第27話 江戸の緊迫した医療現場
夕暮れどき、河田先生の診療所はほの暗い灯火の下にあった。土間に敷かれた藁の香りと、かすかに湿った木の匂いが混じり合う。貴司は医療道具を手にとりながら、ひたすら先生の動きを見つめていた。
「おい、貴司、そなたも薬草の名前を覚えておけ。これは傷口に塗ると化膿を防ぐ効果があるのだ」
河田先生は穏やかだが確かな眼差しでそう告げる。貴司は、薬草の種類と効能を和紙に書き留める。
だがその手は、いつも使っているゲームのマウスではなく、指先が土と染みついた布切れを握る。もどかしさを感じつつも、貴司は懸命にくらいつく。
「ゲームのスキルツリーとは違うけど…これも一種の『クエスト』だと思えばな」心の中でそう言い聞かせる。
患者が一人、診療所の戸を叩いた。やや苦しげな表情の男が現れ、河田先生がすぐに対応する。貴司も先生の指示に従い、包帯や薬草の準備を急ぐ。
「これ、化膿止めか……なるほど、HP回復アイテムみたいなもんだな」
思わず呟いた貴司に、河田先生が軽く微笑んだ。
しかし治療は決して簡単ではなかった。患部の洗浄中、男がうめき声をあげる。貴司はすぐさま冷静を装うが、顔は強張っていた。
「よし、ここは落ち着け。現代のゲームでいうと『ボス戦』の序盤くらいだ」心の中でつぶやき、次の手順を確認する。
何度も繰り返される診療の中で、貴司の動きは少しずつぎこちなさを脱し、先生の補助として役立ち始めていた。
診療を終え、夜の闇が濃くなるころ、貴司は疲れたが充実感を胸に抱いていた。
「……江戸時代のこの医療現場、リアルすぎて、ゲームの中のチュートリアルなんて甘いもんだったな」
と独りごちた。
その日の診療所は、昼下がりの静けさに包まれていた。河田先生は帳場で薬の調合をしており、奥では助手のお鶴さんが煎じ薬の番をしている。貴司は、使い終えた包帯を洗い、天日干しの準備をしていた。
突然、表口から荒い声が飛び込んできた。
「先生! 早く! 怪我人だ!」
駆け込んできたのは町内の若い衆二人。
戸口が荒々しく開き、町人二人に肩を支えられた男が運び込まれる。右腕には深い刀傷、袖は血でぐっしょりと濡れていた。
「先生、急ぎで!」
河田先生は眉間に皺を寄せ、無言で男の傷を一瞥する。
「白石先生、熱湯を——お鶴、包帯と紙を」
白石先生は副先生らしく、動きに一切の無駄がない。長年の経験から、指示が飛ぶ前に次の段階を察して動く。
「貴司、お前はこの桶を押さえておけ。血を流して洗う」
桶の湯は白く濁り、鉄の匂いが立ちこめた。
が呻き声をあげると、お鶴さんがすぐ耳元で落ち着いた声をかける。
「大丈夫、大丈夫……しっかり息をして」
その手は、迷いなく患者の額の汗を拭き取っている。
河田先生は傷口に薬草をすり潰した膏薬を塗り、糸と針で縫い始めた。
「白石先生、もっと光を寄越せ」
障子越しの明かりを反射させるように、白石先生が金属製の匙を手にして角度を調整する。
貴司は針と糸を見て思わず顔をそむけたが、白石先生の短い一言で我に返る。
「目を逸らすな。お前も今から手を添えろ」
「……はいっ!」
縫い終わると、河田先生は筆を取り、経過を書き留める。紙はまだ血の匂いの中にある。
「傷は深いが、腱は切れておらぬ。あとは熱を出させぬよう……」
だが患者の胸は不規則に上下し、意識は薄れていく。
お鶴さんがすぐに気づき、河田先生に目配せをする。
「熱が上がり始めています」
「……白石先生、冷やした布を。貴司は頭を支えろ」
裂傷は深く、河田先生は小刀(メス代わりの和式外科刀)を火で炙ってから、破れた肉の端を慎重に切り揃えた。
消毒の概念はない。代わりに焼酎を傷口に垂らすと、男がかすかに呻き声をあげる。
「しっかり抑えろ。血が止まらねえ」
白石先生の指が赤く染まり、その圧迫の強さに関節が白くなる。
縫合は絹糸と太い針。
