第9話 ソラ
鏑木はみるみる顔色が悪くなる陽介の身体を支え、彼の部屋へ連れて行った。壁に固定されたシュラフの中に押し込むようにして寝かせ、ファスナーを顎まで上げて顔だけが出るようにした状態で、さらにその上からベルトを締めてやる。こうすれば無重力下での浮遊感が少しは解消され、ゆっくり休むことができる。
陽介の額には汗が浮き出ていた。顔面蒼白で唇は青紫色をしている。閉じていた瞼をぴくぴくと震わせながら開けると、
「気持ち悪い」
陽介は母親を頼る病気の子どものように訴えた。
「待て、我慢しろ」
このまま嘔吐されたら、ゲロが自由気ままに宇宙遊泳することになる。そんなことしたら他のクルーから大目玉を食うし、何より目立ってしまう。欧米人からすれば、アジア人の顔の見分けは難しいかもしれないが、それでも彼らに陽介の顔を印象付けたくなかった。
鏑木は部屋から出てすぐ横にあるトイレに入り、小便用のホースを目いっぱい伸ばしながら、吸引スイッチをONにした。そのまま吸水カップを口元に押し当てようとすると、陽介は顔を顰めて横を向いた。
「ちゃんと消毒はしてある」
小便をした後、吸水カップをアルコール・ティッシュで消毒するのは義務化されている。
「そういう問題じゃないだろ」
陽介は不服を唱えるが、抗い難い吐き気が込み上げてきたらしく、自ら吸水カップに顔を向けてきた。鏑木が口にカップを押し当てると、目尻から涙を流しながら胃の中の物を吐き出した。その無様な姿を見て、鏑木はザマァみろ、と密かに思った。そうして、陽介が吐き終わっても、数秒間はカップを押し当てたままでいた。吐き残しが散乱したら元も子もない。
「もういいか?」
鏑木の問いかけに、陽介は目をぎゅっとつぶった状態で頷いた。少し分量を間違えたかな。まあいいか。死にはしないだろう。鏑木はそう考えながら、吸気スイッチを切ってトイレへ戻り、アルコール・ティッシュで吸水カップをきれいに拭いてから、また陽介の部屋に入った。
「口をゆすぎたい」
世話が焼ける奴だな、と思いつつも「待ってろ」と言い、鏑木は水が入ったパックとティッシュを持ってきてあげた。
「ほら」
陽介に水を含ませてやり、口にティッシュを押し当てて吐かせてやる。それを三度繰り返したら、陽介は少し楽になったのか、眉間の皺を緩めた。
「おかしい」と目をつぶったまま頭を傾げる。「急に気分が悪くなった。ネメシスに乗ってたときは何ともなかったのに」
「大気圧の変化で一気に宇宙酔いしたんだろう。いつもより長くネメシスに乗ってたんだ」
最長で四十八時間近く自力飛行できるネメシスに、陽介は半日近く乗っていた。
「この後の仕事は俺がやるから、気にせずゆっくり休んでろ」
「悪いな」
「今、胃薬を持ってきてやる」
そう言い置くと、鏑木は部屋から出てノートパソコンに向かい、メールの受信ボックスを開いた。未読の中に天王寺からのメールを見つける。開いて文面を読んだ。どうやら計画は順調に進んでいるらしい。鏑木は安心して微笑むと、全クルー共通のメディカルキットの中から薬を取り出し、水入りパックとともに陽介の元へ持って行った。
「陽介、空きっ腹で悪いが、これ飲め。少しは楽になる」
薄く瞼を開けると、陽介は何も疑うことなく水で飲み込んだ――規定量の倍ある睡眠導入剤を。これでしばらくは大人しくしていてくれることだろう。鏑木がそう思ったそばから、陽介はもう瞼を閉じて寝息を立てている。
「デブリを吸着せずにずっと周回を続けてる『ソラ』が見つかった。どうやら壊れてるらしい。ネメシスで回収してくるから、何かあったら無線で連絡してくれ」
話し掛けても反応がない。
「聞いてるか?」
鏑木が頬を軽く叩くと、「ん? あ、ああ……」と、陽介は寝ぼけ眼で見つめてくる。鏑木はもう一度、同じことを伝えた。
「わかった」
そんなことはどうでもいいから早く寝かせてくれ、とばかりに陽介は小さく頷くと、そのまま眠りに就いてしまった。
これで、しばらくここを離れていても大丈夫だろう。鏑木はそう確信して安堵すると、向こうに地球が見えている球体ガラスの丸窓のシェードを閉め、部屋の電気を消して真っ暗にしてから共有スペースに出てドアを閉めた。
それからすぐに食料と水分を用意すると、ネメシスへ繋がるトンネルに入るためのハッチに手をかけた。もうすぐでこの計画はクライマックスを迎える。月面と地球上にいる仲間の幸運を祈りつつ、鏑木はハッチの開閉ハンドルを回した。
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