第9話 火事と釜戸とはじめの一歩
ギィ……ギィ……。
耳障りな蚊帳のきしみと、どこからともなく聞こえてくる猫の喧嘩の声で、貴司は眠れずにいた。
「……くっそ、眠れねぇ……」
狭い畳の上でごろりと寝返りを打つたび、背中に藁のチクチクが刺さる。布団の中身が、明らかにポリエステルじゃない。ついでに、枕は硬くてゴリゴリ。まるで米俵の一部をちぎったような代物だ。
しかも、隣の部屋──いや、仕切りの向こう──では、誰かのいびきが雷のように鳴っていた。外では犬が遠吠え、蚊帳の中には蚊が一匹、貴司の耳元でしつこく羽音を立てる。
江戸の夜は、静かで、うるさい。
「スマホ……あったら、YouTube流して寝れんのに……」
そうつぶやいて、思わず笑ってしまった。いや、笑うしかなかった。電気もガスもない。トイレは汲み取り、風呂は薪で焚く五右衛門風呂。飲み水は井戸。おまけにWi-Fiどころか、時計すらない。
「マジで、いつまでこんなとこに……」
言葉を飲み込んだ、そのときだった。
――カン! カン! カン!
「火事だァーッ! 火事だァアア!」
突然、夜の静けさを裂くように、半鐘の音と男の怒鳴り声が響いた。数秒後には、別の場所からも同じように鐘が鳴りはじめ、長屋のあちこちで戸が開き、人々が慌ただしく走り出す音が重なっていく。
貴司は布団から跳ね起きた。
「……え、マジで火事?」
起きたばかりの目に、遠くでちらちらと赤くゆらぐ光が映った。思わず縁側に出て、首を伸ばす。裏手の屋根の向こうに、火の粉が舞っていた。
「おい、貴司!」
背後から、博志が手ぬぐいを頭に巻きながら飛び出してきた。すでに上半身は裸。肩にかけた晒が、やけに頼もしく見える。
「ぼさっとしてんな、桶持って来い! 火が回ったら、この長屋まで燃えちまうぞ!」
「お、桶……!? ど、どこに?」
「井戸だ! なんも考えず、並んで運べ!」
博志の怒鳴り声に背中を押され、貴司も思わず駆け出していた。足元は草履のまま、夜の土道を駆け抜ける。周囲では、女たちが子どもを抱え、男たちが火消しのまといを掲げて走り回っていた。
火の粉が空に舞い、夜が赤く照らされる。
井戸の周りにはすでに人だかりができていた。桶に水を汲む者、それを手渡しでリレーする者、空いた桶を戻す者。
「はい、兄ちゃんこれ! 運びな!」
知らない男に桶を手渡され、貴司は思わず手を取った。重い。ずっしりと水が入った木の桶は、片手ではバランスが取れない。服はすぐにびしょ濡れ。だけど、誰も気にしていない。
「早く! 火が回る!」
「そこの兄さん、あんた若いんだから前に回れ!」
怒号と呼びかけが交錯する中、貴司はただひたすら、桶を抱えて走った。
火の手は、裏手の材木置き場から出たらしい。
細い路地に挟まれた長屋の並びを風が煽る。瞬く間に火は屋根を伝い、家財を呑み込んでいった。だが、町火消しと近所の人々の連携で、なんとか隣の棟を焼く前に鎮火へと持ち込めた。
──今夜、何人が寝床を失ったんだろうか。
貴司は、ぬかるんだ地面に膝をつき、まだ熱の残る桶を脇に置いて、火照った息を吐いた。
「おう、貴司。こっちは終わったぞ。お前、無事か?」
博志が泥とすすにまみれた顔で戻ってくる。手拭いは真っ黒になっていて、顔を拭ったところだけが逆に白く浮かんでいた。
「う、うん……なんとか……。すげぇな……博志さん、あんた……」
「おう、なんだよ急に」
「いや、なんつーか……すごかった。水運んで、木引っ張って……江戸の連中、みんなマジで火と戦ってんだな……って」
博志はしばらく黙っていたが、やがて鼻で笑った。
「火ぃなめんなよ。江戸は長屋ばっかで、一軒燃えりゃ十軒消える。こっちじゃ“火事と喧嘩は江戸の華”とか言うが、燃やされたら笑えたもんじゃねぇ」
そう言って、博志は立ち上がると、貴司の肩を軽く叩いた。
「とにかく、お前もよくやったよ。最初にしちゃ上出来だ。……風呂、焚いてやるから待ってろ。バケモンみたいに熱いけどな」
⸻
明け方。
風呂の湯気と、どこからともなく漂ってくる煮炊きの匂いが、長屋の朝を迎えていた。
「はいこれ、洗い桶と洗濯板。井戸端、場所とるからな、手早くやんないと怒られるぞ」
「……わかった」
博志の言葉に半信半疑のまま、貴司は桶と板を抱えて井戸へ向かった。夜通しの火事騒ぎで体はずっしりと重かったが、なぜか目は冴えていた。
井戸端では、すでに何人かの女たちが洗濯を始めていた。井戸の水を汲み、木桶に溜め、洗濯板で衣をこすり、手早くすすぎ、干す。無駄のない動き。掛け声も息が合っている。
「すげぇな……」
自分が使っていたドラム式洗濯機とは、もはや別の生き物のようだ。
貴司も見よう見まねで洗いはじめたが、すぐに手が真っ赤になった。冷たい水。硬い木。繊維のざらつき。
「いたっ……。マジかよ、これで毎日……」
それでも、一度水に手をつけると、なぜか手を止めたくなくなった。汚れが落ちるたびに、きれいになっていく衣が嬉しかった。無心になれる。黙っていられる。
背後から、ふっと声がかかった。
「いい音だねぇ。若い兄ちゃん、板使い慣れてるじゃないか」
「……あ、いや、全然……。はじめてです」
「ふふん、筋がいいよ。手のひらが素直に動いてる」
そう言って笑ったのは、隣で洗っていた年配の女だった。歯が数本抜けていたが、眼差しは優しかった。
⸻
洗濯のあとは、炊き出しの手伝いに呼ばれた。
火事で家を失った人々のために、町内で炊き出しをするらしい。炊事場の前に置かれた大きな羽釜。薪の爆ぜる音。米を研ぐ人、火を焚く人、汁をかき回す人──みんなが分担して動いていた。
「貴司、飯、炊いたことあるか?」
「炊飯器ならあるけど……釜はさすがに」
「ほう。なら覚えろ。江戸じゃ、メシがうまく炊けるやつが一番えらい」
博志は得意げにそう言うと、自分の持ち場へ戻っていった。
薪の火は想像以上に難しかった。強すぎれば焦げ、弱すぎれば芯が残る。炎の加減を見ながら、貴司はなんども釜の中をのぞきこんだ。
やがて──。
炊き上がった白米の香りが、湯気とともに立ちのぼった。
「……うまそう……!」
久しぶりに嗅ぐ、炊きたての香り。それはどこか懐かしく、胸の奥を締めつけるようだった。
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