第四章 都市
〇五三〇。
カイは目を覚ました。いつもより三十分早い。
なぜだろう。アラームは鳴っていない。だが、体が勝手に起きた。まるで、今日が特別な日だと知っているかのように。
天井の茶色い染みが、薄暗い中でぼんやりと見える。窓のない部屋で、時刻を確認する。人工の夜はまだ明けていない。
カイは起き上がり、制服に着替えた。早朝のパトロールに出ることにする。今日は任務のない日だ。自由時間を、街の観察に使おう。
廊下は静まり返っていた。この時間、ほとんどの市民はまだ眠っている。カイの足音だけが、規則正しく響く。監視カメラの赤い光が、いつもと同じリズムで明滅している。
エレベーターで地下十階へ。深夜勤務の労働者たちが働く産業区画だ。
扉が開くと、機械音が耳に飛び込んできた。食料生産プラント、リサイクル施設、浄水場。アルファの生命線が、休むことなく稼働している。換気口からの低い音が、都市の呼吸のように響いていた。
労働者たちは、カイの姿を見ても反応しなかった。トラブルシューターの巡回は日常の一部だ。
カイは通路を歩きながら、労働者たちを観察した。
すぐに気づいた。労働者たちの動きが、微妙に違うのだ。
ある若い男は、完璧な動作でレバーを操作している。無駄がなく、機械的で、表情も変わらない。隣の中年女性は、同じ作業をしながら小声で何かをつぶやいている。歌かもしれない。
別の場所では、二人の労働者が作業の合間に短い会話を交わしていた。
「また配管の調子が悪い」
「いつものことさ」
慣れた様子で言葉を交わし、すぐに作業に戻る。
一方、奥の方では、一人の男が苛立たしげに機械を叩いていた。
「くそ、また詰まりやがった」
乱暴な手つきで修理を始める。その隣では、若い労働者が困惑したような顔で先輩を見ていた。
同じ仕事、同じ環境。だが、働く者たちの様子は一様ではない。
新しい者ほど完璧で、古い者ほど……個性的だ。
カイは首を振った。考えすぎだ。レンの言葉を思い出す。「任務は任務だ」。そう、観察も任務の一部。
〇六〇〇。
シフト交代の時間だ。夜勤の労働者たちが、日勤の労働者たちと入れ替わる。
ここでも違いが見えた。
若い労働者たちは、完璧なタイミングで交代する。引き継ぎも最小限。
「異常なし」
「了解」
それだけだ。
だが、長く働いている労働者たちは違った。
「調子はどうだった?」
「まあまあだな。三番機がまた音を立ててる」
「あれか。もう寿命かもな」
短い雑談を交わしてから、ようやく交代する。中には、露骨にため息をつく者もいた。その顔には、深い疲労が刻まれている。
カイはエレベーターに乗り、地上階層へ向かった。
〇七〇〇。
セントラルプラザは、朝の活動で賑わっていた。
人工の朝日が広い空間を照らしている。市民たちが、それぞれの目的地へ向かっていく。
ここでも同じ光景が見えた。
若い市民たちは、まるで決められた軌道を進むように歩いている。同じ速度、同じ歩幅、同じタイミングで信号を渡る。朝食を取る者も、効率的に食堂へ向かい、決まった時間で食事を終える。
だが、長く暮らしている市民たちは違った。
ある者は歩きながら考え事をしているのか、時折立ち止まる。別の者は、わざわざ遠回りをして散歩を楽しんでいるようだ。ベンチに座って新聞端末を眺める者もいれば、知り合いを見つけて立ち話を始める者もいる。
同じベンチでも、座り方が違う。若い者は背筋を伸ばして規定時間だけ座るが、長く暮らしている者は思い思いの姿勢で、好きなだけ座っている。中には、うたた寝をしている者すらいた。
カイは気づいた。アルファは完璧に管理された都市だが、完璧に画一的ではない。
時間と共に、差異が生まれる。
そして、皆が同じような年齢層に見えることにも気づいた。二十代から四十代。それより若い者も、それより上の者もいない。だが、それを不思議に思う自分が不思議だった。それが普通なのだから。
その時、プラザの端で動きがあった。
医療班の白い制服を着た者たちが、居住区画から何かを運び出している。長い袋だ。人が一人入るほどの大きさ。
