第6話 マーズの死

 明日真がEVA用スーツを着用してムーンパレスの外に出ると、イカロスはまだ離陸せずに待機していた。殺風景な土地に突然変異で現われた巨大なタワーのように見える。アポロ計画では、司令船と機械船が月の軌道を周回しながら待機して、それより小型の月着陸船が分離する月軌道ランデブー方式が採用されていた。それが今では、あれだけ大きな宇宙船が垂直で離着陸できるようになったのだ。宇宙開発における技術の進歩は素晴らしいものがある。いずれ火星に人類が到達し、移住できる日が必ず訪れることだろう。そのときには、このムーンパレスが地球との重要なハブとなり、今以上に莫大な利益を上げることになるだろう。

 しかし、それにしても、宇宙船から一歩も出ずにとんぼ帰りか。西園寺がこのバカげたゲームを早く始めたいからか知らないが、ロシア人飛行士たちに一泊くらいさせてあげてもいいものだ、と明日真は思った。たとえ地球上の六分の一とはいえ、重力があるのとないのとでは、睡眠の質はまったく異なる。この三日間あまり、無重力状態の中、明日真はほとんど寝た気にならなかった。

「アース、地球が恋しくなったら、このまま帰ってもいいぜ。荷物なら俺が後で送ってやるよ」

 無線の声が耳元のスピーカーから流れてきた。振り返ると、すぐ近くににやにやと意地の悪い笑みを浮かべたネプチューンの顔があった。彼に隙を見せてしまった不覚に、明日真は背筋がひやりとした。いつ殺されてもおかしくない状況だというのに。

「余計なお世話だ」

「ふん、そうか。親切で言ってやってるのに」

「どういう意味だ?」

「そのまんまの意味だ。ここに残るってことは、命を賭けるってことだ。その覚悟ができてるのか?」

「それは……」

 即答できないのが明日真は悔しかった。

「そういうあんたはできてるわけ?」

「当たり前だろ」

 ヴィーナスに言い返すネプチューンの目からは、フェイスシールド越しにも充分に殺気が感じられ、その場が凍り付いたように静まり返った。

「それにしても遅いな、あのおっさん」

 ネプチューンが舌打ちする。身体のサイズがでかい分、着替えに手間取っているらしい。マーズの姿がまだ見えない。

「お前ら、様子を見に行ってやらなくてもいいのか? もしかしたらって可能性もあるぜ」

 ネプチューンの予言めいた不吉な言葉に、ヴィーナスの顔が強張る。どうしよう? と問うように見つめられるも、明日真は何もリアクションできなかった。

「わたし、ちょっと見てくる」

 マーズとは付き合いが長いだけに心配になったらしい。ヴィーナスはムーンパレスの中へと戻った。

「ハハ、冗談なのにな」

 ネプチューンが笑う。

「本当に冗談なのか? サターンやマーキュリーを殺したのはお前なんじゃないのか?」

 襲いかかってこられても回避できるよう、少し距離を置いて明日真は訊いた。

「やっちゃいないけど、サターン殺しを疑われるのは仕方がないか。あんたたちより先にここに到着していたわけだしな。だけど、マーキュリーに関しては、俺は完全にアリバイがある。そうだろ? サターンの頭側を持って、先頭を切って安置室へ運んだのは俺なんだから」

 その通りだった。あのとき、ネプチューンはマーキュリーから最も遠い場所にいた。

「わざわざ俺を押しのけて死亡確認をしたやろ?」

 無線にマーズの声が割り込んだ。どうやら何事もなかったらしい。ヴィーナスとともに姿を現わした。

「待たせて済まんな。宇宙船で着たときはロシア人が手伝ってくれたんやけど、不器用なんかな、一人で着るのが中々上手くいかへん。ヴィーナス、ありがとな」

「それより、話の続きを聞かせろ。俺があのとき、おっさんを押しのけたからって何だって言うんだ?」

 ネプチューンの声には特にトゲは感じられなかった。むしろ、マーズの推理を聞くのを楽しむような、余裕の笑みさえ浮かべている。

「それはあれやろ、俺を押しのけた瞬間に、素早くナイフを刺したんや」

「どうだった?」

 ネプチューンは込み上げる笑いを堪えられない様子で、他の二人を見回した。マーズのどうしょうもない推理には、明日真とヴィーナスも苦笑せざるを得なかった。マーズがマーキュリーの身体を起こした段階で、彼女の胸にはナイフが刺さっていたのだ。だからこそ、ヴィーナスは悲鳴を上げた。それに、仮にネプチューンが何らかのトリックで瞬間的にマーキュリーを殺したのだとしても、彼らが階段を下りていたとき、マーキュリーはなぜ突っ伏していたのか、という謎が発生する。

