第12話 水の大切さを肌で感じろ
──井戸端の火種──
昼前になると、井戸の周りにはひとだかりができていた。火事で使った桶を洗い直す者、炊き出しの水を汲みに来た者、火の気にあてた道具を冷やす者、それぞれが同じ井戸を必要としていた。
「順番だろうがよォ! さっきから三回も後回しにされてんだ、婆さん!」
「うるさいねぇ! あたしだって朝から待ってんだよ! こちとら五人家族で、小便用の壺まで洗わにゃならないんだよ!」
ピリついた声が飛び交い始める。貴司は思わず足を止めた。井戸の周囲にはすでに数人が声を荒げ、順番を争っていた。傍らでは子供が泣き、若い女が不安げに木桶を抱えている。
「……あれ、まずいんじゃね?」
「まずいな。こういうの、長引くと町内全体がギスギスしだす」
博志が短く返すと、様子を見に向かおうとしたそのとき、貴司がひょいと井戸のそばへ歩み出た。
「……あの、ちょっと落ち着きません? 別に順番、紙に書くとか……」
その瞬間、数人の視線がピクリと動いた。鋭く、冷ややかに。
「紙……? はん、なんだい坊や、こっちはそんなもん使わずに何十年もやってきてんだ」
「はあ? 順番なんて、見える形で整理すればいいじゃないすか。っていうか水くらい、もう一つ井戸掘ったほうが──」
「はああぁん?」
最初に怒鳴ったのは、髪を布で巻いた年配の女だった。貴司の前にずいと出てきて、腰をひねりながら睨みつける。
「なあんだい若造、昨日来たばっかりで井戸のこと語んのかい? お前さん、井戸掘るのにどれだけ人手と金がかかるかわかってんのか!」
「そ、そりゃ……でも……!」
貴司が言い返そうとしたとき、背後から声が飛んだ。
「わーった、わーった、みんな水が欲しいのは同じだ。けど、喧嘩しても水は増えねぇぞ」
博志だった。彼は慣れた調子で前へ出て、ひとまず怒気を宥めるように両手を広げた。
「ほら、こっちに空いた桶がある。順番が終わったやつが手分けして、次のやつの桶に汲んでやりゃいい。早いもん勝ちじゃなくて、手ぇ貸し合えば済む話だろ」
「……けっ、今日の兄さんは口が回るねぇ」
「口ばっかりじゃねぇよ。ほら」
そう言って、博志はさっさと自分の桶を使って婆さんの桶へ水を汲み、手渡す。その動きが実に自然で、揉めていた女も、ばつが悪そうに「……すまないね」と呟いた。
貴司は、その背中をただ見つめていた。
「……博志さん、すげぇな」
「お前、悪い意味で現代人出てたぞ。ここじゃ、“正しいこと”言えば済むってわけじゃねぇ」
博志の声は、静かだったがどこか苦かった。
「でもさ、俺、間違ったこと言ってないだろ?」
「そうだな。だけど江戸は、“間違ってない”が通じねぇことのほうが多いんだよ」
そのとき、すぐ背後から渋い声が漏れた。
「……よう言った」
振り返ると、茂吉が腕を組んで見ていた。いつの間に来ていたのか、すでに煙管に火を入れている。
「この町じゃ、筋目ってやつが何より大事なんだ。年寄りが水を先に汲むってのも、理由があってのことさ。“そうしてきた”ことを否定するのは、命を軽く見られたって思われんだよ」
「……文化、か」
貴司は手にした桶を見下ろした。それはたった一杯の水。けれど、その水をどう分けるかが、人と人との間を決めていく。
「……水くらい、自由に使えたのにな、あっちじゃ」
ぼそっと漏らした言葉に、茂吉が煙をくゆらせた。
「自由? へっ……そいつぁ、好き勝手と紙一重だ。町じゃ、勝手が過ぎりゃ叩き出されるだけよ」
火の粉がまだ肌をチクチク刺す夕暮れだった。
博志は腕組みして、煙草の煙をふうっと吐きながら言った。
「おい、あの火事見ただろ?江戸はな、いつも火の危険と隣り合わせだ。気を抜いたらすぐ終わりだぞ」
貴司は肩をすくめ、先輩に言い訳するみたいに笑った。
「はいはい、わかってますって。でも正直キツイっすよ。火の後の匂いも、洗濯も、飯の炊き方も全部違うし」
博志は少し厳しい目を向けて、でも優しく言う。
「そうだろうな。でもよ、体は覚えてんだ。昔の感覚がまだ残ってる。だから無理すんなよ、焦らずにいけ」
話題は井戸の水の話に移る。貴司が眉間に皺を寄せる。
「でもさ、あの井戸の水、最近濁ってるんすよね?ちょっと嫌な感じっす」
博志は煙草の煙をゆっくり吐きながら答えた。
「あの水は町の命だ。ちょっとしたことで住民が困る。何か起きたら、手遅れになる前に動くんだ。わかるな?」
貴司は頭をかきながら苦笑した。
「はい、はい、わかってますよ。こっちの生活にも慣れなきゃっすね」
二人はまだ不慣れな江戸での暮らしに戸惑いながらも、互いの背中を押すように言葉を交わした。
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