰かが潜んでいるかもしれない。慎重にドアの小窓から中を覗いた。ベッドの上にサターン、床にマーズの遺体が寝そべっている。マーキュリーの遺体が移動した以外、何も変わったところはない。

 続いてネプチューンの部屋をドアの小窓から覗く。こちらも先程までと変わりはない。無惨にも首を切断された彼の死体が転がっている。試しにドアノブを回してみても、やはり鍵がしまったままだった。

 いよいよマーキュリーの死体に近づく。明日真は用心して拳銃を構えながら階段を下り、円卓へと歩み寄って行った。悲鳴はただの演技で、ここでも死んだフリをして、隙を突いて襲いかかってくるかもしれない。あるいは、貯蔵庫や西園寺の部屋から誰かが飛び出してくる可能性もある。何が起こるかわからない。何が起きても反撃できるよう、あるいは逃げられるように心の準備はしておく。そうして、逃げ腰になりながらすり足で近づき、マーキュリーの顔がよく見える位置まで来た。彼女は断末魔の叫び声を上げた瞬間にフリーズしたように、目と口を大きく開けたまま仰向けに横たわっている。胸は動いていない。呼吸はしてないようだ。絶命しているが、よく考えれば長年、女優として活躍してきた。明日真を欺くなど朝飯前なのかもしれない。

「マーキュリー?」

 呼びかけてみた。反応はない。

「マーキュリー?」

 今度は拳銃の先で彼女の足の裏を突っつく。やはり反応はない。まるで人形のようだ。生命が宿っている様子がちっとも伝わってこなかった。

 じりじりとスピーカーの雑音が鳴る。

「何してるの? マーキュリーは失格したって言ったでしょ」

 悪戯を楽しむように笑いながら言う西園寺の声。どこかでモニタリングしているのだろう。明日真は四方八方に視線を向けたけれど、カメラがどこにあるのかちっともわからなかった。

「西園寺さん、いつまで隠れてるんですか? 早く姿を見せてください。随分と元気そうじゃないですか」

 赤い扉を見つめながら明日真は言った。返事はない。と思ったら、「あっ」と何かに気づいたように西園寺の驚く声がした。そしてすぐに続けた。

「ヴィーナス、ドクシによって失格」

「は? え?」

 明日真は思わず、間抜けな声を出してしまった。

「ドクシ?」

 何だそれは。頭の中で漢字に変換しながら階段を駆け上がる。混乱していて頭が働かない。『毒死』という漢字を思いついたときにはもう、階段の最上段に辿り着いていた。

 EVA用スーツが置いてある部屋のドアに手をかけたところで、明日真はふいに警戒心が働いた。今の西園寺のアナウンスが罠だったら? 本当はまだヴィーナスは生きていて、明日真がドアを開けた途端に襲いかかってくるかもしれない。

 ドアを勢いよく開けると、素早く後ろに下がって拳銃を構えた。ヴィーナスは殴りかかってはこなかった。その代わりに、EVA用スーツをフル装備した状態で床に仰向けに横たわっていた。ピクリとも動かない。

「ヴィーナス?」

 話し掛けても、マーキュリーと同様に反応はなかった。

 明日真は拳銃を構えたまま、すり足で近づいて行く。ヴィーナスのすぐそばに立ち、銃口を向けながらフェイスシールドの中の顔を見下ろした。彼女は、口から血に染まった赤い泡を吹き、苦悶の表情を浮かべて絶命していた。

「本当に死んでるのか?」

 今の明日真に慈悲の心などありはしない。自分の身が危険にさらされないか確認するため、ヴィーナスの腰の辺りを蹴った。生きていれば痛みで我慢できないであろう強さで。それでも反応なく、明日真は拳銃を下ろしてしゃがみ、彼女のフェイスシールドのロックを外した。そしてゆっくりそれを外したところ、鼻腔を焼くかと思われるほどの刺激臭が流れ出てきたため、慌てて元に戻した。どうやら宇宙服の中を毒ガスが循環しているらしい。明日真は毒に詳しくはないが、一瞬嗅いだだけでもそれが劇物であることはわかった。鼻の中がまだヒリつくようだ。ヴィーナスの死体など放っておいて、この部屋から出よう。

