第26話 江戸の打ち上げ
陽が高く昇った昼下がり、ついに米問屋の新築が姿を現した。堂々たる構えに、檜の香りが辺りに漂っている。重厚な柱と梁が組み合わさり、板張りの外壁は丁寧に磨き上げられていた。青々とした瓦屋根が光を受けて輝いている。
現場に集まった職人たちは互いに顔を見合わせ、心の中でひと安心の息を吐く。博志も肩の力が抜け、汗に混じる泥の汚れをぬぐいながら深呼吸した。
「まいったな……まさか俺がこんな大きな仕事をやり遂げるとは思わなかったぜ。」
その時、棟梁の源さんが近づいてきた。
「博志、よくやったな。あんたの腕があってこその完成じゃ。見ろ、これが人の手で建てた建物だ。」
源さんの目は誇らしげに輝き、力強く肩を叩いた。
「これからはもっと大きな仕事も来るかもしれん。お主の道はここからじゃ。」
甚兵衛の姿も見えた。黒紋付きの羽織をきっちり着込み、威厳ある表情で建物を見つめている。
「皆の働きに感謝する。これで店の評判も上がるだろう。博志殿、これからも頼んだぞ。」
博志は身を正し、深く頭を下げた。
「はい、任せてください。精一杯務めさせていただきます。」
周囲には歓声が上がり、長屋の住人や職人仲間の笑顔が輝いていた。祭りの賑わいとは違う、静かな達成感がその場を包み込んでいた。
博志は目の前の米問屋をじっと見つめながら、心の奥底で誓った。
夕闇がゆっくりと町を包み込む頃、米問屋の新築祝いを兼ねた直会が始まった。木造の大広間には、色鮮やかな提灯が灯り、壁に掛けられた掛け軸や掛け花も祝いの趣を添えている。甚兵衛は、職人たちや関係者を前に、にこやかに杯を掲げた。
「皆の衆、このたびは大変な働きぶり、誠にありがとな。おかげでこの米問屋も無事に完成した。これも皆のお陰じゃ。さあ、存分に楽しんでくれ!」
座敷に運ばれてきたのは、鯛の姿焼きがどんと中央に置かれ、その周りには色とりどりの煮しめ、鮮やかな刺身の盛り合わせ、たっぷりの漬物、香ばしい焼き物などが所狭しと並んでいる。漆器に盛られた料理は見た目にも豪華で、宴の華やかさを際立たせていた。
博志は目を見張りながら、箸を手に取りつつ言った。
「こりゃあ、たまげたな……こんな贅沢なごちそう、なかなか口にできるもんじゃねえ。」
隣で酒を酌み交わす源さんも、満足そうに頷く。
「おう、これで疲れも吹き飛ぶってもんだ。仕事も一層気合いが入るわい。」
甚兵衛は皆の酒杯をつぎつぎと満たしながら、宴を盛り上げていく。
「さあ、飲めや歌えや、祝いの夜じゃ!このご縁を大切にな、これからも共に栄えていこうぞ!」
賑やかな笑い声と杯を交わす音が響き渡り、江戸の夜は一層の熱気を帯びていった。
宴もたけなわ、博志は豪華な料理の前に座り、箸を手に取りながら周囲の熱気に負けずに味わい始めた。
「こりゃ……まいったな。まずはこの鯛の姿焼きよ。皮はパリッと香ばしく、中の身はふっくら。塩加減も絶妙で、焼き魚の極みだぜ。ひと口食うだけで、仕事の疲れがすっと消えていくような味だ。」
次に手を伸ばしたのは、色とりどりの煮しめ。里芋や人参、大根が程よく煮込まれ、味が染みてる。
「これがまた、しっかり味が染みてて、ほっこりすんだよな。味噌の風味が口の中にふわっと広がって、まるで故郷の味みてえだ。」
鮮やかな刺身の盛り合わせも見逃せない。
「これが新鮮でコリコリしてる。海の香りがじんわり伝わってきて、江戸の海の幸をまるっと感じるってやつだな。酒のアテにゃもってこいだ。」
焼き物や漬物も箸が止まらない。
「香ばしい焼き物は噛むほどに肉の旨味がじゅわっと出るし、漬物はさっぱりして口直しにぴったり。これがないと、いくら酒があっても困るぜ。」
宴の熱気に飲まれながらも、博志は心底楽しそうに食べ続ける。
「はあ〜、やっぱ江戸の祝いの席は格が違うってことか。俺みてえな田舎者でも、ここまでご馳走されりゃあ元気も百倍だわ。」
周囲の職人たちも拍手喝采。博志の豪快な食レポートが会場をさらに盛り上げる。
又兵衛がにやりと笑いながら、杯を掲げて口を開いた。
「おうおう、博志どんの言う通り、この鯛の焼き加減はまことに見事よのう。ワシら瓦職人も火と熱には人一倍気ぃ使うが、これほどまでに香ばしく仕上げるとは、さすがは料理人の腕前じゃ。」
「煮しめの味の染み具合も、まるで瓦の土の中まで染み渡る雨水の如し。じんわり、しみじみ、心まで温まるてえもんよ。」
「刺身はワシの故郷の浜から取り寄せたものじゃ。新鮮さはもちろんのこと、噛み締めるほどに潮の香りが口中に広がる。あっぱれじゃ。」
「祝いの席にはやっぱり、こうした魚介と根菜が肝要じゃ。江戸の職人の血が騒ぐ美味でござるな。」
又兵衛はおもむろに頭に手をやり、屋根の瓦の話題も交えて話を続ける。
