第9話:アルバムが開く過去
麻衣の自宅は、都内の静かな住宅街にあった。
タクシーを降りると、吐く息が白くほどけ、夕暮れの冷気が頬を撫でた。
古びた二階建ての家の玄関先でインターホンを押すと、すぐに扉が開き、落ち着いた雰囲気の女性が現れる。
「……璃子さんですね」
柔らかく、それでいて探るような眼差し。
それが、聖司の元妻──麻衣だった。
通されたのは、こぢんまりとした和室。
座卓の奥の仏壇には、黒縁の遺影が置かれている。
先日カフェで見せられた写真と同じ、穏やかな笑みをたたえた男性。
私の記憶の片隅に残る輪郭と重なりながらも、不思議なことに、その姿は時間が経つほどにぼやけていく気がした。
「……あの、これを」
私はカバンから、大事に包んでいた白いシャツを取り出す。
初めての夜、彼から借りて、洗って返そうとずっと持っていたものだ。
麻衣は受け取ると、ゆっくりと生地を指先で撫でた。
「……間違いないわ。
これ、聖司が持っていたのと同じデザイン。
袖の縫い目のほつれ、覚えてる」
その言葉に胸がひりつく。
たしかに彼は、あの夜このシャツを着ていた。
けれど、それがもうこの世にいない人のものだと知ると、布越しに感じた体温まで遠くへ消えていくようだった。
仏壇に手を合わせたあと、麻衣は押し入れの奥から古びた箱を取り出した。
「これ、遺品を整理していたときに見つかったの」
そう言って差し出されたのは、一冊のアルバム。
表紙は色あせ、角は擦り減っている。
ページをめくると、海辺で笑う少年、砂浜を駆ける後ろ姿、波打ち際で貝殻を拾う横顔──。
どの写真も、私の知らない彼の時間だった。
そして、あるページで私の手が止まる。
そこには、生後一年にも満たない赤ん坊が写っていた。
丸みを帯びた頬、大きくくっきりとした瞳──その面影が、今の私と重なって見える。
写真の裏には、おそらく母の筆跡でこう記されていた。
──「璃子 生後10か月」──。
息が詰まり、指先が震える。
どうして聖司のアルバムに、私の名前が記された写真があるのか。
ページをめくる手がこわばった。
だが、そのアルバムには、父や母の姿は一枚も残されていない。
「……これ、本当に私……?」
かすれた声で尋ねると、麻衣は静かにうなずいた。
「名前も、月齢も書いてある。間違いないと思う」
胸の奥で、いくつもの記憶の断片がぶつかり合い、混ざり合っていく。
確かめなければ──そう思う一方で、知ってはいけない真実がそこにある気がして、足がすくむ。
それでも、もう後戻りはできなかった。
この出会いが、私の人生を大きく変える予感だけが、確かにそこにあった。
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