第5話 博志と貴司、対照的な再スタート
「なんでっすかこれ! 電波ねえし、アプリも動かねえし! ログアウトもできねえし!」
茂吉の長屋に転がり込むなり、久田貴司は叫び散らしていた。
「おい、声がでけぇ。裏の婆さんが耳遠いからって油断すんな、木戸番が来るぞ」
「そんなこと言われても、意味わかんないっすよ……てか、博志さん、なんであんたここにいるんすか?」
俺は囲炉裏の灰をかき回しながら、肩をすくめた。
「目が覚めたらここにいた。状況はお前と同じだ。誰にも理由はわからねぇ。けどな――」
俺は貴司の首筋を指差した。
「さっきからずっとそこ、蚊に刺されてんぞ」
「……うそでしょ……リアルで?」
貴司が手でばちんと叩いた。
「いてっ! うわっ、潰れてる……なんで俺、VRで蚊に刺されてんすか!?」
「言ってる意味がもうバグってんだよ」
貴司は完全にパニックだった。足元は裸足のまま、現代の靴をどこかで落としてきたらしい。左手には使えないスマホを握ったまま、何度も画面をスワイプしている。
「Wi-Fiない、充電もない、しかも飯が“お粥だけ”って何ですかこの世界!」
「ここは、令和じゃない。江戸だ。覚悟しろ」
「江戸っすか!? え? 幕府あるとこっすよね? え? 今って西暦何年なんすか!?」
「そんなもん、俺が知りたい。けど少なくとも、電気もガスもねえ。冷蔵庫もコンビニも、ゲームも――もう、ねえんだよ」
貴司は肩を落とし、灰だらけの板の間にぺたりと座り込んだ。
「無理……俺、死ぬ……」
「そんなこと言ってても腹は減る。ほれ」
俺は先ほど茂吉が分けてくれた握り飯の残りを手渡した。
貴司は一瞬ためらったが、やがて黙ってそれをかじった。
「……うまい」
「だろ。なんだかんだ、米は裏切らねぇ」
その瞬間、外で物売りの声が響いた。
「いーしやーきいもぉ! ほっくり甘い、おいもだよ!」
「え? 焼き芋売ってる……?」
「驚くのはまだ早え。あれはリアルに芋を炭火で焼いてるやつだ。しかも女が担いでる」
俺たちは長屋の戸口から外をのぞいた。
腰の曲がった老婆が天秤棒をかつぎ、籠に入った芋を並べて歩いている。手ぬぐいを額に巻き、素足で土の上を歩く姿は、映画やドラマのそれよりも、ずっと生々しく現実味を帯びていた。
「やっべえ……この世界、本当に江戸なんだ……」
「そうだよ。だから、覚悟決めろ」
貴司は、芋売りの老婆とすれ違う子供たちの姿をしばらく無言で見ていた。
着物の裾を引きずりながら走る子ども。腰にひもで結んだだけの草履。魚の匂いと、味噌と、土の湿気が混ざったような風が吹いてくる。
「……俺、明日からどうすりゃいいんすかね」
「とりあえず、茂吉の言うこと聞いとけ。江戸で生き抜くには、信用が何よりの財産だ」
「信用……課金じゃ買えないやつっすね」
「そういうこった」
しばらくの沈黙。
外では夕餉の支度が始まり、どこかの家から味噌の煮える匂いと、薪がはぜる音が聞こえてくる。
やがて貴司は、小さくつぶやいた。
「俺、何もできねぇっすよ、博志さん。飯も炊けないし、釘も打てない。戦うスキルもねぇ。得意なのは、ゲームのエイムくらいっす……」
「それでも、生きろ。生きてりゃ、どうにかなる。現代でも、江戸でもな」
俺は、そう言い切った。
言い聞かせるように。
俺自身に対しても。
貴司がこの世界で何をやれるのかは、正直わからない。
けれど、転がるように始まった江戸での生活は、もう戻れない現実なのだ。
長屋の空に、火色の夕焼けが広がっていた。
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