 明日真は再びムーンパレス内部に入り、階段を下りた。ヴィーナスが死んだことにより、彼が最後の一人になったはずだった。それなのに、西園寺からは何もアナウンスがない。

「もうゲームは終わりじゃないんですか?」

 赤い扉に向かって訴えた。西園寺はその質問には答えず、代わりに言った。

「イカロス出発十分前」

 帰るなら今のうちだということらしい。冗談じゃない、と明日真は思った。折角、最後まで残ったんだ。それに、EVA用スーツを着たらヴィーナスの二の舞になる可能性がある。むしろ、今のはそのための誘導だったのではないかと疑った。

 仮に先程、ヴィーナスを脅して外へ追い出そうとしたとき、明日真も着替えていたら、同じ運命を辿っていたかもしれない。西園寺は最初から遺産など譲る気はないのではないだろうか。やはり、ヴィーナスが疑ったように、あのときの復讐のために自分たちを呼び集めたのではないか。

 明日真は不安な気持ちに駆られた。ここにムーンがいないことだけが、それを否定する材料になっているが、彼も別のどこかで今、誰かに命を狙われているかもしれない。

「地球へは戻りません。あなたの遺産を相続します。このゲームはいつ終わるんですか?」

 明日真がいくら訊いても答えは返ってこない。まだ誰かいるということだろうか? みんなを殺した真犯人が? それなら見つけ出してやる。そいつを殺してやる。ここまできたなら絶対に莫大な資産をぶんどってやるんだ。明日真は決意を固め、拳銃のグリップを力を込めて握りしめた。

 集会室に下りると、真っ直ぐ赤い扉へ向かい、あけようとするも鍵がかかっている。苛立ちをぶつけるように乱暴に叩いた。

「西園寺さん、隠れてないで出てきてください!」

 あくまでも無視することに決めたらしい。あるいは反応できない理由でもあるのか。

 明日真は諦め、今度は貯蔵庫へ足を向けた。ドアを開けて広大なスペースに入って行く。棚の隙間を覗き見るようにして全体を見渡すも、人影は見えない。隠し部屋はないか、壁をつぶさに見ながらぐるりと回っていると、西園寺が唐突にカウントダウンを始めた。

「イカロス発射まで五秒前。四、三、二、一、ゼロ」

 静まり返る。外の音は聞こえてこない。だから、本当にイカロスが地球へ向けて離陸したのか、明日真には知りようがなかった。もしイカロスが本当に飛び立ったというのなら、今ここには明日真と西園寺、一連の殺人事件の真犯人しかいないことになる。あるいは、西園寺と真犯人は同一か。あるいは……

「まさか!」

 自分だけが取り残されたのではないか。地球から約三十八万キロも離れた、この辺鄙な場所で。だとすると、自分は今、人類で最も孤独だといえるだろう。明日真は戦慄し、しかしすぐに落ち着きを取り戻した。とりあえず生きていくのに必要な物資は、ここには山のようにあるのだ。大病を患いさえしなければ何とかなる。たとえ地球との通信手段がなくとも、火星探査のための拠点として、そのうちどこかの国の宇宙船がやって来るだろう。むしろ、殺人犯とひとつ屋根の下で暮らすより、一人取り残されたほうが安心というものだ。

 本当にイカロスが飛び立ったなら、明日真たちがここに到着してから二時間が経過したことになる。どこにも時計がないため時間の感覚がなく、あまりに色々なことが起きすぎたために、もっと長居しているように感じられた。

 少し落ち着こう。心身を休ませなければ。明日真はそう思い、飲料コーナーを物色して白ワイン入りのパックを取り出した。つまみに魚肉ソーセージを手に取り、貯蔵庫を後にする。

 地下洞内は不気味なほどに静まり返っている。まるで無音の世界だ。階段を上り、微かに足音を立てるたびに、明日真はこの世界の悪しき侵略者にでもなったような気分に陥った。

 とにもかくにも、これまで起こった出来事を整理するんだ。自分の部屋に着くと、明日真はドアをきっちり閉めて鍵をかけ、ベッドに腰を下ろしてワインを口に含んだ。三口ほど飲んだところで、心地良い酔いが回り始めた。魚肉ソーセージに齧りつくと、自分が地球人であることを久しぶりに思い出したような気分になった。

 さて。明日真はここへ到着したときの記憶を巻き戻し、そもそもの始まりを振り返る。最初の被害者はサターンだった。彼の死に関する謎は以下の三点だ。


 ➀誰に殺されたのか?


