アクアリウムコースター
アイマスクをつけた無防備なみおが、私の左にいる。
大沼公園へ行った日の夜、私はふと思いついた。みおは「海っぽい」ものには、特に反応を示さないらしい。実際、湖なんて見た目は海と大差ないと思うが、みおは平気な顔をして、湖を眺めながら団子を食べていた。
それならば、もっと海に近くて、それでいて楽しい場所にみおを連れていけないだろうか、あわよくば、それが何か解決の糸口にならないだろうか。例えば、水族館とか。ここから近い水族館といえば、小樽か登別だろう。小樽の水族館は、施設内から本物の海が見えてしまうので、自ずと候補が定まった。
右に荒れた噴火湾を望みながら、一ヶ月前のチャットの履歴をなぞる。
『今度、二人で登別に行かない?』
『登別って、温泉ですか』
『いや、水族館』
『水族館?』
『特急なら日帰りで行けると思うんだけど』
『そうですか』
『それで、どう?』
『まあ、いいですけど』
『よし決まり!日程とかは今度会ったときに決めよう』
『わかりました』
やっぱり温泉のほうが良かったかな。ほら、広い大浴場だったら、海に見えないこともないよね。いやいや、それはそのうち。今はとにかく、海の底に閉ざされたみおの心を、どうにかサルベージしなければいけない。
目隠しをしたみおの顔を、正面から覗き込む。今なら、こんなふうに見つめたって構わないのだ。軽く開いた唇が輝いて見える。
「みお、起きてる?」
「起きてますけど」
「そっか」
今の状況とは全く関係ないけれど、ノンレム睡眠のときには、少し体を揺するくらいでは目覚めないらしい。
結局みおが眠りに落ちることはなく、列車は登別についた。駅を出て少し歩くと、西洋風のお城のような建物が見えてきた。あれが水族館だ。
「変わった見た目ですね」
「テーマパークみたいだよね」
受付で二人分の入場料を払って、パンフレットなどを受け取る。パンフレットには、場内の案内図や、ショーの時間などが書いてあった。みおはそれをまじまじと見つめて、何か考え込んでいるようだった。
「とりあえず、どうしようか」
「なぎさん、もうすぐアザラシの餌やりの時間らしいですよ」
「へぇ、じゃあ見に行こっか」
「それが終わったらすぐペンギンのパレードも始まります」
「うんうん」
「その後はイルカショーで、その後は ……えっと、イワシのショーです」
「お、おう」
パンフレットから目を外し、みおの横顔を見て、はっとした。私は、みおの笑顔を見たことがなかったようだ。この日、ようやく目の前に現れたその笑顔から、目を離すことができなかった。
「ん、なんですか?」
なんですか、じゃない。その顔でこちらを見ないでほしい。これじゃ全く、心臓がもたない。
「な、なんでもないよ。ほら、急がないと始まっちゃう」
「ですねっ」
みおが私の手を引っ張って駆け出した。今日が命日かもしれない。
「ぎりぎり間に合いましたね」
アザラシの水槽には人だかりができている。その中でなんとか隙間を見つけて、最前列に構えた。
バケツを持った飼育員が寄っていくと、二頭のアザラシが水から上がってきて、頭を上に向ける。飼育員がバケツから魚をつまみ上げると、アザラシの口が開いて、その中にするっと魚が滑り込んだ。
みおはまっすぐと前を見つめていた。飼育員の説明なんて、全く耳に入っていないのではないかと思うほど、みおは視覚にすべてを集中させているように見えた。みおと私、見ているものは同じはずなのに、そこに感じるものは同じではないようで、悶々とした。
「動画とか撮らないの?」
「……いえ、大丈夫です」
みおは、アザラシから一切目を話すことなく答えた。
じゃあ私が撮ろうかな、と考えてスマホを取り出すした直後、手を止めた。
今日は写真も動画も撮らない。今はただ、みおと同じ時間と感情を共有しよう。そう心に決めた瞬間、視線の先のアザラシの姿が、妙に生々しく感じられて、脳天を衝いた。
ペンギンのパレードが終わって、ちょうどお昼の時間になったので、水族館の中にあるレストランで昼食をとることにした。私は豚丼を、みおは焼きカレーを注文した。
「閉園時間って、何時でしたっけ」
パンフレットを開いて確認する。
「えーっと、五時だね」
みおの頭の中は、昼からの計画でいっぱいらしい。
「あ、でも帰りの特急が五時に出発だから、ここはもっと早く出ないと」
「じゃあ、急がないとですねっ」
みおのスプーンの速度がにわかに上がった。私も遅れを取らないように、急いで丼をかき込む。しかし、みおの食事スピードは私をどんどん突き放してった。今度はもっとゆっくり旅行しよう。こんな弾丸ツアーを組んでしまったことを、申し訳なく思った。
午後からの時間は、表面ではみおと同じ目線で楽しんでいるように繕いながらも、その内は心穏やかではなかった。イルカショーで大きな水しぶきが上がったときなどは、特にヒヤッとした。そうして恐る恐るみおの表情を伺うと、慣れないその破顔によって、私の心は逆の方向へと振り回された。水族館に来たはずなのに、私だけがジェットコースターに乗っていた。
冬至へと向かっていくこの日ごろ、外はすっかり暗くなって、車窓からはほとんど何も見えなかった。それでも一応、アイマスクを付けたみおは、早くも眠ってしまったようだ。あれだけ駆け回っていたのだから、当然だろう。それでも、私の目は冴えていた。一日の余韻と、ガラスに反射したみおの寝顔が重なっていた。
「みお、楽しかったね」
「わたしもぉ……」
返事とも寝言ともつかないその声が愛おしく、私はそっと頭を撫でた。
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