「残念だな、身体は大人、頭は幼稚な名探偵のおっさん。それより、安置室に最後に入ったのは誰だった?」

 ネプチューンに疑いの矛先を向けられ、ヴィーナスは憤る。

「わたしがやったって言うの? たしかに最後に入ったけど、マーズとほとんど変わらなかったわよ」

「ほとんどって?」

「ほとんどはほとんど! 一秒にも満たないくらい」

「どうかな。俺はあんたのこと、よく見てなかった。アースはどうだ?」

 明日真はヴィーナスに申し訳なく思いつつも、フェイスシールドの中で頭を横に振った。あのとき、明日真はサターンの足を持ってベッドの上に寝かせたため、部屋の入り口には背中を向けていたのだ。

「ちょっと、明日真までわたしを疑う気!?」

 頭に血がのぼり、ヴィーナスは自分の失態に気づいていないらしい。

「あ、本名ゆうたらあかんやろ」

 マーズに指摘された途端、彼女は怯え、泣きそうな顔になった。

「ルール破ったら失格ゆうてたよな?」

 悪気はないのだろうけれど、マーズの言葉がヴィーナスの不安を煽ってしまう。

「失格って、どうなるのわたし? まさか死んじゃうの?」

 まるで死神に問うように、ヴィーナスは目をカッと見開いてネプチューンに顔を向ける。

「知るかよ。俺に訊くな」冷たく言い放ったネプチューンだが、「別に何も起きないじゃないか」と笑った。

「ホント? 何も異常ない?」

「どこも、何ともあらへんな」

 両手を広げて確認を求めるヴィーナスに頷き、マーズはサムズアップした。

「いくら何でも、名前を呼び間違えたくらいで殺されへんやろ。厳密に言えば、ネプチューンが俺のことおっさんて呼ぶのもアウトやろうし」

 だったら西園寺はなぜ、わざわざ名札まで用意して、コードネームで呼び合うルールなど定めたのだろう? と疑問を抱いているのは自分だけらしいと明日真は思った。

「どうでもいいけど、さっさと行こうぜ。お前ら黙ってついてこいよ」

 ドームの外殻を右側にして、壁面に沿うようにネプチューンは歩き出す。その後に明日真たちも続いた。十メートルほど歩くと、アーチ形のハンドルが壁に取り付けられていて、ネプチューンがそれを掴んで開けた。

「ほら、ここがドームの中間層だよ」

 ネプチューンはつまらなそうに言うと、先にドームの中に入った。残された三人は一瞬、お互いを牽制し合うような視線を交わした。

「あいつが怪しい動きをしないか、ちゃんと見ておくんやで」

 そう注意喚起したマーズが先に入り、ヴィーナスが後に続く。明日真も中に入り、ドアを閉めた。

 ドーム内は目に眩しいほど真っ白な空間だった。外殻の内側の表面は滑らかな素材になっている。第二のドーム、つまり内殻は、五十センチほどの高さの長方形のブロックを何十段も積み重ねて、緩やかなアーチを描いている。この内殻が、ムーンパレス内部から見れば屋根ということになる。ネプチューンはすでに内殻の頂点付近にのぼり、何かを見下ろしていた。そこが、サターンが落とされた場所なのだろう。

「早く来い」と手招きしている。

 明日真たちがブロックをのぼると、ネプチューンはぽっかり空いた足元の空間を指差した。

「ここから落ちたんだ」

 そこは、天井を清掃するときのためなのか、一ヶ所だけドアになっていて、今はそれがこちら側に開き、遥か眼下に集会室の円卓が見えた。高所恐怖症の明日真は、そこから下を覗き込むだけで足が震えた。

