気がかりカタルシス

(もともとサークルに入るつもりはなかったので、やめておきます)

 そんな言葉を口の中で復唱しながら、バスに乗り込む。ふと、あの人 ――菊池さんの顔を覚えていないかもしれないことに気づく。見れば思い出せるだろうか。

 足元から通路の床にそって視線をすべらせたあと、ゆっくりと顔を上げる。誰かがこっちを見て、ゆるく手を振っているのが視界に入る。多分、菊池さんだ。彼女は窓側の席に詰めて、さっきまで座っていた座面をぽんぽんと叩いた。私はその席の端っこのほうに腰をおろす。

 どう切り出そうかと迷っていると、菊池さんは身を乗り出して、私の顔を覗き込んできた。唐突な接近に、思わず目をそむける。

 その顔が引いていくのを待ってから、用意したセリフを言おうと口を開く。

「あ、」

「私の撮った写真、ちょっとでいいから、見てほしいな」

 喉から声が出かかったその瞬間、菊池さんの声が追い越していった。彼女はリュックから何枚かの写真を取り出す。

「えーと、写真とか興味ないかもしれないけど、もしよかったら見てほしいなーって」

「…はあ」

 菊池さんは写真を一枚ずつめくりながら、短い説明を添える。私は口を閉じ、その写真に一応、目を向ける。

「これは洞爺湖。この島、丸くて可愛いでしょ?」

「……」

「これは、えーと、コキアっていう植物でー」

「………」

「これは桜が丘通の桜並木、トンネルみたいできれいだよねー」

「…………」

 やはり、どんな景色を見ても感動しない。入部を断るのが正解だ、と改めて思う。きっと、どれだけ写真を見せられても、自分の心が動くことはないだろう。そう思った矢先。

「これは――」

 次に現れた写真を見て、とっさに目を瞑る。脳の奥深くから轟音をあげて迫りくる、色のない濁流をせき止める。さまざまな感情をなんとか抑え、口をぱくぱくと動かし、かろうじて声を発する。

「も、もういいです…」

 目を閉じたまま、その写真を手で覆って押しのける。

「あ…… えと、ごめん」

 やってしまった、と思った。謝りたいのはこっちの方だ。気まずい沈黙が流れる。誰のせいか、もちろん自分のせいだ。ちらっと表情をうかがう。口を固く紡ぎ、目はきょろきょろと泳いでいる。怒っているのか、驚いているのか、困っているのか、よくわからなかった。

 

 バスのアナウンスが虚しく響く。菊池さんが立ち上がり、曖昧な視線のまま言う。

「じ、じゃあね」

 言葉を返すことができなかった。菊池さんの背中が離れてゆく。このまま、私たちの関係も終わりだろうか。別にそれでいい、と頭の中の誰かが言う。急に始まって、急に終わろうとしている関係。でも、このまま終わらせて良いのだろうか……

 考える間もなく、自然と足を踏み出す。立ち客を押しのけて、前方へと駆ける。呼吸がリズムを失って乱れる。閉まりかけたドアが、ガタンと再び開く。

 今の自分の気持ちって、どんな感じだろう。よくわからない。相手に気を使っているとか、そういう感じだろうか。

 右足を蹴り出してバスを降りる。前のめりに倒れそうになるのを勢いに変えて、背中を追いかける。左腕を後ろから掴むと、菊池さんがはっと振り返った。その顔を見上げると、気づけば口が動いていた。

「あの、入ります、写真サークル」

 菊池さんが少しのけぞる。口がゆっくりと開き、やがて笑顔に変わった。

「ほ、…ほんとに?」

 冷静な思考を徐々に取り戻し、少し考える。しかし、もう後戻りはできない。

「……はい」

 そう答えると、菊池さんは手を振りほどき、両手ですぐに私の右手を包んだ。指先にじわっと湿っぽい温かさを感じる。

「ありがとう、みおちゃん」

 埃っぽい春の空気を吹き飛ばす強風が吹き、紺色の長髪を揺らす。その直後、菊池さんがふと手を離した。

「そうだ、連絡先交換しようよ」

「あ、はい」

 急に現実に引き戻されたような感覚になる。スマホを取り出して、連絡先の少ない電話帳に「菊池さん」の名前を追加した。

「えと、そのうち、いや、近いうちに連絡するから」

「は、はい」

 慣れない電話を今から想像して、喉が詰まる。

「あれ、ここで降りちゃって、どうやって帰るの?」

 言われて気がつく。次のバスを待つか。いや、たぶん次のバスは一時間後だ。少し遠いけど、歩いて帰ろう。

「歩いて帰ります」

「えっ、歩くと結構距離が…… いや、なんでもない」

「…?」

「じゃ、またね」

「…はい、また」

 これから起こることへの不安と面倒臭さと、そして少しの期待を感じながら、離れてゆくその背中を眺めた。



『凪の写真選び』


 最初は、サークルに入るかどうかはどうでもいいと思っていたけど、ここまで来たなら入ってほしい、という気持ちが強くなってきた。なんとか写真に興味をもってもらえないだろうか。うーん、とりあえず写真を持っていってみようか。それが一番、手っ取り早そうだ。

 そうと決まれば、渾身の写真を選ぼう。アルバムをいくつか取り出し、床に広げる。

 まずは、これかな。日が出て間もない、早朝に撮った洞爺湖。波が穏やかで、島が湖面に反射している。

 さらにページをいくつか捲ると、鮮やかな赤が目に飛び込んでくる。

「これもいいね」

 確か、コキアっていう植物だったかな。赤色に染まるのは花ではなく葉っぱ。つまり紅葉だ。

 次は… 季節を変えて桜にしようかな。ぱらぱらとページを送って、桜の写真を探す。よし、これにしよう。近場だけど、桜が丘通の桜並木。道の両側から桃色の腕が伸び、トンネルを作っている。

 もっと雄大な感じの景色も欲しい。それならこれだ。神威岬から望む荒涼とした日本海。中学生のとき、家族で小樽旅行へ行った際に寄り道して撮った写真だ。暫し思い出に浸る。

 もう一枚くらい持っていこう。別のアルバムから良さげな写真を見繕う。

「おー」

 良いのがあった。牧場っぽい原っぱに、一頭のヤギが気持ちよさそうに横たわっている。後ろには羊蹄山が写っている。ちょっと小さいけど。

 五枚の写真を紙に挟んでリュックにしまう。景色にはあまり興味がなさそうだったけど、一枚くらい気に入ってもらえる写真があればいいな、と思った。

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