春宵の悪夢

「店長、次の土曜日って、昼からシフト入れられませんか」

「土曜日?土曜日って確か、芹沢せりざわさん、朝からのシフトだよね?」

「はい、昼からも入りたいんですけど」

「うーん… 正直、人は足りてるからねぇ。ああ、シフト増やしてほしいってことだったら、来月から調整するけど」

「いえ ……大丈夫です」

 自分の懐事情を考えればシフトを増やすべきだと思うが、それは今はどうでもいい。別に「急にバイトのシフトが入ってしまいました」って嘘をついても変わらないはずだが、それはなんとなく居心地が悪い。

 それ以上悩む間もなく、タブレット端末に次の仕事が表示される。指示通りに商品を棚に運ぶ。機械が考えて、人間が動く。これが現代社会の基本だ。機械の頭脳も機械の肉体も、どちらも人間を凌駕しているが、頭脳は安く、肉体は高い。逆に言えば、人間の肉体は安い。人類にとっては嘆かわしいことかもしれないが、そのおかげでこうして仕事にありつけている。


 時刻は午後九時、閉店とともにシフトが終わる。

「これ、廃棄しといてね」

「…ありがとうございます」

「何のお礼だろうねぇ」

 会社の規則上、売れ残りは廃棄しなければならないらしい。しかし、私の事情を知る店長は、いつも「廃棄」という名目で売れ残りの弁当をくれる。これはありがたいことだ。しかし、誰かに庇護されなければ生きられない自分に対して、惨めさと焦りを感じる自分がいる。私は、一人で生きていかなければならない。

 そんな行き場のない気持ちをなんとか頭の隅っこに追いやり、弁当を「廃棄」したことをタブレット端末に入力して、今日のシフトを終えた。


 家に帰り、冷たいままの弁当を食べ、シャワーを浴びて歯を磨き、布団に入る。いつものルーティンをこなすと、頭のてっぺんからつま先まで張っていた糸が切れ、眠気と疲労が全身を押さえつける。考えなければいけないことがある。けれども、脳は緩慢に思考を停止し、まぶたが自然と下りた。


 ベッドの上で目が覚める。窓の外は真昼のように明るく見える。掛け布団を剥がして立ち上がり、いつも通り階段を降りる。家には誰もいない。支度もせずに裸足のまま外へ出る。

 家の外には道路だけが延びていて、他の建物が全く無い。道を歩いていると、土の香りに焦げ臭さが混じったような匂いが強烈に鼻を刺す。吐きそうなほどの不快感を覚えて家に戻ろうとするが、振り返っても何も見当たらない。もうそんなに遠くまで来てしまったのだろうか。

 あてもなく、ただ道路の導くままに進み続ける。前方の視界がはっきりしない。

「みーおー!」

 後ろから私を呼ぶ声が響く。子供の声、だろうか。振り返ると一瞬、その姿が見えたような気がした。しかし、その顔の細部を識別する間もなく、濃い霧がどこからともなく湧いてきて、周囲を覆い尽くす。鼻からも耳からも、その空気が浸入してきて、全身に毒が回ったようにあらゆる感覚が消失する。呼吸の仕方も忘れてその場に倒れ込む。

 ようやく気がつく。これは現実ではない。何度見たかもわからない夢。霧の色がしだいにまぶたの裏へと同化する。手足の感覚がじわっと戻る。急いで目を開こうとするが、開かない。一度冷静になって、呼吸ができることを確認する。息を吸って、吐く。何度か繰り返してから、全身に最大限の力を込めると、一気に現実が戻ってきた。周りを見回して、そこが夢でないことを確かめる。

 同じような夢を幾度も見てきた。いや、夢を見るというより、別の世界に入り込んでしまう、という感覚のほうが正しい。他の夢とは違って、生々しい全身の感覚まで鮮明に体験する。しかし、今やその夢を気にすることはない。気にする価値もないことを知っているからだ。

 外はすでに薄明に染まっている。布団から出て、いつも通りの一日を始めた。

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