第8話 斬首

「実はわたしさ、マーズから借金してたんだよね」

 部屋に入りドアを閉めてからの第一声。まったく悪びれた様子のないヴィーナスの表情。嫌な予感は当たったと、明日真は暗い気持ちになった。と同時に、密室内に彼女と二人きりになってしまったのは不用心だったと後悔した。部屋から出て行こうにも、ヴィーナスがドアを背にして立っているため、押しのけて出て行くしかない。

「いくら?」

 手荒なマネをせずに何とか出られないか、と思いながら明日真は訊いた。核心をつく話は聞きたくない。そう思いながら。

「これだけ」

 ヴィーナスは右手を広げた。はっきりと口にしないのがいやらしい。しかし、最低でも五億は下らないだろう。何せその借金を帳消しにするために彼女は――

「その顔を見れば、もうバレてるのはわかるから白状する。マーズの生命維持装置をいじったのはあたし。あのおっさんがブーツを履くのにてこずってるとき、こっそり電源やら何やらを落としておいた。全然、変わった様子を見せないから、失敗したかと焦ったわ。あのおっさんも不運よね。あの宇宙船を見つけてボケッとしてないで、さっさとこっちに戻ってくれば死なずに済んだのに」

 そうしたら、また別の手段で殺すつもりだったのだろう。明日真が黙っていると、ヴィーナスは慌てて両手を振った。

「勘違いしないで。あたしがやったのは、あくまでもそれだけだから。そりゃ、マーキュリーのことは前から気にくわないと思ってたけど、あんたたちと同様、アリバイがあるでしょ? サターンに関しては尚更のこと」

「だからって、マーズを殺していいことにはならない」

「仕方ないでしょ。出来心だったんだから。ここで殺しても、他の奴に罪をなすりつければいい。こんな地球から遠い場所で起こったことなんて、正確なことは誰にもわかりっこないんだから。そうやって、あたしの中の悪魔が囁いてきたの」

 まさに悪魔のような笑みを浮かべた。明日真はゾッとした。善悪の判断が狂っている。元からそうであったのか、月面世界がそうさせるのか。どちらかはわからないけれど、自分もこの女に殺されるのではないかと恐ろしくなった。

「あんたは殺しはしないわよ。心配しないで」

 明日真の心中を察したようにヴィーナスは言う。

「それより力を合わせてネプチューンを殺しましょう」

 やはりな、と明日真は思った。部屋で二人きりで話をしようと言い出されたときから、そんな予感がしていた。

「それはいくらなんでも――」

 言い掛けて即座に口をつぐんだ。ヴィーナスがポケットから小型拳銃を取り出したからだ。

「護身用に荷物の中に入れておいたの。まさか、こんなゲームに巻き込まれるとは夢にも思わなかったけど、備えあれば憂いなしね。で、もう一度訊くけど、ネプチューンを殺すのを手伝ってくれる?」

 銃口は明日真の心臓に向けられていた。断れば殺される。明日真は直感した。彼が知る限りだけでも、ヴィーナスは二人の人間を殺しているのだ。そして、ネプチューンを殺すつもりでいる。だったら、ここで明日真を殺すことも躊躇しないだろう。ただ、ここで撃って銃声を響かせてしまえば、拳銃を所有していることを知らせることになる。だから撃たない。でも、百%そうだとは確信が持てなかった。だから、