市民たちは、特に注目することもなく通り過ぎていく。日常の光景なのだろう。
医療班は手際よく袋を運搬車に載せ、去って行った。その後には、何事もなかったかのような静けさが戻る。
カイは、その光景を見つめていた。あの袋の中身は……。
考えるまでもなかった。アルファでは、病死は稀だ。事故も少ない。では、なぜ。
近くのベンチで、二人の市民が小声で話していた。長年この街で暮らしている者たちだろう。顔には個性的な皺が刻まれ、疲労の色が濃い。
「またか」
「今月で三人目だな」
「まあ、よくあることさ」
それ以上は聞こえなかった。二人は立ち上がり、それぞれの方向へ歩いて行く。
カイは理解した。死は、この街の日常の一部なのだ。
市民たちにとって、それは朝食や出勤と同じくらい当たり前の光景。
「カイ」
振り返ると、ミオが立っていた。手にはいつものタブレット端末。
「おはよう。今日は非番のはずでしょう?」
「ああ、少し街を見ていた」
ミオは頷いた。
「私も同じよ。データ収集も兼ねてね」
二人は並んで歩き始めた。
「何かおかしなことは?」
ミオが聞いた。
「いや、すべて正常だ」
「そう。それが一番」
ミオはタブレットに何かを入力している。おそらく巡回記録だろう。
「ミオは、この街をどう思う?」
カイは唐突に聞いた。ミオは歩きながら答える。
「効率的で、安全で、快適。理想的な都市よ」
「理想的、か」
「違うの?」
ミオが振り返った。
「犯罪は起きても即座に対処される。医療は完璧。食料も十分。市民は健康で、満足している。これ以上、何を望むの?」
正論だった。カイは答えられなかった。
その時、プラザの端で声が聞こえた。
一人の男が、何かを掲げて話している。中年の男だった。額には深い皺が刻まれ、目には疲労と共に個性的な光が宿っている。長年この街で暮らしてきた者の特徴だ。
「見てくれ! これが大崩壊前の記録だ!」
市民たちの反応は様々だった。若い者たちは無関心に通り過ぎる。だが、長く暮らしている市民の中には立ち止まる者もいた。
「我々の暮らしとは違う世界があった! 家族というものがあり、世代を超えて繋がっていた!」
男の声は情熱的だった。手には四角い物体を持っている。表紙のようなものがあり、中には薄い板が重なっているようだ。
「これは本というものだ! 知識を記録し、伝える道具だった!」
数人の市民が男の周りに集まり始めた。ある者は興味深そうに、ある者は懐疑的に、男の話を聞いている。
「今の生活に疑問を持つ者はいないか? なぜ我々には過去がないのか? なぜ皆、同じような顔をしているのか?」
トラブルシューターが近づいてきた。第三小隊の隊員たちだ。だが、男を止めようとはしない。ただ、周囲の安全を確保するように配置についた。
「真実を知りたい者は、調べるがいい! 資料は隠されていない! ただ、我々が見ようとしなかっただけだ!」
男は本を掲げ続けた。
カイは、その四角い物体に目を奪われた。本。聞いたことのない言葉だった。
「あれは何だ?」
カイがミオに聞くと、彼女は端末を操作しながら答えた。
「本ね。大崩壊前の情報記録媒体よ。紙という素材に文字を印刷したもの」
「見たことがあるのか?」
「証拠品保管庫にいくつかあるわ。誰でも閲覧申請できる」
ミオは男の方を見た。
「ああいう人は時々現れる。過去に興味を持って、調べ始める。そして……ああなる」
「ああなる?」
「現在と過去を比較して、混乱するのよ。でも、別に違法じゃない。思想の自由は保障されているから」
確かに、トラブルシューターたちも男を逮捕する様子はなかった。ただ、興奮した市民同士のトラブルを防ぐために待機している。
やがて、男は話し終えたようだった。集まっていた市民たちも、それぞれの目的地へ散っていく。何人かは考え込むような顔をしていたが、多くは日常に戻っていった。
男は本を抱えて、どこかへ歩いて行った。満足そうな、それでいて疲れたような表情だった。
「証拠品の本、見せてもらえるか?」
カイが聞くと、ミオは少し考えてから答えた。
「誰でも閲覧可能よ。興味があるの?」
