第25話 光る汗と江戸の建築

午前の作業も中盤に差し掛かった頃、ふと現場の空気がピリッと張りつめた。


「おい、ちょっと待て!」

現場監督の声が響く。材木の搬入を担当していた男が走ってきた。


「こいつ、間違えて長さがぜんぜん違う材木を持ってきちまった!」


運ばれてきた柱は、予定より二尺も短い。使えねぇじゃねぇか。


「なんだとよ!このままじゃ柱が立たねぇじゃねぇか!」

俺も思わず声を荒げた。


「どうすんだよ、これ?」

隣の若い衆も顔をしかめる。


「ちょっと待て、こいつは何とか工夫すりゃ使えんこともねぇ」

棟梁の源さんが鋭い目で現物を眺める。


「でもだな、長さが足りねぇ柱は構造的に不安が残る。無理すんなよ」

職人の一人が慎重に言う。


「そうは言っても、江戸の現場は時間が命だ。取り替えを待ってたら工期がズレちまう」

源さんは深刻な表情で言った。


俺は小刀を腰に差し、目をギラリと光らせる。

「こちとら現代のやり方は知らねぇが、この江戸の手仕事で何とかすっぞ」


「おう、頼んだぜ博志」

源さんの声に背中を押され、俺は材木の調整に取りかかった。


現場では、慌ただしく道具の音が響き渡る。鋸の刃を研ぎ、鉋を使いこなし、材木を削って微調整を進めていく。


「この仕事、手間がかかるけど、その分仕上がりはバッチリだ」

俺は汗を拭いながらつぶやく。


一方、河田先生からは健康面の注意も飛ぶ。

「日射病に気をつけろよ、特に若い衆は無理すんな」


「へいへい、わかってますって」

俺は苦笑いしながらも、現場の一体感を感じていた。


午前の陽がすっかり高くなり、現場の空気が蒸し釜みたいに重くなる頃だった。

「おい博志! こっちの梁、寸足らずじゃねえか!」

 材木を抱えていた若い大工が叫ぶ。

 見ると、確かに一本、長さが足りない。どうやら搬入のときに別現場の材と取り違えたらしい。

「ったく……こっちもかよ」

 博志は手ぬぐいで額の汗を拭い、小刀を腰から外した。現代なら電動丸ノコひとつで終わる仕事だが、この時代はそうもいかない。切って足すか、別の材を流用するか——判断は早い方がいい。


「この柱、余ってるのあったな? それを詰めてやる。楔(くさび)打てば持つだろ」

「おお、さすが博志さん、決まりが早え!」

 若い衆が慌ただしく動き出す。木槌の音が乾いた空気に響き、匂い立つような木の香りがあたりに満ちる。


 別の場所では、縄で吊った材がうまく上がらず、途中で止まってしまっていた。

「こっちはどうした!」

「縄がねじれて、滑車が動かねえんだ!」

 博志は足場を駆け上がり、縄のねじれを直しながら声を飛ばす。

「ゆっくり上げろ! 慌てると怪我すんぞ!」

 やっとのことで材が所定の位置に収まり、皆がほっと息をつく。


 昼を過ぎるころには、骨組みの輪郭が見え始めていた。

 まだまだ完成まで遠いが、柱が立ち梁が渡ると、不思議と建物の姿が想像できる。

 博志は腕を組み、足場の上から眺めた。

(……いいもんだな。この瞬間は、どこの時代でも変わらねえ)