「ネプチューンが荷物の中を漁ってたら、何か細工した可能性があるかもしれない。たとえば、発砲したら手の中で暴発するとか」

 そんなはったりを言って、ヴィーナスの精神に揺さぶりをかけようとしてみた。ところが彼女にはそんなもの通じなかった。

「心配ご無用。ちゃんと異常がないかチェックしてある」

 抜かりはなかった。となると、明日真は彼女に従うか殺されるかの二択を迫られることになる。当然、死ぬのはごめんだった。

「でも、遺産を相続できるのは一人だけだ」

「大丈夫。あんたにも半分、分けてあげる。だから、ネプチューンを殺したら、イカロスに乗って地球に帰るの。いいわね?」

 そんな言葉、誰が信じられるだろう? ヴィーナスの計画をどうにか変更できないかと、明日真は思考を巡らせた。

「ネプチューンを殺せば、それですべて済むのか?」

「どういうこと?」

「マーキュリー殺しをどう説明する? あのとき、ネプチューンにはたしかにアリバイがあった。となると、他にも誰かいると考えるのが妥当なんじゃないか」

「犯人はネプチューンよ」

「だから、どうやって?」

「知らないわよ、そんなの。何かトリックでも使ったんでしょ」

「あるいは西園寺さんが殺した」

 明日真は声をグッと落とし、囁くように言った。

「復讐だよ。気づかれたんだ。ネプチューン以外は全員、あのときのメンバーじゃないか」

 一瞬、恐怖で目を見開くも、ヴィーナスはすぐに笑い声を上げた。

「エース、あんたバカなの? マーズを殺したのはあたしなのよ」

「西園寺さんからすれば、たまたまそういう展開になっただけで、マーズも殺すつもりだったとしたら?」

 ヴィーナスの笑みが凍り付いた。いいぞ、こちらのペースになってきたと、明日真は落ち着きを取り戻す。少し前から抱いていた疑惑を口にしてみることにした。

「考えてみたんだ。あのロシア人たちは、イカロスの中でずっと待機したままなのかって」

 明日真がそう言った途端、ヴィーナスは目を剥いて唇をわなわなと震わせた。

「あいつらが忍び込んで殺しを?」

「その可能性は否定できないんじゃないかな」

「たしかに。それは盲点だった。あいつらのことは勘定に入れてなかった」

「そもそも、本当に彼らはロシア人なのかな?」

「どういうこと?」ヴィーナスは眉間に皺を寄せる。「だって、あんなに流暢にロシア語を喋ってたじゃない。顔だって完全にロシア人だった」

「そんなの、いくらでも誤魔化せる。ほら、スパイ映画によくあるじゃないか。顔をべりべりって剥がすアレ。語学に長けた人物が成りすましてたら、簡単に騙される」

「誰よ、その成りすまし野郎ってのは」

 ここまで聞いて、ヴィーナスは予想がついているらしかった。顔色がみるみる悪くなっている。

「ウラノス」

 明日真がただひと言そう言うと、室内は静まり返った。やがて、ヴィーナスが自信なさげに呟く。

「……考え過ぎよ」

「でも、これがあのときの復讐なら、ウラノスが西園寺さんと手を組んでもおかしくない。そうじゃないか?」

「そうだけど、だったらどうして、ムーンはいないの? あいつだって同罪だっていうのに」

「それは」明日真は考えを巡らす。「別の場所で、ウラノスの協力者が殺すか、もうすでに殺したのかも」

「誰よ、協力者って。何でわざわざムーンだけ別の場所で殺すのよ」

「わからない。けど、何かしらの理由があるのかも」

「もういい。あれこれ考えてたって、何も前に進まない。行動あれ、よ。どうするのエース。わたしに協力する? それともここで死ぬ?」

 確実に心臓を貫くようにと、ヴィーナスは銃口をグッと近づけてきた。伸ばせば手が届く距離だ。相手が並の女性であれば、素早く奪い取ることができるかもしれない。けれど、ヴィーナスは元オリンピック選手。抜群の運動神経の持ち主だ。それに対して、日頃から運動不足で身体がすっかり鈍っている明日真に勝ち目はないように思えた。観念して従おう。そう思い口を開きかけたときだった。

「ネプチューン、ザンシュにより失格」

 西園寺の陽気な声が響いた。

「ザンシュ?」

 明日真はヴィーナスと顔を見合せ、お互いに首を傾げた。意味がすぐに理解できなかった。とはいえ、このアナウンスがあったということは……

「あいつ、死んだってこと?」

 まさか、という表情を浮かべてヴィーナスは部屋を出て行く。明日真も続いた。階段を下りる。集会室にネプチューンの姿はなかった。そこから一番近い場所に彼の部屋はある。そのドアの前に先に到着して、小窓から中を覗き込んだヴィーナスが、

