第14話 長屋の闇

夕暮れの長屋街。博志と貴司は、一軒の薄暗い家の前に立っていた。


博志は丸坊主の頭に耳には小さなリングピアスを光らせ、現代のユニクロシャツに作業ズボンという異色の格好である。

その姿はまるで時代錯誤な異邦人のように、江戸の町には馴染んでいなかった。


一方、貴司は地味な羽織を羽織り、袴を着ているが、その下には目立たぬように黒いパーカーを着込んでいる。足元は草履だが、靴下だけはやはり現代風で、彼のこだわりが垣間見える。


「ここが、矢口清次の住まいか……」博志が低くつぶやく。


「マジでヤバいっすよ、博志さん。こんな場所、ゲームでも避けたいタイプっす……」貴司は震え声で答える。


扉がバタンと開くと、酒臭い息を漂わせた男の顔がのぞいた。


「なんだ、おめぇら。よそ者が何しに来たんじゃ?」


清次は眉間に深いしわを寄せ、目を光らせていた。


博志はぐっと気を引き締めて言う。


「井戸に炭を投げ入れたって噂があってな。あんたに話を聞きたくて来たんだ。」


清次の目が一瞬ギラリと光った。


「うるせぇ。わしが何をしようが、おめぇらには関係ねえことだ。」


「長屋のみんなが困ってるんだ。正直に話してくれれば、俺たちも助けになるかもしれねぇぞ。」


「俺たちだって、わけもわからず悪者扱いはされてねえ。真実を聞かせてくれよ。」


清次は怒りを抑えきれず、声を荒げた。


「お前ら、誰だかわかっとらんのか!そんな軽々しく踏み込んでくるんじゃねえ!」


貴司は後ずさりしながら、小声でつぶやく。


「博志さん……この空気、ヤバすぎっす……ゲームのボスの前に立ってる感じっすよ……」


博志はそんな貴司の肩を軽く叩き、落ち着いた声で言った。


「今は話を聞くだけだ。無駄な争いはしたくねぇ。」


長屋の狭い路地に、緊張した空気が漂った。


「何も知らんやつが口出しすんじゃねえ!」清次は戸口に手をつき、荒々しく吐き捨てた。

「わしが井戸に炭を投げ込んだだと? そんなこと、するわけねえじゃねえか!」


しかし、その目はどこか悲しげで、怒りの裏に隠された深い憂いを感じさせた。


博志はゆっくりと一歩踏み出し、静かな声で言った。

「清次、もし何か苦しいことがあるなら、話してみろ。あんた一人で抱え込む必要はねぇ。」


貴司も震える声を振り絞り、問いかける。

「借金とか……何か、そういうの関係あるんスか?」


清次は一瞬、言葉を詰まらせた。だがすぐに目を伏せ、拳を握りしめる。

「……あの松田屋のせいじゃ。借金が膨れ上がって、逃げ場もねえ。あの悪党どもが俺をどこまでも追い詰めやがった。」


「借金があるからって、井戸に炭を投げ込んだのか?」博志は問いを重ねた。


清次は苦笑いを浮かべながらも、首を振る。

「炭は……あれは……あの火事の残りじゃ。あいつら、わしにこれを井戸に投げ込めば借金は帳消しにしてやると脅しやがったんじゃ……。借金のカタに井戸の水を汚せと……。」


貴司の顔が青ざめる。

「そんな……そんなひどいことが、江戸に……」


清次は続けた。

「わしはな、やけくそになって……炭を投げ込んだんじゃ。怒りと絶望の中で……。」


清次の告白に言葉を失う博志と貴司。重苦しい空気の中、博志がぽつりと呟く。


「これは俺らだけじゃどうにもならねえな……。長屋の顔役、茂吉さんに相談するしかねぇ。」


貴司も震える声ながら同意する。


「博志さん……俺もそれがいいと思います。あの人ならなんとかしてくれる……かもっす。」


夕暮れの路地を後にして、二人は茂吉の家へと急ぐ。茂吉はいつも長屋のために奔走している頼もしい男だ。だが、その厳しさの裏には、孤立した清次への複雑な感情も秘められている。


茂吉の戸を叩くと、重い木の扉が開き、茂吉の厳つい顔が現れる。


戸口に現れた茂吉は、眉間に皺を寄せたまま二人を見やる。

「おう……なんだァ、こんな時分に」

「茂吉さん、実は――」と事情を切り出そうとすると、

「まさか、また清次の奴が何かやらかしたか?」と、先回りするように低い声を投げる。


井戸の炭の件、松田屋に脅されたこと、借金帳消しの約束――すべてを話すと、茂吉の顔色が変わった。

「な、なんだとォ……そりゃ初耳だ。てっきりあの阿呆、自分の腹でやったと思ってたぜ」

怒りに任せて、茂吉は障子を手荒に閉め、畳を踏み鳴らす。

「畜生……松田屋の野郎、そんな汚ぇ真似をしやがったのか。こちとら長屋守るために血眼になってんだ。清次の奴も、なんでひと言相談しねぇんだ……」


その背中には、怒りと同時に、長屋仲間としての悔しさが滲んでいた。

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