第三章 日常

 〇六〇〇。

 カイは目を覚ました。昨日と同じ時刻。アラームは鳴っていない。

 天井を見上げる。白い平面。隅の茶色い染み。すべてが昨日と同じだった。

 いや、違う。

 カイは起き上がり、腕を見た。昨日、ジンの攻撃を受け止めた場所。痛みはもうない。打撲の跡すらない。まるで、何事もなかったかのように。

 シャワーを浴び、制服に着替える。簡易キッチンで朝食を用意する。栄養バーと合成コーヒー。昨日と同じメニュー。おそらく明日も、明後日も。

 

 〇六三〇。

 カイは部屋を出た。廊下には既に何人かの市民が歩いている。皆、同じような服装で、同じような表情をしている。穏やかで、満足そうで、そして奇妙に画一的だ。監視カメラの赤い光が、規則正しく明滅していた。

 エレベーターで地下五階へ。セントラルプラザに出ると、朝の活動が始まっていた。

 広い空間に、人工の朝日が差し込んでいる。天井には巨大なスクリーンがあり、明るい青い映像と、ゆっくりと流れる白い塊が映し出されていた。市民たちは、それを当たり前の光景として受け入れている。

 プラザを横切る人々を、カイは観察した。

 労働者たちが、決められた時刻に、決められた場所へ向かっていく。挨拶を交わし、微笑み合い、満足そうに歩いている。誰も急いでいない。誰も迷っていない。

 若い労働者ほど、その動きは完璧だった。一方、長く働いている者たちは、時折立ち止まったり、知り合いと言葉を交わしたりしている。

 まるで、時間と共に何かが変わっていくかのように。

 カイは立ち止まった。何かがおかしい。だが、何がおかしいのか、うまく言葉にできない。

「カイ?」

 振り返ると、ミオが立っていた。

「おはよう。早いのね」

「ああ、少し歩きたくて」

 ミオは頷いた。彼女も訓練に備えて制服姿だった。

「私も同じよ。たまには、ゆっくり街を見るのもいいでしょう?」

 二人は並んで歩き始めた。

「昨日の任務、お疲れさま」

 ミオが言った。

「初任務にしては、上出来だったわ」

「運が良かっただけです」

「運?」

 ミオが小さく笑った。

「あの動きは運じゃない。体が覚えているのよ」

 体が覚えている。その言葉に、カイは違和感を覚えたが、追及はしなかった。

 

 プラザの中央には、大きな噴水があった。水は循環し、永遠に同じ形を描いている。その周りにベンチが並んでいる。

 妙なことに、一部のベンチには手すりが付いていた。座面も低い。誰のためのものなのか。カイが見る限り、そこに座る市民は誰もいなかった。

「あのベンチは?」

 カイが指さすと、ミオは視線を向けた。

「さあ……昔からあるわね。でも、誰も使わない」

「なぜ作られたんだ?」

「分からないわ。アルファには、そういうものがたくさんある」

 ミオは興味なさそうに言った。

 確かに、よく見ると、不思議な設備がいくつもあった。緩やかなスロープが、階段と並行して設置されている。手すりの高さが異なる通路。意味の分からない優先席の表示。

 プラザの片隅には、色鮮やかな構造物があった。金属の管を組み合わせた骨組みから、滑らかな傾斜面が伸びている。鎖で吊り下げられた板状の座席。砂の入った区画。すべて清潔に保たれているが、誰も近づかない。

「あれも、昔からあるの?」

 カイが聞くと、ミオは肩をすくめた。

「ええ。定期的に塗装もされるし、砂も入れ替えられる。でも、使い道は誰も知らない」

 カイは奇妙な感覚を覚えた。使われない設備が、なぜ維持され続けるのか。

 すべて丁寧にメンテナンスされているが、誰も使っていない。まるで、存在理由を忘れられた遺物のように。

 

 〇七〇〇前。

 二人はトラブルシューター本部に到着した。今日は定期訓練の日だ。ブリーフィングルームには、既にショウが来ていた。天井の蛍光灯に、小さな虫の死骸が張り付いているのが見えた。

「よう、早いな」

 ショウは相変わらず陽気だった。だが、カイは気づいた。その笑顔の奥に、何か別のものが潜んでいることに。疲労、とでも言うべきか。

「今日は訓練か」

 カイが言うと、ショウは大げさにうなずいた。

「そうさ。体を動かさないと、なまっちまうからな」

 レンが入ってきた。いつもと変わらない、落ち着いた様子だ。

「全員揃ったな。ユキは?」

「まだです」

 ミオが答えた。

 その時、ドアが開いた。ユキが入ってくる。カイと目が合った瞬間、彼女はすぐに視線を逸らした。その瞳に、一瞬何かが揺れた。

「遅れてごめんなさい」

「時間通りだ」

 レンが言った。

「じゃあ、訓練場へ行こう」

 