 ②死因は?


 ③どうやって天井から落下させられたのか? 


 まず、犯人の可能性が高いのは、西園寺、ネプチューン、マーキュリーの三人だろう。けれど、よくよく考えてみれば、サターンが死後どれだけ経過しているのかわからないのだ。だから、マーズやヴィーナスが犯人という可能性も充分に考えられる。

 死因に関してはわからない。すでに死んでいたのか、あるいは墜落による即死だったのか。

 死体の落下方法については、何らかのトリックを使ってタイマー式に落ちるようにしたか、あるいは天井裏のドームの中に誰かが潜み、西園寺がゲームのスタートを宣言するのと同時に、タイミングよく突き落としたかのどちらかだろう。そして後者であれば、そいつが真犯人、あるいは共犯者ということになる。


 次にマーキュリー殺しだが、これに関しては最初の死が本当だったのか疑わしいだけに、推理が難しくなってくる。


 ➀犯人は誰か?


 ②最初の死は嘘だった?


 ③嘘だったとしたら、その目的は?


 ④死を偽ったのに(偽ったとして)、結局殺されてしまったのはなぜか?


 まず犯人について。最初に死んだとき、マーキュリーは一人、集会室に残っていた。明日真たちがサターンの死体を安置室へ運ぶために移動したとき、彼女はまだたしかに生きていた。そしてあのとき、サターンを運んだのはネプチューンと明日真だった。安置室に入ってからは、ネプチューンとマーズのいざこざがあった。明日真は入り口側に背中を向けていたため、そのときにヴィーナスがいたかどうか見えていなかった。ほんの数分とはいえ、明日真の視点に立てば、彼女にはアリバイがなかったことになる。

 それから集会室へ戻り、円卓に突っ伏しているマーキュリーを発見して、最初に彼女の身体に触れたのはマーズだった。上半身を起こしたときには、マーキュリーの左胸にはナイフが突き刺さっていた――あれがフェイクでなければ。

 そしてマーズを突き飛ばすようにして、ネプチューンがマーキュリーの死を確認した。彼女が呼吸をしている様子をまったく見せていなかったため、明日真をはじめ他の二人もすっかりそれを信じてしまったが、今思えばあれは本当だったのだろうか? 本当だとしたら、少なくとも明日真の観点からすれば、ネプチューンとマーズにはほぼ完璧なアリバイがあったといえるだろう。

 では、マーキュリーの最初の死が嘘だったとしたら? その場合、共犯者は絶対にネプチューンでなければならない。説明するまでもなく、彼女の死の確認をしたのは彼だったからだ。わざわざ、マーズを突き飛ばしてまでそれを行なった。

 そして、死んだフリをした理由もたいして考える必要はないだろう。明日真たちに気づかれずに暗躍するためだ。となると、ヴィーナスの生命維持装置に毒ガスを仕込んだ犯人は、マーキュリーという可能性も出てくる。仕込むタイミングはいくらでもあっただろう。たとえば、ヴィーナスの部屋で明日真と二人きり、ネプチューン殺しの密談をしたときだ。

 ただ、マーキュリーとネプチューンの共犯説は、彼女の二度目の死によって辻褄が合わなくなる。彼女が死ぬ前にネプチューンが殺されていたからだ。

 あるいは、共犯者が他にもいたなら、彼女はそいつに殺されたことになる。それはなぜだろう? 候補者の数が減り、遺産がいよいよ手に入りそうになってきたところで仲間割れをした、というのが妥当なところだろうか。

 もうひとつの可能性としては、マーキュリーは最初の段階で死んでおり、真犯人が彼女の死体をわざわざ円卓の上に移動させ、あらかじめ録音しておいた彼女の悲鳴を大音量で流した、というものだ。その目的は、明日真たちを混乱させるため。現にこうして今、彼は頭を悩ませているし、マーキュリーの死によってヴィーナスは錯乱し、ここから逃げ出そうとした結果、毒ガスによって死んでしまったのだ。


 マーズの死に関しては、ヴィーナスが犯人だと自供して、殺害方法もわかっているため、取り立てて考えることはないだろう。

 

 次はネプチューンの死。はっきり言って、彼が殺されたことが、明日真にとって最も意外だった。なぜなら、あの不敵な態度から、彼が殺人犯だと疑っていたからだ。彼の死についての謎も洗い出してみた。


 ➀誰が殺したのか?