「きゃっ!」

 驚いて一歩退き、拳銃を床に落とした。明日真はそれを視界の端で捉えつつ、小窓から室内を覗いた。

「あっ!」

 ヴィーナス同様、衝撃で一歩退いてしまう。

 ネプチューンは部屋の真ん中あたりの床に倒れていた。……頭と胴体が切り離された状態で。ザンシュは斬首という意味だったのだ。顔はこちらを向いていて、殺される直前に犯人に向けた表情そのままなのだろう、目をカッと見開いている。首の切断面は血で真っ赤に染まっている。そこから三十センチあまり離れた場所に、血液で繋がれたように胴体が仰向けの状態で倒れていて、左胸に『ネプチューン』の名札が貼られていた。そして、お腹の上には鍵が置かれていた。明日真はもしやと思い、引き戸を開けようとしてみた。けれど、錠が掛かっていて開かなかった。

「そんな!」

「ど、どうしたの?」

 ついさっきまでネプチューンを殺す計画を立てていたのに、ヴィーナスはすっかり気が動転し、声が震えていた。

「鍵が閉まってる」

「だってそれは、ネプチューンが中から閉めたからじゃ……」

 まともに思考できないらしい。

「だったら、犯人はどうやってこの部屋から逃げたんだ?」

「あっ!」

 ようやく事態に気づいたヴィーナスは、まるでそこらに幽霊でもいるかのように辺りを見回し、顔面蒼白になった。

「ネプチューンは密室で殺されたことになる」

 そんなはずはない。どこか抜け穴でもあるに違いない。そう思い、明日真は室内を見回してみたけれど、どこにもそんなものはなかった。地下なので当然、窓もない。

「どんなトリックを使ったのか知らないけど、やっぱり他に何者かが潜んでいるんだ」

 西園寺が犯人だろう、と含みを持たせて明日真は口にした。

「で、でも、こうは考えられない? ネプチューンが自殺したって可能性も」

「どうして?」

 あり得ない推理に、明日真はつい声を荒げてしまった。

「それは……たとえばほら、マーズが死んだことで、復讐は終わったと思って。わたしたちが関わっていたことは知らなかったのかも」

「そんなことってあるか?」

 首を傾げながらも、明日真はひとつだけ光明を見つけていた。

「自殺にしろ他殺にしろ、ネプチューンが死んだってことは、あの事件は関係なかったってことはわかった」

「さっきから復讐、復讐って、一体何のことを言ってるのかな?」

 西園寺に訊かれ、つい声を大きくして喋ってしまったことを明日真は後悔した。

「いずれにしろ、残りはもう二人になっちゃった。思ったよりあっという間だったね。もう少し楽しめると思ったんだけどなぁ」

 西園寺のその言葉を吟味して、最初に行動に移ったのは明日真だった。拳銃はまだ床に落ちたままだ。急いで拾おうとすると、ヴィーナスは動物的な反射神経を見せ、運動能力の高さで遅れをリカバリーする。二人の手が拳銃に届いたのはほぼ同時だった。どちらも掴むことができず、どちらかの指先が弾いてしまい、拳銃は階段をゆっくりと転げ落ちて行く。そこからの反応はヴィーナスのほうが早かった。そのことに気づいた明日真は、瞬時に作戦を変更した。ヴィーナスの腰の辺りを両手で掴み、力任せに手すりの柵に叩きつけた。油断していた彼女は受け身を取ることができず、強かに背中を柵に打ちつけ、痛みに苦悶の表情を浮かべながら階段の上で突っ伏してしまう。その隙に拳銃を手に取った明日真は、中腰になり立ち上がろうとするヴィーナスの額に銃口を向けた。

「止まれ!」

 痛みに呻く表情そのままの状態で止まり、ヴィーナスは全身を硬直させて明日真を見上げた。

「撃つつもり?」

 彼女の目に怯えの色が浮かぶ。明日真は自分が微笑んでいることに気がついた。絶対的な優越感に欲情した。

「やめて、お願い」

 ヴィーナスの目に涙が溢れる。いつも勝気な女が見せる弱々しい表情に、明日真の支配欲は高まった。西園寺の監視がなければ、裸になれと命じて凌辱したかもしれない。その欲望をグッと堪えた。