「危ないから閉めておこう」

 ネプチューンがドアを閉めると、そこは平面上になった。

「間違いなく、サターンはここから落ちたんやろな。ここに置かれてた死体が、重みか何かで自然に落ちたんやろか?」

「けど、あんなにタイミングよく落ちる?」

 ヴィーナスが疑問に抱くのはもっともで、あのとき、西園寺が陽気に『では、遺産相続ゲーム、スタート』と宣言したのとばっちりタイミングを合わせるように、サターンは天井から落下してきた。誰かがここから落としたか、あるいは何らかの装置を使わない限り、そんなことできるわけがない。

「ここって、あたしたちがムーンパレスの中に入ったときは開いてた?」

 ヴィーナスが全員を見回すも、誰も確信がないようだった。

「こっちも真っ白だから、中から見てもこのドアが開いてるかどうか見極めるのは難しいだろ」

 外殻を指差しながらネプチューンが言う。その通りだし、犯人はその目の錯覚を利用して、何らかのトリックを用いてサターンをここから落としたのだろう、と明日真は推測した。

「そもそも、サターンがすでに死んでたのか、墜落死だったのかもわからへんしな」

「でも、いくら何でも、即死するかな?」

 マーズとヴィーナスがここでいくら議論を交わしたところで、医者がいないために答えはわからない。

「とりあえず、中に戻ろうぜ」

 全員をその場から追い払うように、ネプチューンが手を振る。マーズを先頭にしてブロックを降りて月面に出た。

「何やあれ? 動くんか?」

 先に外に出て右側方向、つまりムーンパレスの入り口とは反対側に歩いていたマーズが、進行方向の先を指差してネプチューンを見た。フェイスシールドの中の顔には、少し安堵の表情が浮かんでいるようだった。

「何?」

 まずはヴィーナスが、そして明日真が続いてマーズの元へ行き、彼が指差す先を見ると、大気がないせいで正確な距離感は掴めないが、少し離れた場所に垂直離着陸式の宇宙船があった。左手に聳えるイカロスの全長が約五十メートル。それに比べると、十分の一にも満たない小型サイズだった。

「動くは動くけど」と、ネプチューンがゆっくり近づいてくる。「燃料を満タンにしたところで、飛行距離は二十五万キロくらいだろ」

 月から地球までの距離が約三十八万キロ。途中で立ち往生して、宇宙空間をあてどもなく漂うことになってしまう。

「ホンマか?」とマーズは疑うも、あのサイズで地球まで戻れる有人宇宙船はまだ開発されていない。そもそも、ネプチューンが噓をつく理由はない。

「そんなに帰りたいなら、あれに乗って帰ればいいだろ」

 まさにその通りで、イカロスに乗って帰ればいいのだから。

「何のために置いてあるんだ?」

 明日真は訊いた。単独で地球に帰れないなら、なぜここへ運んで来たのだろうか。

「さあな。俺はずっとここにいたわけじゃないから、そんなこと知るかよ。もういいだろ」

 みんなの返事を待たず、ネプチューンはさっさと引き返してしまう。

「結局、何もわからないままね」

 ヴィーナスがうんざりした顔をしながらネプチューンの後に続いた。

 マーズは名残り惜しそうに小型宇宙船を眺めている。その背中に明日真は語りかけた。

「帰ろうか迷ってるのか?」

 返事はない。

「迷うくらいなら帰ったほうがいいぜ」

 ムーンパレスの入り口から無線を伝ってネプチューンが嘲笑う。

「マーズ、どうした?」

 応答しないのが気になり、明日真は彼の肩に手をかけた。

「あ、ああ、ちょっとめまいがしただけや。大丈夫、心配ない。戻ろか」

「いや、顔色が悪いぞ」

 マーズは引きつった顔をしていて、額には汗が浮き出ている。宇宙服の中は高湿度が自動で一定に保たれるように設定されているのにおかしい。

「ちょっと息苦しいだけや」

 呼吸が荒い。

「おい、ちゃんと酸素は供給されてるか? アース、生命維持装置のパネルを開いてチェックしてやってくれ」

 ネプチューンの声に急かされるように、明日真は急いでマーズの背中に回り、生命維持装置のパネルを開いた。

「あっ」

 マーズがめまいを起こした原因は一目瞭然だった。バッテリーの主電源だけでなく、システムの異常を報せる警告スイッチ、システムがストップしたときに自動で作動するバックアップ機能のスイッチまでもが切られている。マーズの宇宙服の中は今、酸素が供給されず、自らが吐き出した二酸化炭素は吸着されない状態に陥っているのだ。このままでは、呼吸困難と二酸化炭素中毒で死に至る可能性がある。明日真は慌ててバッテリーの主電源を点けた。が、どういうわけか点かない。何者かが意図的に故障させたとしか思えなかった。