「少しだけ」
「いいわ。後で案内するわ」
ミオは男が去っていく方向を見ながら続けた。
「ああいう人は時々現れるの。経年変化の一種よ」
「経年変化?」
「長く生きると、個性が出てくる。そして一部の人は、過去に興味を持つようになる」
ミオはタブレットを操作し、グラフを表示させた。
「ほら、月に一度から二度。必ず誰かが……ああなる」
グラフは規則的な波を描いていた。反乱、暴動、精神的混乱。すべてが予測可能な範囲内で起きている。
「なぜだろう」
カイがつぶやくと、ミオは肩をすくめた。
「完璧なシステムでも、一定の変化は起きるものよ。大事なのは、それを適切に管理すること」
〇九三〇。
ミオに案内され、カイは証拠品保管庫へ向かった。トラブルシューター本部の地下一階。厚い扉には何の表示もなかった。単に、普段は誰も興味を持たない場所なのだ。
ミオがカードキーをかざすと、ロックが解除される。
「押収品は分類されて保管されているの。誰でも閲覧できるけど、普段は誰も来ないわ」
薄暗い室内に入ると、整然と並んだ金属製の棚が見えた。それぞれに分類番号が付けられている。蛍光灯に、小さな虫の死骸が張り付いていた。
「こちらが大崩壊前の資料」
ミオが奥の棚を指した。そこには四角い物体が並んでいる。すべて本だった。
「自由に見ていいわ。ただし、持ち出しは禁止。それと、あまり入れ込まないことね」
ミオはそう言って、入口近くの椅子に座った。端末を開き、何かの作業を始める。
カイは一冊を手に取った。
『家族の肖像』という題名だった。
ページを開く。薄い板に、色のついた画像が印刷されている。大人と小さな人物が一緒に写っていた。皆、口元を曲げている。笑顔、というものだろうか。だが、アルファで見る笑顔とは違っていた。
もっと……不規則だ。
説明文を読む。「家族」という単語が繰り返し出てくる。カイは知らない言葉だった。血縁関係にある者たちが一緒に暮らす単位、とある。
血縁関係。それも知らない概念だった。
次のページには、別の画像。髪の色が薄く、顔に深い皺が刻まれた人物が、椅子に座っている。カイはそんな人物を見たことがなかった。アルファには存在しない。説明には「祖母」とあった。
祖母。また知らない言葉。
カイは本を閉じた。理解できない概念ばかりだ。だが、一つ分かったことがある。
大崩壊前の世界は、今とはまったく違っていた。
「現在と過去を比較して、混乱する」と、ミオは言った。確かにその通りかもしれない。
別の本を手に取る。『埋葬の記録』という題名。
中を開くと、石の板の画像があった。そこには文字が刻まれている。人の名前と、数字。生まれた年と、死んだ年。
説明文に「墓」という言葉があった。死者を記念する場所、とある。
記念。それは理解できた。だが、なぜ死者を記念するのか。アルファでは、死者は速やかに処理される。記念などしない。それが効率的だ。
「興味深い?」
ミオが聞いた。
「……分からない」
カイは正直に答えた。
「理解できない概念ばかりだ」
「それが普通よ」
ミオは肩をすくめた。
「私たちの世界とは、根本的に違うから。比較しても意味がない」
だが、カイは一つ気になった。本に写っていた、髪の色が薄く皺の深い人物。アルファでは見たことがない。なぜだろう。すぐに考えを振り払った。大崩壊前の世界のことなど、知る必要はない。
カイは本を棚に戻した。
知識を得たが、それが何の役に立つのか分からない。
ただ、胸の奥に、小さな疑問が残った。
その後、カイは再び街を歩き回った。だが、朝に感じたような新しい発見はなかった。市民たちは相変わらず規則正しく生活し、設備は完璧に機能していた。
夕方、トラブルシューター本部に戻ると、レンとショウが待っていた。
「どこに行ってたんだ?」
ショウが聞いた。
「街を見ていた」
「非番の日も働くなんて、真面目だな」
ショウは笑ったが、レンの表情は真剣だった。
「何かあったか?」
「いや、特には」
カイは証拠品保管庫のことは言わなかった。なぜか、言うべきではない気がした。
「そうか」