午後に入ると、日差しは容赦なく降り注いでいたが、午前中の慌ただしさに比べれば、現場は少し落ち着いていた。

それでも、風はほとんどなく、肌にまとわりつく空気は重い。背中をつたう汗が、帯のあたりでたまり、じっとりと冷たくなる。


「おい、柱の通り、もう一度見てくれ」

源さんの声が飛ぶ。

俺は墨壺を手に、刻まれた線をなぞりながら目を凝らす。午前に起きた材木の寸法違いの件は、余った木を削り、足りないところにかませ木を入れてなんとかごまかした。

江戸の道具は正直、俺の知ってる現代のものに比べりゃ不便だ。だが、そのぶん一手間ごとに木が馴染んでいくのがわかる。


梁を組む音、木槌の響き、釘を打ち込むかわりに木のほぞを合わせる乾いた音——どれもが、この時代の「家」を作っているんだと実感させる。


昼過ぎ、壁際で休んでいた甚兵衛が、湯飲みを片手にこちらを見た。

「お前さん、なかなか手が早ぇな。大工は長ぇんだろ?」

「まあ、現代…いや、こっちじゃ十数年ってとこです」

言いかけて慌てて言い直す。こういうところは、まだまだ自分の口を監視しねぇと危ない。


甚兵衛は口の端を吊り上げて笑った。

「なら、ええ仕事してくれや。ここの米は町一番を目指すんだ。店構えがちゃちなぁ、格好がつかん」

「そいつは重々、承知しました」

口では軽く答えたが、胸の奥では少し熱いものが込み上げる。

この現場を仕上げれば、江戸での居場所が、ひとつ固まる気がした。


陽はまだ高い。だが、組まれた柱や梁の影が、少しずつ長く伸びはじめている。

木組みの骨格が輪郭を帯び、空っぽだった地面の上に「建物」という未来が浮かび上がっていくのを見ていると、妙な充足感があった。


昼飯を腹に収め、井戸端で口をすすぐと、また現場に戻った。

 太陽はさらに高く昇り、屋根もない作りかけの敷地には、容赦なく光が降り注いでいる。土埃の匂いが、熱で倍増して鼻につく。


「ほれ、次は桁(けた)だ。おまえら、持ち上げぇ!」

 棟梁の声に、若い衆が四人がかりで長い材木を担ぎ上げる。掛け声とともに、柱の上へと乗せていく。


 俺は地面に置かれた別の材を小刀で削っていた。

 この小刀、転生してきて間もない頃、大工の棟梁源さんに渡されたものだ。柄は煤け、刃は何度も研がれた跡がある。

 現代じゃ「工具」って意識でカッターやノコギリを使ってたが、この世界じゃ刃物は相棒だ。腰に差すと、なんだか気持ちが引き締まる。


「博志さん、こっち削り足りません!」

 声を上げたのは、まだ二十そこそこの若い大工。

「はいよ」

 俺は立ち上がり、材を受け取る。木肌に触れると、ほんの少し反りがあるのが分かった。

「ここ、削って合わせないと、組んだとき歪むぞ」

「へえ、なるほど……」

 若い衆は感心したようにうなずく。現代の現場でも後輩に教えることはあったが、江戸じゃ言葉少なに済ますより、目で見せるほうが早い。


 桁が組まれ始めると、だんだん家の骨格が見えてくる。

 真新しい柱と梁が、空に向かって碁盤の目のように並び始めるのは、いつ見ても気持ちがいい。

 ただ、この日は少し風が強くなってきていた。

「おい、押さえろ! 材が煽られるぞ!」

 棟梁の怒鳴り声が飛び、俺もすぐさま駆け寄って材を押さえる。こういう時は迷ってる暇はない。


 午後も半ばに差しかかったころ、材木の一部が手違いで運び込まれていないことが判明した。

「何ぃ? それじゃ、この間の梁が付けられねえじゃねえか!」

 棟梁が額の汗をぬぐいながら、番頭に詰め寄る。

「す、すみません、手配が……」

「謝って済むか! ……ったく」

 俺は現代のサラリーマン時代を思い出しながら、(どの時代も段取りミスはあるもんだな)と苦笑した。


 結局、その材木が届くのは明日の朝になるという。

 予定通りには進まないが、それでも別の部分を先にやれば時間は無駄にしない。棟梁は即座に段取りを組み直し、俺たちは土台の補強と余った材の加工に取りかかった。

 空は茜色に染まり始め、現場に影が伸びていく。


日が西に傾くにつれ、現場は急に静かになった。

 大工たちは木槌や鋸を片づけ、削りくずを竹箒で掃き集めている。空は茜色に染まり、梁の影が地面に長く伸びていた。汗はすでに乾いているはずなのに、肌はじっとりと温い。


 博志は、足場から降りて深く息を吐いた。手のひらには一日の間にできた細かなささくれがいくつもあり、親指の付け根は軽く痛む。それでも、昼間に比べれば身体の奥底に心地よい疲れがある。

(形になってきたな……)

 見上げれば、今朝はなかった柱の列が夕焼けを背に立ち並んでいる。角はまだ荒く、縄目が残っているが、それでも建物の輪郭が見えてきたのは確かだ。


 棟梁が「今日はここまでだ」と声をかけると、皆が一斉に「おう」と返事をして作業を切り上げた。


 長屋へ戻る道は、昼間より人通りが多い。帰り支度の商人、夕餉の買い物に出た女衆、駆ける子どもたち。鼻をくすぐるのは焼き魚の香りだ。

 博志は、大工の長次郎と並んで歩きながら、ひと口に現場の話をした。

「今日はまあ、いろいろあったけど……なんとかなったわ」

「見てただけで、博志さんすげえ判断すな!ワシにゃあ絶対無理だ!」

「お前なあ……」博志は苦笑し、足を少し早める。「明日はもうちょっと動いてくれよ」

「……考えときやす!」


 宿へ戻ると、女将が井戸水で冷やした手拭いを差し出してくれた。頬に当てると、ひんやりとした感触が一気に頭まで抜ける。

「今日はよく働かはったなあ。あんたの顔、ええ顔になってきたわ」

「そうですかね」

 博志は照れ隠しに手拭いで顔を覆った。


 夕餉は、焼き鯖と豆腐の味噌汁、漬物。それを食べながら博志は味噌汁の湯気をぼんやり眺めた。

(……こんな夜が、これからも続くんだろうか)

 昼間の喧騒と木の香り、夕暮れの静けさ、そして今の温い時間が胸の奥にじんわり広がる。明日も、また現場だ。

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