「まさにこの味のように、我ら瓦も一枚一枚丹念に焼き上げてこそ、強く、長持ちする屋根になるんじゃ。祝いの席にこんな旨いもん揃えて、棟梁や甚兵衛どんもさぞ喜んどることじゃろう。」
大きく一杯やりながら、又兵衛はどこか誇らしげな顔で周囲を見渡した。
長次郎は、にこりと笑いながら手にしたお猪口を軽く掲げた。
「おっと、こりゃまた見事な祝い膳じゃねえか。俺ら障子職人は細かい仕事が命だが、この煮物の味付けも、まるで障子の桟のようにきっちりと決まっておるわい。」
「この鯛の焼き加減よ、香ばしゅうて皮目のパリッとしたとこが、障子紙の張り具合みてえに気持ちよく、歯ごたえがある。まいったなあ、飯が進みすぎて困るわい。」
「刺身の新鮮さは言うまでもねぇが、葱の小口切りがまた、口直しにぴったりだ。職人の細やかな気遣いってやつが伝わってくるようでな。」
「祝いの酒もまたいいのう。こうして旨いもん囲んで皆で祝うのは、障子の透ける光のように心を明るくしてくれる。なによりの薬じゃ。」
長次郎は笑みを浮かべながら、杯をもう一度掲げた。
「うん、これで明日からの仕事も一層気合が入るってもんだ。さあ、みんなも飲みすぎねえようにな!」
祝いの酒がどんどん注がれ、場の熱気はさらに高まっていく。
甚兵衛が笑いながら言った。
「さあ、職人衆よ!祝いの席にふさわしく、一気飲み大会としゃれ込もうじゃねぇか!」
博志がにやりと笑い、ガテン系らしく豪快に応じる。
「おう、任せとけ!俺の胃袋は現代仕込み、どんなもんだか見せてやるぜ!」
又兵衛は顔を真っ赤にしながらも負けじと声を張る。
「負けてられん!瓦を積むように一杯ずつ丁寧に流し込むのが職人の意地ってもんよ!」
長次郎は涼しげな表情で、
「障子を張るのと同じで、焦らずじっくり飲むのが肝心だべ。こりゃ楽しみだ。」
甚兵衛の「よーい、はじめっ!」の掛け声で一気飲み開始。
博志は豪快に盃を傾け、酒が喉を通るたびに
「くぅー、効くなぁ!この酒、現代のビールよりも全然キくわ!」
又兵衛はしみじみと味わいながらも、
「ぐぉお、瓦職人の意地で飲む!これで明日の仕事も瓦割りバッチリだわ!」
長次郎は冷静に飲みながら、
「ふぅ、酒の透明感は障子紙のようだ……うん、悪くねぇ。」
一気に盃を空にしては新たに注がれ、三人は互いに負けじと杯を重ねる。
やがて、博志が顔を真っ赤にして言う。
「おっと、これは…結構キてるぞ…!」
又兵衛もむせながら、
「こ、これは……瓦も割れそうだが、俺の胃袋も割れそうじゃ!」
長次郎は涼しい顔のまま、
「まだまだいけるべさ、酒も仕事もな。」
三人の笑い声が響き渡り、祝いの席は熱気に包まれていた。
酒宴はすっかり盛り上がり、博志、又兵衛、長次郎が一気飲み大会をしているところへ
「おっと、そこは俺の出番じゃな。」
ふいに隣の席から低い声が飛び込んできた。振り向くと、背中に古ぼけた袋を背負い、どこからともなく現れた浪人が、にやりと笑いながら座っていた。
博志が眉をひそめて、
「おいおい、あんたいつの間にここに……?」
又兵衛も一瞬目を丸くし、
「おぬし、どこのどなたじゃ?まるでこの現場の仕事人みてぇな顔しとるが……?」
浪人は胸を張り、
「そりゃあ、そこの屋根の上から見下ろし、柱の一本一本を叩きながら、腕を鳴らしておった者よ。」
長次郎が首をかしげて、
「いやいや、ワシはそんなやつ見てねぇぞ?ずっとこっちで障子の柄決めてたんじゃ。」
博志が少しイライラしつつ、
「お前、まるで仕事してたみたいな口ぶりだが、どこにおったんだ?」
浪人はニヤリと笑い、
「そりゃあ、酒と肴を味わいながら、時々見ておったんじゃ。お前らの腕もなかなかのもんだな。」
又兵衛が怒り気味に、
「お前、ずっと宴会にいたんじゃねぇか!こら、そんなにうまそうに酒飲んで、食い散らかして!」
浪人は涼しい顔で、
「おう、そうとも。この宴こそが工事の力の源、わしもちゃっかり仲間よ。」
長次郎が呆れて、
「そんな勝手な仲間は初めてだぜ……つーか、名前も知らねぇのに何者なんだよ!」
博志も拳を握り締め、
「そうだよ、お前一体誰なんだよ!」
浪人はふっと笑みを消して、
「それがな……三人とも、わしの名前を知る者はいねぇんだ。」
周囲の空気が一瞬ピリリと引き締まる。
甚兵衛も顔をしかめ、
「……おぬし、何者だ?」
浪人は肩をすくめて、
「まぁ、今は“ただの旅の者”ってとこだな。」
博志が呆れ顔で、
「いや、もっとちゃんと言えよ!」
宴会の笑い声とざわめきが再び高まり、浪人は微笑みながら酒盃を掲げる。
「さあ、酒は旨いし、話も尽きねぇ。名前なんてどうでもいいじゃねぇか。」
そう言ってグイっと一気に盃を空ける浪人。
博志も又兵衛も長次郎も?誰?
宴はまだまだ続く──。
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