 ②どうやって殺されたのか?


 ネプチューンを殺した犯人については、マーキュリーかあるいは真犯人ということになる。なぜなら、サターンとマーズはすでに死亡し、ヴィーナスは明日真とずっと密会していたからだ。

 そして、その後にマーキュリーが殺されたことを考えれば、姿を見せていない真犯人が殺した可能性が高いかもしれない。明日真はゾッとして顔を上げた。ドアの小窓の外には誰もいない。しかし、その下に身を潜めて、明日真が出てくるのを待ち構えているのではないか。恐ろしくなり、明日真は立ち上がってドアに近づき、その足元を蹴った。驚いて誰かが姿を見せるのではないか。小窓から外を覗いたけれど、誰もいなかった。左右を見回しても誰もいる気配は感じられない。

 月面では酔いが回るのが想像以上に早いのか、明日真は水中を泳ぐように足元おぼつかなくベッドに戻って腰かけた。

 気を取り直して推理を再開させる。ネプチューンの死に関する最大の謎。あの密室状態の部屋で、彼はどうやって殺されたというのだろうか。何度確認しても、ドアの錠は閉まっていた。そして、鍵は胴体の上に置いてあった。これが他の死因であれば自殺が考えられるが、頭が身体からスパッと切り離されていた。しかも、死体のそばに凶器は落ちてなかった。だとすると、やはり他殺ということになるのだが……。

 待てよ。明日真はふと思った。胴体の上に載せられていた鍵は、あの部屋の鍵なのだろうかと。空き部屋の鍵はネプチューンが管理していた。犯人は彼を殺した後、別の部屋の鍵を死体の上に置き、ドアの錠を正規の鍵で閉めて立ち去ったとしたら? ドアを強引にぶち破りでもしない限り、部屋の中の鍵が本物かどうか、明日真には調べる方法はないのだ。

 仮にその殺害方法を取ったのだとすると、やはり真犯人がこのムーンパレス内に潜んでいるということになる。


 最後はヴィーナスの死についてだが、これについての謎は、犯人が誰か、という点に限られる。毒ガスが仕込まれたのは当然、一度外に出た後ということになる。そのときにまだ生きていたとしたら、マーキュリーやネプチューンが犯行に及んだという可能性があるが、これも謎の人物Xによるもののような気がした。


 こうして改めて事件を整理しても、結局導き出されたのは、まだ真犯人が潜んでいる可能性が高いということだ。その証拠に、西園寺はさっきからちっともアナウンスをしない。最初にゲーム開始を告げたとき、集会室にいたメンバーの中で、残っているのは明日真ただ一人になったというのに。ヴィーナスが言っていたように、これは遺産相続のためのゲームではなく、復讐なのだろうか? だとしたら、自分の命を虎視眈々と狙っている人物が誰なのか、明日真はすぐに思い当たった。ウラノスだ。他に考えられない。その考えに辿り着いたところで、心拍数が一気に跳ね上がった。気持ちを鎮めようとワインを口にする。少し寝よう。

 その前に、ドアの錠が閉まっているか確認しようと立ち上がると、思いのほか酔いが回り、明日真は転んでしまった。頭が朦朧として、四肢が少し痺れているような気がした。ワインを二百ミリリットルばかり飲んだだけで、ここまでアルコールの影響が出るものだろうか? 少なくとも地球上ではこんなこと考えられない。

 しかし、ここは何もかも地球上とは違うのだ。同じ物を食べたり飲んだりしても、身体に及ぼす作用が同じになるとは限らないのではないか。そんなことを考えながらドアに近づくと、じりじりという雑音がスピーカーから聞こえてきた。久しぶりに西園寺が何か喋る。明日真は立ち止まって耳を澄ませた。

