第10話 火事の夜――囲炉裏の灯りの下で
火は消えた。けれど焦げた木のにおいと、土の煙たさは、まだ町の空気に残っていた。
夕方、町は騒然としていた。裏長屋の炊事場から出たという火が、風に煽られて一気に屋根を駆けのぼり、ふたつ先の棟まで焼け落ちた。桶の水、泥の山、濡れた布と、罵声と怒声と、裸足の足音。江戸の火事は日常茶飯事とはいえ、目の前で見るのは初めてだった。
貴司はといえば、最初は棒立ちだった。けれど誰かが「水、汲めッ!」と怒鳴った瞬間、身体が勝手に動いていた。
土間の水瓶から桶で水を運び、濡れ布で戸口を叩き、炊き出しの鍋を手伝い、洗い場で濡れた着物を絞った。
初めて「自分が動いてる」と思った。
ただそれは、その場の空気と怒声と火の熱がそうさせたのだと思う。
そして夜。
焼け残った長屋の一室で、博志が囲炉裏に炭を足しながら、酒を出してきた。
「まあ、今日は飲んどけ」
博志の手には、素焼きの徳利。湯煎され、ふわりと米のにおいが立ち上っていた。
「これ、江戸の酒……? やばくない?」
貴司はおっかなびっくり口をつけ、すぐにむせた。喉が焼けるようだ。
「うえっ、なにこれ……アルコール度数、何パー……!?」
「見てわかるか。だがまあ、昔の酒はな、火入れしてねぇ分クセが強ぇ。キツいが、慣れりゃ悪くねえ」
博志はぐい、と呑み干して湯呑を置いた。貴司は顔をしかめながら、ちびちびと口を湿らせる。
囲炉裏の火が、湿気を含んだ畳の縁を照らしていた。時おり、ぱち、と炭が音を立てる。外ではまだ、片づけの声がかすかに聞こえてくる。今夜は寝られない家も多いはずだ。
「なあ」
貴司が、火を見ながら言った。
「今日……俺、ちょっとだけ、“やった感”あったわ」
博志は返事をせず、また湯呑を口に運んだ。
「いや、マジでさ。最初はただの見物人だったのに、水運んで、炊き出しやって……腰痛くて死ぬかと思ったけど、なんか、誰かの役には立ってたかもって」
「……そうか」
「まあ、明日にはまたクソだと思うかもしんないけどな」
今度は、博志がくつくつと喉を鳴らして笑った。
「……それでいい」
「え?」
「いいんだよ、それで。火事場で動いて、疲れて、呑んで、ぼやいて……。そんなもんだ、この暮らしは」
少し間をおいて、博志が続ける。
「俺だって完璧じゃねぇよ。確かに、現場で手は動く。道具もわかるし、職人の言葉も通じる。でもな、暮らしのほうはまだまだだ」
「例えば?」
「朝は暗ぇし、飯は一汁一菜。風呂はぬるくて煙いし、便所は……まあ、あれだ。手桶に溜まったやつ見るたび、現実ってやつが突き刺さる」
貴司は吹き出した。
「言うなよ、リアルすぎる」
「言いたくもなる。おまけに、たまに思い出すんだ。電子レンジの“チン”の音。コンビニのアイスコーヒー。涼しい部屋と冷たい便座……ああ、クーラーの風が恋しい」
「いやほんと、それ!」
二人はしばし、火を見ながら肩を揺らして笑った。
「でも、俺はこっちで“やるしかねぇ”と思ってる」
「戻れないって、思ってるのか」
「……ああ」
湯呑を置き、博志はぼそりと言った。
「帰りたい。正直な。だが、どうやっても帰れねぇ場所だと思って動いてる。そうしなきゃ、手も足も止まる。立てねぇんだ」
貴司は、湯呑を見つめていた。まだ酒は三分の一も残っている。
「……俺も、少しはそう思わなきゃダメかもな」
「少しでいい。明日になったらまた泣きたくなってもいい。でも、そのあとまた動けばいい」
「火事場のバカ力か」
「そうだ。江戸だろうが、令和だろうが、やることは同じだ。立って、運んで、食って、寝る。それだけだ」
貴司は湯呑を口に運んだ。
苦くて、熱くて、つんと鼻に来た。けど、少しだけ――身体があたたまる気がした。
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