「く、く、苦しい……」

 マーズの身体が痙攣し始める。

「おい、何をもたついてんだ」

 ネプチューンが苛立ち、明日真たちのほうへ歩いてくる。ヴィーナスはそのまま、入り口の前で立ちすくんでいた。

「電源が切られてる。スイッチを入れても点かない」

「見せてみろ」

 明日真を押しのけ、マーズの生命維持装置の中を見たネプチューンは、即座に判断を下した。

「ダメだ、中に連れて行ったほうが早い。アース、そっち側を支えてくれ」

 マーズの肩を両側から支え、ネプチューンとともに明日真は入り口へ急いだ。横から覗き込むと、マーズは自力で歩くのも困難で、目をつぶり息絶え絶えの様子だった。

「どうしたの?」

 ヴィーナスが目を丸くする。のんびり答える暇もなく、明日真たちはそのままムーンパレスの中に入り、エアーシャワーを素通りして、次の部屋に入った。

「おい、マーズのおっさん、しっかりしろ!」

 ネプチューンがフェイスシールドを外すも、ひと足遅かった。マーズは眠るように死んでいた。この屈強な男が、こんなにもあっさり死ぬのか。この宇宙服が機能しなくなれば、人間なんてひとたまりもない。何て過酷な環境に身を置いているのかと、明日真は恐ろしくなった。仮にムーンパレスの酸素供給システムが壊れ、宇宙服が一着もなくなったら、自分たちはあっという間に死んでしまうのだ。

 と同時に、マーズの死は何者かの作為によってもたらされた可能性があり、それが恐怖心を増幅させた。

「どうしたの? ……マーズ!?」

 後から入ってきたヴィーナスが死体を呆然と見下ろす。

「死んでる」

 そう断言したネプチューンは、マーズの生命維持装置の中を覗き見てから、確信したように言った。

「故障じゃない」

「どういうこと?」

 そう訊きながらも、ヴィーナスは意味を把握しているようだった。その証拠に唇が恐怖で震えていた。

「誰かが細工した。マーズを殺すために」

 ネプチューンは明日真を、それからヴィーナスを見る。明日真たちもお互いの顔を見まわした。

「誰が? わたしじゃないわよ」

 ヴィーナスが頭を振り、明日真たちから距離を取るように一歩下がった。

「生きてる人間は、ここにいる三人しかいないんだ。誰かが犯人に決まってるだろ」

 サターンやマーキュリーの死体を前にしたときは、余裕の表情を浮かべていたネプチューンだが、今回ばかりはなぜか顔が強張っていた。

「わたしじゃないわよ」

 ヴィーナスが同じ言葉を繰り返し、責任を押し付けるように二人を交互に見る。

「はっきり言って、一番疑わしいのはお前だぜ、アース。生命維持装置を調べるフリをして、逆にあのとき細工したんじゃないか?」

 ネプチューンが遠慮なく言う。

「ち、違う。濡れ衣だ」

 明日真は必死になって否定した。このままだと、サターンやマーキュリーの殺人の罪までなすりつけられてしまう気がしたからだ。

「いくら何でも、そんなにすぐ酸素不足になりはしないだろ」

 明日真が生命地装置のパネルを開いて見たときに細工をしたなら、マーズが死ぬまでに数分しか経ってないことになる。いくら何でもそれでは死ぬのが早すぎる。マーズは酸素が供給されてないことにしばらく気づかず、めまいを起こしたことでようやく異変に気づいたのだ。ということは、細工されたのはもっと前ということになる。

