フラッシュ・アンド・バック

 午後からの講義中も、バスに乗っているときも、バイト中も、そして今、布団に入っても、ずっと昼の会話が脳内で再生されていた。なぎさんは、私のことをどこまで知ったのだろう。

 私の過去を知っている人は二人しかいない。一人目は、高校まで私を養ってくれたおばさん。私を引き取ってくれたおばさんが、私の過去を知っているのは当然だし、おばさんはもうこの世にいないのだから、今更気にする必要はない。

 二人目は、バイト先の店長。店長がどういうルートで私の過去の情報を仕入れたのか、よく分からない。自分から話したような気もするし、そうじゃないような気もする。それでも、店長が知っているのは最低限の事柄だけで、そのおかげでいつも弁当をもらったりしているので、許容するしかない。


 私はいままで、過去を探ろうとしてくる人間を、ことごとく拒絶してきた。それこそが、中学でも高校でも友達と呼べる存在がいなかったことの原因であると自覚している。しかし、過去を知ろうとしてくる人間は、全員敵としか思えない。自分で蓋をした過去の記憶をこじ開けようとしてくる侵略者だ。だから、これまで他者に向けてきた拒絶はすべて、自衛のために仕方のないことだった。

 そして今、私の過去を覗こうとする人が、また一人。なぎさんは大丈夫だろうと、どこか油断していた。なぎさんを自分から遠ざけなければならない。頭の中に、生々しくイメージが出来上がる。部屋の天井が、いつものバスの風景に変わってゆく。


 ―――バスの車内、なぎさんと横並びに座っている。なぎさんが外を見て「ナントカが咲いてる」とか盛り上がっているのを、適当に受け流したりしていると、いつの間にか時間が経って、なぎさんが降りるために立ち上がる。

 それを呼び止めて言う。

「私、サークルやめます。それから、もう、会いにこないでください。来週から、私、一本あとのバスで帰るので。短い間でしたが、ありがとうございました。一緒にゲーセン行ったときも、函館公園に行ったときも、楽しかったけど、もうだめなんです」

 なぎさんの顔にうまくピントが合わず、表情がわからない。

「あの、最後に伝えたいことがあって、なぎさんの顔を見るとすごく安心するんです。クレーンゲームに必死になっている横顔とか、何か食べているときの嬉しそうな表情とか、大学ですれ違ったときに不意に見せるほほえみとか、そういうのを見るたびに心が落ち着いたし、でもそんな顔ももう二度と見ることはできなくて、それから、あのとき食べたソフトクリームの甘さと、さくらんぼの酸っぱさがまだ口の中に残ってて、あと、服を選んでもらって、その服を着て鏡を見たときに、すごくわくわくしたし、全身をなぎさんに包まれたような気がしたし、貸してもらった上着に袖を通したときの、ちょっとしたぬくもりとか、手を握られたときに感じる湿り気とか、そういうのが心地よくて、観覧車の上で、肩に頭を乗せたときの、あの感触も忘れられなくて、でも、それも、もう感じることはできなくて、それは、私のせいで、私が悪くて、……なぎさんは悪くないのに、私が、私が全部、悪くて、……悪くて、それで…………」

 知らない気持ちが喉から溢れ出て、それを押し留めることができなかった。自分の感情が分からない。なぎさんの背中が離れてゆくのが、かろうじて見える。

「だから、私が悪いから、ごめんなさい、ごめんなさい、だから、もう一度、こっちを振り向いて……」


 ―――目の前の歪んだ風景がほどけて、現実が戻ってくる。枕元に座るぬいぐるみの足を引っ張って、そのお腹に顔をうずめる。その布地の起毛きもうにほんのりとぬくもりを感じた。


 どれだけ走り続けただろうか。足が体を置き去りにして進む。それを追うように、体が前のめりになる。地面が靴のつま先を削る。一瞬の無重力を体験し、視界が黒く塗りつぶされる。痛みはない。でも、苦しい。苦しい。

 地面に手をついて体を起こす。肩越しに後ろを振り返る。

 濃い霧がかかって何も見えない。ミシミシと木が擦れる音をかき消すように、上の方から急かす声が聞こえる。早くしろって、分かってる。分かってるよ。……早く、早く、………あっちへ、行かないと……

 気がつくと、目前までぶわっと霧が迫ってきて、あっという間に全身が包まれた。煙のようにどす黒い霧が、体内に浸入してきて、ようやく思い出す。早く目覚めないと。


 カーテンの隙間から初夏の日差しが刺々しく差し込む。ああいう鮮烈な夢を、ここ最近は体験していなかった。数年前に逆戻りしたような気分に吐き気がする。

 枕とは違った柔らかさを頬に感じる。ぬいぐるみって、どう洗えばいいのかな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る