第四章 泥む↓落ちる
声なき叫呼とネガフィルム
この前の水曜日、私はいつものバスに乗らなかった。講義のあと、用もなく図書館に寄って、テスト期間の三週間も前から試験勉強を始める真面目な学生を演じた。そして、いつもより一本遅いバスで帰宅した。
なぎさんからチャットが届いたのはその日の夜だった。「この前撮ったフィルム現像しに行くんだけど、一緒に行く?こんどの日曜日」というメッセージを無視する勇気はなかった。むしろ、待ち望んでいたのかもしれない。
いつもなぎさんの隣でどんな表情をしていたのか、思い出せない。今の自分は変な顔をしていそうな気がして、窓の方を向き続けていた。
「着いたよ」
小ぢんまりとした写真屋は寂れた雰囲気で、外壁にはヒビが入り、看板は
「こっちから入ってね」
美咲さんに導かれて、建物の正面ではなく、側面の小さなドアから中に入る。
「お邪魔します」
お店というよりは普通の家の玄関のようだったので、一応、挨拶をしておいたが、返事はなかった。
玄関から靴も脱がずにすぐに左へ曲がって、真っ暗な店内に入る。美咲さんが電気を点けると、自分がカウンターの裏側にいることに気がついた。カウンターの上にはさまざまな書類や小物が雑多に置かれている。それから、古びた機械がいくつか設置されている。本当に動くのだろうか。
なぎさんはボロボロの椅子に勢いよく座ると、その勢いのままクルクルと数回転してから、体を大きく伸ばした。
「
「は、はい」
適当な椅子にそっと腰掛けると、壊れそうなほど
「あれで現像するんだよ」
「そ、そうなんですね」
「そして、これがフィルム」
なぎさんがバッグから白い筒状のケースを取り出す。その蓋を開けると、小さな円柱型の物体が姿を現した。
「はい、これ」
なぎさんはそれをつまみ出して、私の手のひらに置いた。
「これがフィルムですか?」
「この中にフィルムがぐるぐるって入ってるんだけど、現像する前にフィルムを引っ張り出しちゃうと、真っ黒になって何も見えなくなるから注意ね」
「へぇ…」
「ま、とりあえずやってみよっか」
なぎさんが、半透明のクリアファイルのようなものにフィルムを貼り付けて、先ほどの大きな機械にセットする。美咲さんが操作すると、機械が動き出した。
しばらくして、機械からフィルムが吐き出される。にょろにょろと出てくるフィルムを、なぎさんと一緒に覗き込む。髪の毛が頬を撫でてくすぐったい。
なぎさんはフィルムをハサミで切り取ってから、目の前に広げて見せた。
「はい、かんせー」
「……なんか、不気味じゃないですか、これ」
「色がヘンだからでしょ?ネガフィルムって言って、色が反転して写るの。あ、プリントするときはちゃんとした色になるから安心して」
色が反転したフィルム。そこに写る自分の姿に少しぞっとする。
「じゃあ、あとプリントしとくから、私の部屋行ってていいよ」
「あ、今日は二枚ずつお願いしまーす」
「料金も二倍ね」
「…はーい」
玄関まで戻って、靴を脱いでから階段を上ると、一番手前の部屋が美咲さんの部屋だった。部屋の真ん中には低いテーブルがあって、その周りにベッド、本棚、小学校から使い続けているであろう学習机が配置されている。広い部屋ではないが、
「なぎさんはよく来るんですか?」
「まあ、こっちに来てからは、毎月のように通ってるかも」
毎月というのは、思ったより少なかった。月に一度しか来ない場所で、こんなにくつろげるものだろうか。まあ、なぎさんなら、二回目でも自分の家みたいにくつろいでいそうな気もする。
「そういえば、夏休みって何か予定あるの?」
「夏休み?」
「そう、あと一ヶ月もすれば夏休みでしょ」
「…別に、何もないですけど……」
「そっかあ」
……あれ、それだけ?そう思ってしまってから、何かを期待していた自分に気がつく。
沈黙が続いた。なぎさんはベッドの端に頭を預けて、目を閉じている。その様子をじっと見つめていると、焦れったさが増していく。水面で口をパクパクさせている金魚は、こんな気持ちだろうか。これまで、私はただ餌を待っているだけだった。この先も、金魚のままでいるのだろうか。水面に顔を出して口をぽかんと開ける自分の姿を
「あのっ」
「ん?」
なぎさんが体を起こすと、不意に目が合う。とっさに視線を下にずらした。
「夏休み ……どっか出掛けませんか」
「あ、うん、いいよ。どこ行く?」
「どこでも、なぎさんの好きなところで…」
「うーん、そうだなぁ ……じゃあ、港まつりとか?」
「は、はい、それでいいです」
「他に誰か誘う?」
「二人で、…じゃなくて、お任せします」
「ふむ、わかった」
ようやく視線を上げることができた。いつもと同じなぎさんの表情に安堵する。
「みおから誘ってくれて嬉しかった」
「え?」
「いつも私が一方的に引っ張ってるような気がしてたから、みおはそれでいいのかなって」
「それは ……もちろん」
「いいの?」
「……はい」
「じゃあ、どこまで引っ張ってこうかな」
階下から足音が近づいてきて、ドアが勢いよく開く。湿った部屋の空気が一気に外へ流れ出ていった。
「写真できたよ」
「速っ」
「ま、慣れたもんだね」
美咲さんが得意げに鼻を鳴らす。
「それで、これが
「どうもー」
「ありがとうございます」
袋から写真を取り出して眺める。竹林の前で、冴えない顔をして立つ自分。どうして自分はこんな顔をしているのだろう。本当の感情はこんなんじゃないのに。
次の写真に写る自分は、もっといい顔をしているだろうか。この写真が、分厚いアルバムの一枚目になることを祈った。
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