針先を炙ってから、河田先生が一針ごとに息を詰めるように通す。
貴司は背後で桶の水を替えながら、その古めかしいが無駄のない手順に目を奪われていた。
現代の救急室とは全く違う。
器具も薬も足りない。
それでもこの場に漂うのは、命を繋ごうとする必死の空気だけだった。
「先生、脈が……!」白石先生が顔を上げる。
河田先生の手が一瞬止まった。脳裏をかすめるのは、止血を続ければ失血死を防げるかもしれないが、呼吸は途絶えかけているという現実。
「息を戻すか、血を止めるか……」白石先生の声が震える。
その刹那、二人の視線が交錯する。行うべきは何か――命を繋ぐための最優先が、ほんの一瞬わからなくなる。
「……白石、息を戻せ。俺が止血を続ける」
迷いを断ち切るように河田先生が叫び、白石先生は男の胸に手を当て、必死に呼吸を促す。
外では、血の匂いを嗅ぎつけた犬が吠え、長屋の子どもたちが不安げに覗き込んでいた。
部屋の中は、手拭いを絞る音、荒い息遣い、そして生きるか死ぬかの瞬間を見守る沈黙だけが満ちていた。
白石は額の汗を袖で拭いながら、患者の胸元に耳を当てた。
呼吸が浅い。鼓動も乱れている。
手元の血止めはすでに限界で、赤黒い滲みが布を侵食していた。
「……河田先生、血の勢いが……」
低く、掠れた声で告げると、河田は黙って傷口を覗き込み、眉間に深い皺を刻んだ。
その表情に、白石は弟子時代の記憶を重ねる。
十年前、彼がまだ町医者の見習いだった頃、河田は唯一、白石の腕を見込んで門戸を開いた医者だった。
厳しいが温かく、迷えば必ず「己の責任で決めろ」と背を押してくれた恩人――いや、師そのものだ。
しかし今、師の顔にはわずかな迷いがあった。
「血を止めれば命は助かるかもしれんが、腕は使えなくなる。
止めなければ……夜までもたん」
河田の声は低く、土間に落ちる灯火の影のように重かった。
白石は喉が乾くのを感じながらも、師の目を真っすぐ見据えた。
「先生……どちらを選びますか」
問いは震えていたが、そこにすがるような響きはなかった。
河田は長い沈黙ののち、かつてと同じ言葉を返した。
「……おまえが決めろ、白石」
その瞬間、白石の脳裏に、師の下で過ごした無数の夜がよぎった。
薬研を挽き、灯りの下で包帯を巻き、時には一人で死の床に立ち会ったあの時間。
全ては、この瞬間のためにあったのではないか――そう思えた。
白石は深く息を吸い、止血具を強く締め上げた。
患者の顔が苦痛に歪む。だが、その呼吸はわずかに安定へと向かっていった。
河田は無言のまま、白石の肩を軽く叩いた。
その手の温もりが、何よりも重く感じられた。
夜。
施術を終え、灯明の揺れる座敷の隅で、貴司は膝を抱えて座っていた。
外では、患者の家族が感謝の声を上げ、安堵したようにすすり泣いている。
お鶴さんは片付けに追われ、河田先生と白石先生はまだ小声で経過を話し合っていた。
貴司はただ、指先に残る血のぬめりと、鼻にこびりついた薬草と膿の匂いをぼんやり感じていた。
脳裏に、白石先生が針を打つ瞬間や、河田先生が決断を下す声、家族の震える手がフラッシュのように蘇る。
――命を賭けるって、こういうことなのか。
ゲームでは、HPが減れば回復魔法で済んだ。
「選択肢を間違えたらロードすればいい」なんて軽く考えていた。
でも、ここにはロードもリトライもない。
一度決まったことは、ずっと背負っていくしかない。
息を吐いたら、ため息というより重しが抜け落ちるような音がした。
「あー……」と声を漏らすだけで、何もツッコミも出てこない。
今日の出来事は、もう言葉にできる形じゃ頭に乗らなかった。
外の虫の声がやけに鮮やかに響く。
自分は今、別の世界に生きている――それを、骨の髄まで思い知らされた夜だった。
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