第10話 過去と将来
「ねえ、行こう」
琴子が袖を引っ張る。桃子は次の間から出ると、すぐ横に二脚の椅子が用意されていた。そこに座る。
「ねえ、これからどうするの?」
小声で琴子が聞いてきた。桃子は首をかしげる。
「わからない。まあ、ここで待っていればいいのでしょ」
椅子に座って一時間。お茶を足しに行った以外は、ずっと座っていただけだった。
「楽は楽だけどさ。暇だね」
琴子は大きなあくびをしながら言った。
「ねえ、なんで浅草の旅館で戦ったの。その奈加さんと言う人と」
桃子の質問に、琴子は余った菓子を口にしながら、
「戦ってほしいからって言われたからさ。人に頼られたの、初めてだった」
「警察とか来なかったの。新聞記者も」
「そうね、来なかったね。ずっと銃をぶっ放してた。ここの社長が裏でお願いでもしている。そういう所よ。ここら辺は」
「ここのヤクザ達と戦ったわけじゃない。どうして?」
「百合さんとあの子の為だと思う。その二人、陸軍と水野武統に追われていたみたい。で、奈可さんが武統さんに手を引くように、武統さんのお母さんを説得した。けど失敗して銃撃戦になった」
「小曽根百合さん達はどうなったの?」
「……成功したと思う。百合さんの事知っているの?」
「その日の午後、どら焼き百個が届いてね。小曾根百合さんからの進物ですって」
「それは、奈加さんの仕業だよ」
「その少年って、何者なの?」
琴子は思い出しながら、自分の知っている事を全て話した。その内容に、次第に顔がひきつっていく桃子。
「それ、新聞社に話しましょう。真相を明らかにして、世間の人に知ってもらわないと」
「知らなくても、平和に過ごせればいいんじゃない。それに、私の中では終わった事だし。私はここで、一生働くって決めたし」
「でも……」
いきなり、次の間のドアが開いた。若い兵士が出てきた。琴子と桃子は、反射的に深いお辞儀をする。続々と人が出てきた。そのまま一階へと下りていく。
「二人は、すぐにこの部屋を掃除して。武統さんも、このままお出かけになるそうだから」
二人は返事をすると、近くの掃除用具が入った箱を開け、掃除用具を手に取ると、書斎へと入っていった。
「琴子、食器を片付けるから、カート持ってきて」
「あいよ」
そう言って、北館へと向かった。琴子は一人で書斎に入る。部屋全体を見回し、食器を大きなテーブルへと片付けていく。
「ねえ、余っているお菓子ある?」
ドアを開けるなり、ニコニコしながら、琴子は言った。桃子はその紙を、机の上に置いた。
「あるわよ」
「ラッキー」
琴子はテーブルの上に置かれてある、手を付けられていないお菓子を食べる。
「あー美味し。私たちの所にも、これくらい美味しいのが出てくれれば、嬉しいけどね」
琴子は書斎にある本棚を、ぐるっと見回した。
「ここにある本をさ、武統さんは全部読んでいるのかな。あの北村兼子も、そうなのかな……」
突然の質問に、桃子は、。
「飾りよ。ここに置いておけば、頭がよく見えるでしょ」
「あんた、すごい事を言うね」
「そんなものよ」
「でもさ、読み書きができれば、少し幸せになれるのでしょ。今からでも遅くはない?」
琴子の声は真剣だった。桃子は琴子の目を見ながら、頷いた。
「習うのに、歳は関係ないと思おう。勉強する気になった?」
「教えてよ。真っ当な人生を送りたいからさ」
「あんた、すごいね」
関心する桃子。二人はすぐに掃除を終わらせると、夕食の準備までの空き時間を利用して、溜場で勉強を始めた。
「良い事じゃない」
そこに現れたのが、岡見だった。
「この機会に言っておくわ。もう少ししたら、ここの屋敷を出て行って、もっと大きな屋敷に住むから」
桃子と琴子は、茶をすすりながら、聞いている。
「水野武統さんは、お国の事を考えていられる。大きな屋敷を作って、様々な人を呼んで、縁故を作るのよ」
「はあ……」