「お待たせ、エース。きみが最後の一人に残るとはちょっと意外だったけれど、約束通り、僕の財産をすべてあげるよ。知ってると思うけど、僕は癌を患っていて、もはや自力で歩くことができないんだ。だから、僕がいる部屋まで来てくれないか。鍵を開けて待っているから。それじゃあ、久しぶりに面と向かって会えるのを楽しみにしているよ」

 西園寺がそう言い終わると、ムーンパレス内は再び静寂に包まれた。そのせいで明日真の耳には、自分の心臓の鼓動音が激しさを増すのが聞こえた。全身に汗が滲む。言葉にならないよろこびと恐怖が心の底から込み上げてくるのを感じる。これは罠かもしれない。けれどそうでなければ、明日真は巨万の富を手に入れ、宇宙開拓史に名前を遺すことにもなるだろう。

 恐怖心は名誉と金を欲する執着心に押しやられた。けれど、丸腰で行くつもりはなかった。当然だ。たった二時間あまりで四人も殺されるという異常な状況に置かれているのだから。

 頼れるのは自分自身と武器だけ。ポケットに拳銃を忍ばせ、万が一のときには返り討ちにしてやろう。警戒心をフルにして、明日真はドアの前に誰もいないことを確認してから外に出た。

 離れた場所からスナイパーライフルで狙われる。頭か胸をズドンッ! そんな嫌な映像が脳裏をよぎったものの、実際には何事もなく地下洞内は静かなものだった。しかし、そのせいで不気味さはさらに増した。

 そして、部屋の外に出たことで、明日真はさらに顕著に身体の異変を感じた。頭がふらつき、じっと立っていることもままならない。手すりに掴まってなければ階段を転げ落ちそうになってしまう。ここで死んだらあまりにもマヌケ過ぎるではないか。落ち着け、と自分に言い聞かせ、ゆっくり時間を掛けて階段を下りた。そう、焦る必要はないのだ。時間はいくらでもあるのだから。西園寺も急かす様子はなく、スピーカーからは何も聞こえてこなかった。

 安置室の前を通りかかる。相変わらず、サターンとマーズが仲良く二人きりで横たわっていた。悪かったな、お前らの分まで今世を楽しむとするよ。明日真は心の中で彼らにそう言いつつ、貧乏くじを引いたものだな、と嘲笑った。

 そのままネプチューンの部屋の前も通る。胴体から離れた顔がこちらを向き、恨めし気に見ているような気がして、明日真は思わず顔を反らした。

 最下層の集会室に到着する頃には、支えなしでは歩くことができず、わざわざ壁を手で伝って歩かなければならなかった。これはどういうことだろう。まるで一気に老化が進んでしまったようだ。アルコールの作用だけでこんな状態になるとはとても思えない。これではもし襲い掛かられた場合、反撃できないのではないか。そんな不安を感じたせいか、円卓の上に横たわるマーキュリーがゾンビ化して襲撃してくる場面を想像して、そんなまさかと苦笑いした。

 ゾンビはおろか真犯人が姿を現わすこともなく、明日真は何とか無事に赤い扉に辿り着いた。

「ずいぶんのんびりしているね」

 西園寺の笑い声が響く。

「早くその扉を開けて入ってきてよ。会うのが楽しみだ。さあ」

 愉快そうな口調で急かされるも、明日真は楽しい気分にはなれなかった。原因不明の身体の不調。この先に何が待ち構えているのかわからない不安と緊張。それをほぐすために一度、大きく深呼吸をした。それからこっそり右手に拳銃を持ち、左手でハンドルを握って少し力を加えると、たしかに鍵はかかってなかった。僅かに空いた隙間から冷気が流れ出してくる。まるで冷蔵室のようだ。

 中を覗き込むと、こちら側とはまるで別世界が広がっていた。レゴリスで覆われることなく、沸騰した後にそのまま凝固したような小さな穴だらけの灰色の地質。剥き出しの地下洞の姿があった。