 訓練場は地下二階にあった。広い空間に、様々な障害物が配置されている。射撃場、格闘訓練エリア、そして模擬市街地。換気口から低い機械音が聞こえていた。

「今日は二人一組で市街地戦闘訓練だ」

 レンが説明した。

「カイとショウ、ミオとユキ。俺は監督する」

 レンがペアを告げた時、カイは無意識にユキの方を見た。彼女と組むのではないかと、なぜか思っていたのだ。

 ユキもカイを見ていた。一瞬、安堵のような、失望のような、複雑な表情が浮かんだ。だがすぐに無表情に戻り、ミオの方へ歩いて行った。

 ショウがカイの肩を叩いた。

「よろしくな、相棒。手加減はしないぜ」

 

 訓練が始まった。

 模擬市街地は、アルファの居住区を再現していた。同じ灰色の壁、同じ配置の扉。カイとショウは攻撃側、ミオとユキが防御側だ。

「さて、どう攻める?」

 ショウが聞いた。だが、カイの体は既に動き始めていた。

 左の路地から回り込み、高所を取る。ショウが正面から陽動をかける間に、側面から侵入する。頭で考える前に、体が最適な戦術を選んでいた。

「お前、本当に新人か?」

 ショウが感心したように言った。

「いい動きだ。じゃあ、その作戦で行こう」

 二人は散開した。

 カイは音を立てずに移動した。足の置き方、呼吸のリズム、視線の配り方。すべてが自然だった。まるで、この道を何度も通ったことがあるかのように。

 角を曲がった瞬間、青い光が飛んできた。

 カイは反射的に身を低くした。ビームが頭上を通過する。撃ったのはユキだった。

 彼女は既にカイの動きを読んでいた。いや、知っていた、と言うべきか。

 カイは転がりながら遮蔽物に身を隠した。ユキの次の射撃ポイントを予測し、別の経路を選ぶ。だが、そこにもユキが待ち構えていた。

 まるで、カイの思考を読んでいるかのように。

「動きが単調よ」

 ユキの声が響いた。訓練とは思えない、真剣な響きがあった。

「もっと予測不可能に動いて」

 アドバイスなのか、挑発なのか。カイには分からなかった。

 その時、ショウの陽動が功を奏した。ミオが対応に追われた隙に、カイは一気に距離を詰めた。

 ユキとの距離、五メートル。

 彼女の銃口が向く。カイも銃を構える。

 一瞬、時が止まったような錯覚。

 ユキの瞳に、複雑な感情が浮かんだ。懐かしさ、悲しさ、そして何か切実なもの。その指先が、微かに震えた。

 だが次の瞬間、彼女は引き金を引いた。

 カイも同時に撃った。

 二つのビームが交差し、両者に命中。訓練用なので実害はないが、センサーが反応を記録した。

「相討ちか」

 レンの声が響いた。

「いい勝負だった。特にカイ、見事な動きだ」

 カイは立ち上がり、ユキに近づいた。

「ありがとう。アドバイス、参考になりました」

 ユキは一瞬、戸惑ったような顔をした。それから、小さく頷いた。

「……どういたしまして」

 そう言って、また視線を逸らした。

 

 訓練後、シャワールームで汗を流しながら、ショウが話しかけてきた。

「なあ、カイ」

「何だ?」

「お前とユキ、何かあったのか?」

 カイは手を止めた。

「どういう意味だ」

「いや、なんていうか……」

 ショウは言葉を選ぶように続けた。

「あいつ、お前を見る目が違うんだよ」

「違う?」

「ああ。何て言えばいいかな……必死っていうか」

 ショウは首を振った。

「前の新人の時は……」

 ショウの表情が曇った。思い出そうとして、思い出せない。眉間に皺が寄る。

「おかしいな。前の新人って、いつだったっけ」

 困惑した表情のまま、ショウは頭を掻いた。

「まあ、いいや。とにかく変わってるよ、ユキの態度」

 カイは黙って聞いていた。

 ショウは肩をすくめた。

「まあ、余計なお世話かもな。忘れてくれ」

 だが、カイの中で、また一つ疑問が増えた。

 