琴子も同じ反応だった。自分たちには無関係な世界に思えてきたが、それでも、岡見は続けた。
「あなた達も、武統さんの書斎から、上野動物園が見えるでしょ。あそこからさらに奥に、岩崎久彌さんのお屋敷があるの。洋館と和館の二つがあって、庭園もある。さらに、撞球(どうきゅう)室というもあるのよ。あそこには、世界各国の知識人や著名人が来ているの。ここの屋敷程度じゃ、そんな人達を恥ずかしくて呼べない。だから、大きな屋敷を建設中よ」
「はあ……」
「お屋敷が大きくなると、女中も多くないと、仕事が回らない。岩崎さんの屋敷には、女中が八人。使用人が四人。後は庭師もいるわ。総勢五十人はいるらしいの」
「そんなに……」
「私も昔、大姐さんと一緒に行かせてもらったわ。正直、単なる金持ちだけでは、あそこまでの、素晴らしい屋敷は建てられない。けど、武統さんはそれを目指している。あなた達には女中として働いてもらう。これから、私がみっちり教えるから。しっかり覚えるように。そして、後輩達にしっかり教えるように」
岡見は二人の目をしっかりと見る。未だに、決心がつかない桃子。
「琴子。武統さんが、あなたの事を調べてくれたわ。浅草で借金をしていたそうね」
「ええ。でも無茶苦茶な借金です。それで、知り合いの弁護士に頼んでいます」
「武統さんが、肩代わりするわ」
「えっ」
驚く琴子。
「だから、しっかりと働きなさい。それと、所作も」
「はい……あの、ありがとうございます」
「それは、武統さんに言いなさい」
「はい」
「二人とも、良い主人の下で仕えているわ。あの人はきっと、日本を動かすようなお方になる。後は結婚をして、子供を授かってくれないとね。そうしたら、桃子がお世話係になってもらうから」
「……はい」
「私の夢はね。武統さんが立派な日本男子になってもらう事。その為に一生懸命に支えるの。お父様もお母さまもお亡くなりになってしまったから。もう、小さな頃から知っているのは、私ぐらいね」
「岡見さんは、どうしてここで?」
「私は新潟で産まれたのよ。そこで東京に来て、私はここで生涯を全うすると、心に決めたわ。琴子、あんたの夢は何?」
「今時、文字も読めない、学歴も何もない私に、選べる夢なんてありません」
琴子はため息をついた。
「普通の十七歳だったら、今頃どんな人生を送っているの?」
「昔だったら女中として働いて、結婚ね。今は女工かもね」
桃子が言った。
「私も十七。もうすぐ結婚して、旦那と生活している人もいるのかって、考えるとね」
「あんたも、悩みが多いのね」
「奈可さんといた時は、もうすぐ死ぬって覚悟だったから、先の事は何も考えてなかった。こうやって、生かされるとなるとね」
琴子は目線を机から桃子に向ける。
「桃子は、結婚は考えなかったの?」
「両親が必死で探している」
「結婚と仕事、どっちが幸せなの?」
「私はまだ、どっちも覚悟を決めてないから、わからない……」
桃子は顔を下に向ける。
「結婚の為に頑張っても、できない人間は、独りぼっちで死ぬのよ。子供を産む事も、家庭を築く事もできない。仕事しかできないって。だから、寂しく死ぬよりはさ、何かを残して死にたいって。私の友達が言ってた」
「そう……」
しばらく、しんみりとした空気が流れた、それを壊したのは、岡見だった。
「さあ、仕事に戻りな」
「はい」
桃子は溜場から出て行く。次に桃子が出て行こうとした。
「琴子、ちょっといい?」
「はい」
「本気で文字を習いたいなら、学校に行ってみるかい」
「でも、わたし十七ですよ」
「私がどうにかするよ。学校の先生にも顔が利くからね。忙しい時はダメだけど、暇な時は先生に習った方が、すぐに覚えられるからさ」
「ありがとうございます」
琴子は深々と頭を下げ、桃子の後を追った。
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