 明日真は勇気を出して、さらに扉を開き、その先に広がる光景に唖然とした。こちら側の十倍以上はあろうかという広大な空間になっていて、扉から二十メートルほど進んだ先の地面が奥のほうまで氷で埋め尽くされている。さらに、天井からは巨大な氷柱が何百、何千と垂れ下がっている。奥のほうの壁もすべて氷で覆われていた。どうりで寒いわけだ。その氷に無数のパイプが伸び、氷の地面が始まる手前にある数々の機器類と繋がっている。一番大きなもので二階建ての家と同じくらいの高さがある、それらの装置によって氷を水に変え、さらにそれを水素と酸素に分解し、水素は燃料として利用し、酸素はムーンパレス内に供給しているのだろう。機器類は地上に設置されたパネルに繋がれ、太陽光が動力源になっているに違いない。

「どうだ、驚いたかい? ここで暮らすには、これだけ大掛かりな装置が必要なんだよ。地球では当たり前のように存在する水や酸素がどれほど貴重なものか、一目瞭然だろう?」

 西園寺の言う通りだった。重力も含めて、地球上は人類にとって何と恵まれた環境なのかと、明日真は心の底から実感した。

 ところで、その西園寺の姿はどこにも見当たらなかった。

「そんなところで突っ立ってないで、こちらへ入ってきて。そのまま進んで右手側にあるドアを開けるんだ。僕はそこで待っているから」

 どうやらそういうことらしい。明日真は右手で拳銃を持ったまま、右側にある壁を左手で触れて身体を支えながら歩いた。左手の手のひらにゴツゴツとした質感と冷気が伝わる。扉の周辺が瓶の首のようになっていて、先に進めば進むほど空間が広がっていった。そして、しばらくそのまま歩くと、西園寺が言った通り、壁にはめ込むようにして前後開閉式の鉄扉があった。その向こうに西園寺はいるらしい。

 鉄扉に辿り着いたときには、拳銃を持つ手がプルプルと震え、気を抜くと落としてしまいそうなほど、身体の自由が利かなくなっていた。こんな状態では、トリガーを引くことはおろか、敵に銃口を向けることさえできそうにない。

 もしや、毒を盛られたのだろうか。今さらになって、明日真はその可能性に思い当たり慄然とした。

 しかし、いつ、どこで? ここへ来て唯一口にしたワインと魚肉ソーセージは、誰に渡されたものでもなく、明日真自ら貯蔵庫から選び取ってきたものだ。考えられるとすれば、宇宙服に遅効性の毒ガスが仕込まれていた可能性だ。

 いずれにせよ、ここまで来たらもう先へ進むしかない。西園寺が復讐のためにこんなことをしているのだとしたら慈悲を乞おう。自分は彼らに従っただけだ。まさか本当に実行するなんて夢にも思わなかった。誠心誠意、必死になって謝罪すれば、命まで取られることはないかもしれない。

 そんな期待を抱いて、明日真は鉄扉のノブをどうにか握り、弱々しく引き開けた。その先は二十畳ほどの部屋になっていて、奥には警備室のようにずらりとモニターが並び、映像が映し出されていた。どうやら、ムーンパレス内の隠しカメラで撮影されているリアルタイムの映像が流れているらしい。台の上にはマイクが置いてあり、西園寺はそれを使って明日真たちに語りかけていたようだ。

 ところが、その肝心の西園寺の姿はなく、部屋の中央には不自然にも、白い棺桶が置いてあった。レゴリス製らしい。顔の位置に小窓がある。まさか、と思い明日真はその小窓を開けてみた。するとそこには、ミイラに見えるほど頬がこけた男の遺体が入っていた。

「西園寺さんだよ。びっくりするだろ。そんなに痩せこけちまってさ」

 突然、背後から男の声がして、明日真は驚いて振り返った。

「な、何で、お前が!?」

 その男の姿を見てさらに驚き、咄嗟に拳銃を構えようとするも手に力が入らず、床に落としてしまった。反対に、男が手にする拳銃の銃口を向けられてしまう。

「動くなよ、エース。まだ殺したくはないからな」

 男は笑った。そう言われなくても、明日真がもう動けないことを知っているかのような笑い方だった。

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