レンは納得したようだった。だが、その目には、何か別の感情があった。心配、とでも言うべきか。
「夕食に行こう」
レンが立ち上がった。
「今日はユキも来る。チーム全員で食事だ」
食堂で、五人はいつものテーブルに着いた。
ユキはカイの向かいに座った。視線は合わせないが、時折、カイの方を見ているのが分かる。その瞳には、何か複雑な感情が宿っていた。
「今日の昼、プラザで騒ぎがあったな」
ショウが話を切り出した。
「ああ、演説してた男か」
レンが応じた。左手でフォークを持ち、少し前かがみになりながら食事をしている。
「大事にならなくて良かったな」
「演説してるだけなら何も問題はないさ」
ショウが肩をすくめた。
「任務は任務だ」
レンがスープをかき混ぜながら言った。
「思想の自由は保障されている。行動に移さない限りはな」
「大きな問題になることがあるんですか?」
カイが聞くと、ミオが答えた。
「ええ。叫ぶだけじゃ飽き足らず、都市の設備を壊し始める人もいるの」
「そうなれば、俺たちの出番ってわけだ」
ショウが付け加えた。
「先月も配電施設を襲撃したやつがいた。コンピュータが市民を支配してるって信じ込んでな」
「どうなったんですか?」
「制圧した」
レンが簡潔に答えた。
「都市機能の破壊は、全市民の生存を脅かす。それは許されない」
「毎月恒例だな」
ミオが付け加えた。
「先月は第五居住区、その前は第十二居住区。場所は変わるけど、パターンは同じ」
「なぜだろうな」
ショウが首を傾げた。
「満足してるはずなのに、突然ああなる」
「満足していないからよ」
突然、ユキが口を開いた。全員の視線が彼女に集まる。
「何か不満でもあるのか?」
ショウが聞くと、ユキは首を振った。
「私じゃない。ああなる人たちの話」
ユキはフォークを握りしめた。その指先が、微かに白くなっている。
「毎日毎日、同じことの繰り返し。それに耐えられなくなる」
「でも、俺たちは耐えてるぜ」
ショウが言った。
「そうね。今のところは」
ユキの言葉には、微かな皮肉が込められていた。
沈黙が流れた。重い空気を破ったのは、レンだった。
「人はそれぞれだ。満足の基準も違う」
レンはそう言って話を締めた。だが、カイは気づいていた。レンの手が、微かに震えていることに。
食事が終わり、メンバーが席を立ち始めた。カイも立ち上がろうとした時、ユキが小声で言った。
「気をつけて」
カイは振り返った。
「何を?」
「……分からない」
ユキは困ったような顔をした。
「ただ、あなたを見ていると、不安になる」
「なぜ?」
ユキは答えなかった。立ち上がり、足早に食堂を出て行く。
カイは一人、テーブルに残された。
ユキの言葉が気になった。何を気をつけるのか。何が不安なのか。
自室に戻ったカイは、今日一日を振り返った。
完璧に管理された都市。効率的な労働者たち。予測可能な反乱者。そして、失われた過去の記録。
すべてが計算されているかのようだった。
いや、計算されているのだ。コンピュータによって。
だが、それの何が悪い? 市民は健康で、犯罪もなく、食料にも困らない。
ただ……。
カイは天井を見上げた。例の茶色い染み。それを見ていると、奇妙な感覚に襲われる。
この瞬間を、前にも経験したような。
同じベッドで、同じ天井を見上げて、同じことを考えたような。
カイは首を振った。疲れているのだ。今日は普段より歩き回った。
だが、眠りにつく前に、奇妙な感覚が胸を掠めた。
天井の茶色い染み。それを見つめていると、記憶の奥で何かが蠢く。
知っているような、知らないような。
ここにいたような、初めてのような。
窓のない部屋で、人工の夜が更けていく。
明日の朝も、アラームが鳴るだろう。
明日の街も、今日と同じように動くだろう。
それは約束された平和。
あるいは、完璧に設計された舞台。
そこで演じられる、同じ脚本。
カイは目を閉じた。胸の奥の違和感は、消えなかった。
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