 昼食後、カイは自室に戻った。

 午後は自由時間だ。報告書の整理でもしようと思い、机に向かった。その時、廊下から足音が聞こえた。

 誰かが自分の部屋の前で立ち止まる気配。

 ノックはない。

 カイは立ち上がり、ドアに近づいた。耳を澄ます。呼吸音が聞こえる。誰かがドアの向こうにいる。

 ノブが回る音。

 鍵がかかっているはずだ。だが、電子音と共にロックが解除された。

 カイは物陰に身を隠した。なぜか知っている隠密行動。

 ドアが静かに開き、人影が入ってきた。

 ユキだった。

 彼女は周囲を見回し、カイがいないことを確認すると、ゆっくりと部屋の中を歩き始めた。

 机の上のペンを手に取り、じっと見つめる。椅子に触れ、ベッドの端に腰を下ろす。その動作の一つ一つに、奇妙な感情がこもっていた。

 懐かしそうに。

 愛おしそうに。

 まるで、思い出の品を確かめるように。

 ユキは立ち上がり、壁に近づいた。カイが見つけた、判読できない落書きのある場所だ。彼女は指でそれをなぞった。その表情に、深い悲しみが浮かんだ。

 それから、引き出しを開けた。カイが昨夜、そして今朝も無意識に探った、あの引き出し。

 彼女は奥まで手を入れ、何かを探した。指先が引き出しの隅々まで確認する。だが、何も見つからない。

 もう一度、今度はより丁寧に探る。まるで、そこにあるはずの何かを、あるべき何かを求めるように。

 やがて、ユキの手が止まった。

 空の引き出しを見つめる彼女の瞳に、困惑が浮かんだ。そして、その困惑は徐々に諦めへと変わっていった。

 ユキはそっと引き出しを閉めた。

 その時、廊下から別の足音が聞こえた。ユキは慌てて立ち上がり、ドアに向かった。

 出て行く直前、彼女は振り返った。部屋全体を、記憶に焼き付けるように見回す。その瞳には、深い悲しみがあった。

 ドアが閉まる。

 カイは物陰から出て、呆然と立ち尽くした。

 ユキは、この部屋を知っている。

 いや、この部屋にいた誰かを知っている。

 前任者を。

 カイは引き出しに近づき、もう一度奥を探った。ユキが探していたもの。かつてそこにあったもの。

 指先が、わずかな傷に触れた。引き出しの底板に、何かで引っかいたような跡。よく見ると、文字のようだった。

 Y、そしてK。

 イニシャルか。だが、それ以上は読み取れない。

 カイは椅子に座り込んだ。

 前任者も、ユキと何か関係があった。彼女が昨日の歓迎会で見せた態度。今日の訓練での真剣さ。そして、この部屋での振る舞い。

 すべてが繋がり始めていた。

 だが、答えはまだ見えない。

 

 夕方、食堂で夕食を取っていると、レンが隣に座った。

「調子はどうだ?」

「問題ありません」

 カイは答えた。レンは頷き、自分のトレイを置いた。左手でフォークを持ち、少し前かがみになって食事を始めた。

「アルファの生活には慣れたか?」

「ええ、快適です」

 それは嘘ではなかった。食事は保証され、住居も清潔で、仕事も明確だ。

「それは良かった」

 レンはスープをかき混ぜてから口に運んだ。

「毎日同じ食事だが、飽きないか?」

「特には」

「そうか」

 レンは小さく笑った。だが、その笑顔には疲労の色があった。

「俺も最初はそう思っていた。だが最近は……いや、何でもない」

 言いかけて、レンは口を閉じた。フォークを見つめ、また口に運ぶ。その動作に、微かな疲れが滲んでいた。

「レン?」

「ああ、すまない。少し考え事をしていた」

 レンは話題を変えた。

「ところで、カイ。君は幸福か?」

 唐突な質問だった。

「幸福?」

「ああ。難しい質問だったな。忘れてくれ」

 レンは苦笑した。

「ただ、最近よく考えるんだ。何が人を満足させるのか、とな」

 カイは黙って聞いていた。

「毎日毎日、同じことの繰り返し。同じものを食べて、同じ場所で眠る。それで満足できる者もいれば、できない者もいる」

「レンは、どちらですか?」

 レンは少し考えてから答えた。

「分からない。ただ……」

 また言葉が途切れた。

「ただ?」

「いや、やめておこう。任務は任務だ」

 レンは立ち上がった。

「説教じみた話をして悪かった。長く生きると、つい余計なことを考えてしまう」

 去り際、レンは振り返った。

「一つだけ言えるのは、考えすぎない方がいいということだ」

 それだけ言って、レンは去って行った。

 カイは一人、食堂に残された。周りでは市民たちが談笑している。皆、満足そうで、幸福そうだ。若い市民ほど、その様子は画一的だった。

 だが、それは本当の幸福なのか。

 考えすぎない方がいい、とレンは言った。

 だが、考えずにいられるだろうか。

 天井を見上げる。蛍光灯の明かりが、規則正しく照らしている。

 カイには、分からなかった。

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