第8話 長い夜と博志と貴司
長屋の空が、茜から鈍い鼠色に変わっていく。
かまどの煙が鼻に残る。人の声、井戸の音、子供の泣き声。
夕方という時間帯が、どこよりも“生々しい”のがこの世界だった。
貴司は、昼からほとんど口をきいていない。
何かをする気にもなれず、誰とも馴染めず、茂吉に言われるままに裏手の井戸の水を汲んではこぼし、竹箒で土間を掃くふりをしては手を止めていた。
「おい貴司、また飯こぼしてるぞ」
声をかけられても、返事はしなかった。
五右衛門風呂は、貴司にはまだ恐ろしくて入る気になれなかった。
火を焚く音、湯がグラグラと煮え立つ音、それを手桶で汲んで浴びるなど、想像するだけで気が滅入る。
洗濯なんて当然手洗いだ。桶に冷たい水を張り、ごしごしと晒し布をこするたびに、手が切れそうに痛む。
濡れた指の先がふやけ、皮がめくれかけている。
(こんな生活、いつまで……)
畳に膝を抱えて、貴司は独りつぶやいた。
iPhoneもない。イヤホンもない。コンビニも、カフェも、エアコンも――「自分」という“枠”を形作っていた全てがない。
どこまでも、自分は「余所者」だと思い知らされる。
やがて、夜の帳が下りる。
小さな行燈に灯が入り、茂吉が味噌の香りの立つ鍋を囲炉裏にかける。
「お前、何も食ってねえだろ。無理すんな、腹は減るもんだ」
茂吉がそう言って、碗を差し出してくる。
素朴な麦飯と、野菜の煮物。だが、ありがたさを感じるには、貴司の心はまだ追いつけない。
「……ごめん、ちょっと横になるわ」
蚊帳もない布団にうずくまり、貴司は目を閉じた。
眠気なんか来やしない。ただ、目を閉じることで現実を見ずに済むと思いたかった。
――がらり。
玄関が開く音がして、風が少し入った。木の香りが混じっていた。
「ただいま」
低い声。聞き覚えのある口調。
貴司が薄目を開けると、博志が腰に手ぬぐいをぶら下げたまま、土間に立っていた。
鉋屑が肩に少し乗っている。手は泥と木屑で真っ黒だ。
だけど、その顔は……なんだか晴れて見えた。
「……おかえり」
茂吉が煮物をよそいながら笑う。
「どうだった、現場。あの棟梁、ちょっと口うるさいだろ?」
「まあな。でも……」
博志は、苦笑いをしながら頭をかいた。
「……意外と、やれる。体が覚えてんだ。鉋の引き方も、鑿の角度も。……木の匂いもな」
「ふうん……すげえじゃん、博志さん」
貴司が、寝転んだままぽつりと呟いた。
博志はその声に気づいたように、ちらりと顔を向ける。
ほんの一瞬、貴司と目が合った。だが、そのまま視線を戻し、鍋の前に腰を下ろした。
「……風呂、あとにすっか。腰にきてる。やっぱ年だな」
「はは、言うほど変わんねえだろ、俺ら」
そんな笑い声を聞きながら、貴司はまた目を閉じた。
(なんで、俺だけ……)
声に出さなかった。でも心の中では、そう何度も叫んでいた。
博志が馴染んでいく音が、夜の静けさの中でよく聞こえた。
まるで、自分ひとりだけが別の場所に取り残されたような気分だった。
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