「それもそうだな」

 頷いたネプチューンはヴィーナスを見た。

「な、何よ?」

「マーズが着替えるのに手こずって、迎えに行ってたよな? あのときに何かしたんじゃないのか?」

「ふ、ふざけないでよ。そういうあんたが犯人なんでしょ」

 ヴィーナスはそう言うと、何か思い当たったように目を見開き、明日真を見ながらネプチューンを指差した。

「ほら、わたしたちが部屋に行って荷物を運んでたとき。あのとき、こいつはこっそりこの部屋に来て細工をしたのよ」

「あのとき、あんたらは部屋のドアを開けっ放しにしてただろ」

 うんざりした顔をしてネプチューンが反論した。そして、先程までの狼狽した様子が嘘のように笑った。

「まあ、いいじゃないか。これでライバルが一人減ったわけだし。俺じゃないが、犯人には感謝するぜ。ありがとな、俺の代わりに手を汚してくれて」

「あんたね……」

 ヴィーナスが突っかかろうとするも、ネプチューンは手を上げて制する。

「とにかく、この死体を運ぼう。外と行き来するたびに物騒な姿を目に入れなきゃならないのはごめんだからな」

 ネプチューンのドライさには反感を抱いたが、ここで言い争っていても始まらない。明日真も彼と同じようにジャンプスーツに着替えた。

「アース、足を持ってくれ」

 ネプチューンに指示されるままにマーズの足を持ち、ヴィーナスが開けてくれたドアからムーンパレスの中に入る。明日真が先に、後ろ向きに階段を下りるカタチだ。

「別に下の部屋まで運ぶ必要はないんじゃないか」

 すぐ近くに空き部屋がある。そのドアを見ながら明日真は言った。

「鍵が下にある。それに、警察に見せるとき、同じ部屋に置いておいたほうがいいだろ」

 よくわからない理屈だったが、明日真は仕方なく従い、マーズの足を持った。

「押すなよ」

 重力の関係で勢いよく落ちることはなく、階段は螺旋状のために、階下までノンストップで転がることはないだろう。それでも、ネプチューンが殺人者である可能性があるだけに、明日真は恐怖心を隠し切れず不安だった。

「俺を信じろ」と、ネプチューンは不敵な微笑みを浮かべる。

「わたしが先に下りるよ。そいつが本性を見せて突き落としたりしたら、受け止めてあげる」

 先回りして、ヴィーナスが明日真の背後に立つ。その姿を見てネプチューンは笑い、明日真を見た。

「俺たちが共犯て可能性もあるぞ。気をつけろ、アース」

「誰があんたなんかと? ふざけないでよ。そんな奴の言うことなんて気にしないで」

 と言われても、誰も信用できない状況だ。明日真は別にヴィーナスとも特別に仲がいいわけではないのだから。

「ほら、こんなところでチンタラしてないで、早く行こうぜ」

 ネプチューンがプレッシャーをかけるように、マーズの死体をぐいぐい押してくる。サディスティックな笑みに明日真の緊張感は増した。

「わたしを信じて」

 別にヴィーナスを信じるわけではないが、いつまでも躊躇しているわけにもいかず、明日真は慎重に左足を下ろした。

「そうそう、その調子。先は長いんだから、ちゃっちゃか行こうぜ」

 ネプチューンがマーズの死体をグイッと押す。明日真は危うくバランスを失いそうになりかけ、苛立って睨み上げた。

「おお、怖っ。そんな目で見ないでくれよ。殺気が漲ってるぜ」

「茶化すな」

 鋭く返しつつ、明日真はマーズの顔を見た。本当に死んでいるのか疑問に思えるほど、今にも息を吹き返しそうな顔をしていた。このきれいな死顔に傷をつけないためにも、しっかりと運んでやらなければ。明日真は気を引き締め、慎重に歩を進めた。その集中力を乱す意図があるのかはわからないが、ネプチューンは呑気な口調で話を始めた。

「西園寺さんの遺産を継いだら、どうするつもりだよ?」

 もちろん、西園寺が聞いていることをわかっての質問なのだろう。

「俺は火星を目指すために全力を注ぐつもりだ。残りの人生を賭けて取り組む。地球にはもう戻らないくらいの覚悟がある」と、主人におもねるようにアピールした。

「わたしもよ」

「へえ、じゃあサーカスのほうはすっぱり諦めるってわけか」

「あんたには関係ないでしょ」

「歯切れが悪いな。アースはどうだ? 正直、あんたはこのまま法曹界で頑張ってたほうがいいと思うけどな。たいして行動力も好奇心もバイタリティーもなさそうだし」

 散々な言われようだが、的を射ているし、明日真自身、火星探索には興味がないため、反論はしなかった。何より、階段に下りるのに神経を尖らせ、会話をしている余裕はなかった。