「ヴィーナスを殺せば、アース、きみが僕の遺産を全部受け継ぐことができるんだよ」

 西園寺が煽るように言う。

「やめて、お願い。遺産はもう諦めるから、殺さないで」

 ヴィーナスの瞳から涙がこぼれ落ちる。明日真には最初から殺意はほとんどなかったが、その姿を見て殺す気はますます失せた。

「わかった。それじゃあ、イカロスに乗って地球へ帰るんだ」

 冷静な口調で命じると、ヴィーナスの顔は強張った。嫌々をするように頭を振る。

「だってさっき、アースが言ったんじゃない。ロシア人たちがサターンやマーキュリーを殺したのかもしれないって。ネプチューンだって、あいつらに殺されたのかも。そうじゃなくても、気心が知れてないあの二人と地球まで三日間も宇宙船に乗ってるなんて怖い」

「あの推理は適当に言っただけだ。それに、俺たちだって別に気心が知れてるわけじゃないだろ」

 現在、絶対的な権力者である自分にめそめそと口答えするヴィーナスに、明日真は次第に苛立ちが募ってきた。拳銃が彼の心の闇を解放するように、暴力的な衝動が身体の底から湧き上がってくる。

「せめて、みんなを殺した犯人を特定してからにしましょ。ね? もしかしたら、どこかに隠れていて、アースが一人になるのを待ってるのかもしれない」

「探偵ごっこなんて興味はない」

「でも――」

「うるさい!」

 カッとなった明日真は拳銃を振りかざし、その台尻でヴィーナスを殴りつけてしまう。その衝撃で悲鳴を上げながら倒れ込み、彼女の額から鮮血が流れた。それは、明日真にゾクゾクするような快感をもたらした。そして頭の中に、先程ヴィーナスが彼に言った言葉が蘇った。

『ここで殺しても、他の奴に罪をなすりつければいい。こんな地球から遠い場所で起こったことなんて、正確なことは誰にもわかりっこない』

 そう、その通り。しかも自分は、宇宙の法を定めるために邁進している身。そんな人間が殺人を犯すなど誰が考えるだろう。惨たらしい殺戮ゲームを運よく生き残り、その過酷な経験を糧に宇宙の綱紀粛正に努める男。そんな未来図が頭に浮かんだ。

「痛い……」ヴィーナスは額に手で触れ、指に血が付着していることに気づくと悲鳴を上げて、痙攣するように全身を震わせた。

「立て」

 銃口を向けて、明日真は冷酷に命じた。

「立って階段を上がれ」

「何をするつもり?」

 恐怖でヨダレを垂れ流していることにも気づかずにヴィーナスは上目遣いをした。

「うるさい、立てと言われたら立て! 階段を上がれと言われたら上がるんだ! さっさとしろ、このクソ女!」

 明日真が容赦なく背中を蹴ると、ヴィーナスはもう涙で同情を誘うのは無理だと判断したらしい。素直に従い、手すりを支えにしながらゆっくり階段を上がり始めた。その背中に銃口を向けながら、明日真も後に続いた。彼女が足を上げるたびに、ジャンプスーツ越しにヒップラインが浮かぶ。今まで性の対象としてなど見たことはなかったのに、こうして拳銃を手にして強者になった途端、封印が解かれたように性欲が溢れ出すのはどういうメカニズムなのだろう、と明日真は激しい情欲に驚いた。それと同時に、宇宙でも人間の生殖本能はしっかり働くものなのだな、と冷静に考えもした。人類はまだまだ繫栄し、その勢力を月のさらに先へと拡大していくのだろう。自分はその拠点になるこの土地をもうすぐで手に入れることができる。明日真の口元は自然に緩み、真顔に戻そうとしても、あふれるよろこびで戻すことはできなかった。

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