第3話 江戸の空気を歩く
茂吉の後ろを、ただついて歩く。
土埃の立つ道を、わら草履の音がぺたぺたと鳴っている。俺の足元はスニーカー。だが、異物なのは靴だけじゃない。
すべてが違う。空気の匂い、音、流れていく人々の目つき、歩幅。
そのすべてに、理由がありそうで――俺は理由を知らない。
「……魚、ですか?」
「へい、いい鰯だよ! 煮つけにゃちょうどいいぜ!」
そう叫ぶ行商の女の声が響く。木桶の中で、小さな銀色の魚が跳ねている。
その横では、子どもたちが手ぬぐい一枚で水遊びをしている。
「朝っぱらから賑やかだろ? これでもまだ静かな方さ。祭りともなりゃ、こんなもんじゃねえ」
茂吉はそう言いながら、手を後ろに組んで歩いていく。
まるで、庭を案内するように。
「にしても、あんた変わってんな。名前は? どこから来たって?」
「……中島。中島博志。こっちには……来たばっかりで」
「博志か。へえ、なんだか役人みてえな名前だな。いや、侍の線もあるか? でも頭は坊主で――おめえ、牢から出てきたって線はどうだ?」
「いや……そうじゃない」
「そうかい。まあ、訳ありには訳ありなりの生き方があるさ。江戸は狭いようで広い。生きようと思えば、どっかにゃ潜り込めるもんだ」
茂吉はそう言って、小さな橋のたもとで足を止めた。
下を覗くと、川。神田川か。水は濁ってはいるが、ごみひとつ浮いていない。
「さあ、長屋はもうすぐだ。おめえが寝てた空き地の裏手にゃ、うちの隣がちょうど空いてる」
「……え?」
「住むとこねぇんだろ? ひとまず屋根のあるとこで寝な。飯は、まあ、しばらくは俺がなんとかしてやる」
俺は思わず、彼の顔を見た。
どうしてそこまでしてくれるのか――わからない。
「そんなに困ってる顔してる奴を、ほっとけるほど達者な性分じゃねえんだよ。ま、江戸にはそういう奴も少なくねえ」
茂吉の声は、からりとしていた。湿気も、重みもない。
けれどその言葉は、喉の奥に引っかかったまま、うまく返せなかった。
そのまま角を曲がると、長屋が見えた。
くすんだ土壁。木の柵。ほうきで掃く婆さんの背中。洗い桶の音。味噌の匂い。
――リアルだ。あまりにも、生々しい。
「おーい、茂吉のとこ、また変なの拾ったのかい?」
「へい、今度のはなかなかの拾いもんでね!」
どこか陽気にそう答える茂吉の声を聞きながら、
俺は、自分の置かれた場所をようやく少しだけ理解し始めていた。
俺はもう、戻れない。
ここで、生きなきゃならない――。
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