「何か言い返しなさいよ」

「図星だって。こんな階段を下りるのにビクビクしてる奴が、宇宙探検になんて繰り出せるわけがない」

 西園寺に訴えるように、ネプチューンはわざと声量を上げた。

「うるさい」

 さすがに苛立ち睨むも、すぐに鋭い視線を返され、明日真は目を逸らした。ただ、ネプチューンに突き落とされることはなく、そのまま安置室に到着した。肉体的にはまったくだが、精神的には随分と疲弊して、明日真は少し休みたい気分だった。

「ベッドは塞がってるから、仕方ないな。マーズのおっさんには床で寝てもらおう」

 まるで物を置くように、ネプチューンはベッドの横にマーズの死体を置いた。これで三体の死体が並んだ。わずか一時間足らずの間に。どう考えても異常だ。しかも、犯人はすぐそばにいるネプチューン、ヴィーナスのどちらかなのだ。あるいは、どちらも。いや待てよ。他にもいるじゃないか。どうして彼らのことを除外していたのだろう。それは、この遺産相続ゲームに関係ないからだ。でも本当にそうなのか? 誰かが変装してる可能性はないだろうか。明日真は思考を巡らせ、何もかもが疑わしく思えてきた。

「何をぼんやりしてるんだ」

 いつの間にか、ネプチューンは入り口に立っていた。明日真がボーッとしてる間に、ヴィーナスともども部屋から出ていたのだ。

「ここが落ち着くなら、ずっといてもいいぜ。そのうち、嫌でもそうなるかもしれないがな」と減らず口を叩く。

「あるいは、あんたがね」

 まさかヴィーナスにそんなことを言われると思ってなかったのか、横腹を突っつかれたように驚き、ネプチューンは振り向いた。

「お互い様ってことよ。ね?」ヴィーナスは不気味に微笑み、「早く出なさい」と、頬を緩めたまま明日真を見た。ネプチューンに気づかれないようにウィンクをしながら。彼女は何かを知っている。その微笑に明日真はゾクリと戦慄が走るのを感じつつ、部屋から出ようとした。けれど、その前にもう一度、並んだ死体をちらりと見て違和感を覚えた。

「どうしたの?」とヴィーナスが訊く。

「いや……」

 何を奇妙に感じたのだろう? その正体を探るべく、明日真は三体の死体をゆっくり見回していく。まずはマーズ。眠ったような死顔だ。次にマーキュリー。口角から流れた血は固まり、左胸にはナイフが深々と突き刺さったままだ。最後にサターン。最初に犠牲になった男。虚空を見つめている。自分が死んだことを理解していないような表情を浮かべているように見えた。

「何してんだ」

 ネプチューンが苛立つ。

「すまない」

「どうかしたの?」

 部屋から出た明日真にヴィーナスが声をかける。

「いや、何か違和感を感じたんだ」

「違和感て?」

 と室内を見るヴィーナスとともに、明日真はもう一度、部屋に安置された死体を見回した。

「あっ」

 今度はわかった。

「マーキュリーの髪の毛が乱れてる」

「え?」

 ヴィーナスは明日真を振り返ると、マーキュリーのほうを見た。

「くだらない。動く死体ってか」

「たしかに乱れてる気がする」

 一笑に付そうとしたネプチューンの言葉に被せるようにヴィーナスが言った。

「気のせいだ」

 決めつけるように言いながらドアを閉めるも、ネプチューンの顔には怯えの色が浮かんだようだった。明日真を散々からかっていたため、弱みを見せるのを拒むように。

「疲れたから、俺は少し休むとする。寝首を掻こうったってムダだぜ。しっかり鍵を閉めて用心するからな」

 無理に強がるように笑い声を上げながら、ネプチューンは階段を下り、二人に挨拶もしないまま自分の部屋に入ってしまった。カチャッと、内側から錠を下ろす音を派手に立てた。

「ちょうどよかった」

 ネプチューンが消えたのを確認すると、ヴィーナスはそんなことを呟いて明日真を振り返った。

「あんたに話がある。わたしの部屋に来て」

 何やら企み顔で悪魔のような微笑を浮かべると、ヴィーナスは階段を上がった。嫌な予感を抱きながら、明日真はその後に続いた。

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