第12話 神坂優人の両面価値
千梅先輩の手は氷のように冷たかったが、足取りは想定よりもしっかりしていた。次の一歩でアスファルトの路面に降りるというタイミングで、伊奈瀬は千梅先輩に耳打ちする。
「いい? 車を降りた瞬間にオレ、声出すから。びっくりしないで全力で走って。少しでも車から遠ざかる。オーケー?」
千梅先輩は頷いた。伊奈瀬も頷き返し、慎重に千梅先輩の手を引く。千梅先輩の足がアスファルトについた瞬間、伊奈瀬も車とは反対の方向に足先を向け、力強く地面を蹴った。
「やれ! 神坂!」
伊奈瀬は鋭く叫び、爆風に呑まれる覚悟を決めた。神坂が伊奈瀬の存在に気づいているのかは、正直知らない。伊奈瀬が神坂の姿を捉えた時には、神坂は既に運転手と素手対拳銃の圧倒的劣勢の格闘に全神経を注いでいたし、拳銃を奪った直後には爆弾の起爆装置を出されていた。まるで居合いかガンマンの決闘の速さだ。隠れながらリムジンに向かって進む伊奈瀬に気づく暇があったとは考えにくい。
だが、一方で信頼もしていた。神坂なら伊奈瀬の気配を察しているだろう、という根拠のない信頼もあったが、そうでなくても、少なくともこの声が伊奈瀬のものだということは瞬時に理解してくれるだろう。そこからの判断力、瞬発力勝負なら、神坂は負けない。
車を飛び出す千梅先輩の背中に手を添え、学校敷地内の芝生に向かってダイブする。背中を灼く爆風や突き刺さるガラスの破片はなく、代わりに控えめな銃声が一発、鳴った。意表を突かれた柳の呻き声が聞こえ、続いて素早い衣擦れの音が生じると、静寂が訪れた。
やがて、はあ、はあ、と荒い息遣いが数回、後方で聞こえた。伊奈瀬はゆっくりと立ち上がり、車の前方に回り込む。
そこにはスーツを着た男の死体と、車にもたれて座り込んだ神坂がいた。
「見んな。馬鹿」
うんざりしたような強い口調で、神坂が言った。
「死体なんか見るもんじゃねぇんだよ、ただの高校生が」
「ただの高校生じゃない。そのうち医者になる高校生」
伊奈瀬は怯まず言い返した。
「医学生になったら解剖実習もあるでしょ。人の遺体だって嫌でも見ることになる。遅いか早いかの問題だし、それだって誤差だよ。オレ現役で合格するもん」
「嫌な奴だな、相変わらず」
鼻で笑ってこちらを見上げた神坂の瞳が、大きく獰猛に輝いていた。死闘の余韻が抜けていないらしい。伊奈瀬は一瞬圧倒され、息を呑む。
いつか本人が言っていたように、確かに神坂は言うほどまともな人間ではないのかもしれない。殺人を嫌悪する倫理観と命尽きるまでの殺し合いに充足を感じる原始的な欲求は、容易に両立しうるのだ。そして目の前の男には、才能がある。戦場のスリルを愉しみながら的確に人を屠る、殺人者としての才能。こいつが真に満足する瞬間は、深い闇の中にしか存在しない。
「でも、解剖実習でも流石に首の折れた死体は出てこないんじゃないか?」
神坂が路上を顎で示して言った。柳──正確には柳の変装をした別人の殺し屋だろうが──の死体は、頭部が変な方向を向いて地面に横たわっていた。頭にも胸にも、穴は空いていない。柳の手から離れて投げ出された起爆装置のど真ん中が撃ち抜かれている。伊奈瀬が千梅先輩を連れ出した直後に起爆装置を撃ち、驚いた柳の首を素手で折った、ということか。
「なんで本人撃たなかったの。それに、ペンも使ってない」
伊奈瀬は自分の制服の胸ポケットを指し示し、尋ねた。神坂の胸元には、伊奈瀬への脅しに使った手帳用のペンが挿さったままだ。いくら拳銃相手とはいえ、徒手空拳よりはいくらでも武器になるものを使ったほうがいい。
「そういう指示なんだよ。『血を流すな』。後処理が面倒になるからな。休日とはいえ学校には人の目があるし、俺たちみたいな部活の生徒もいる。撤収作業に時間をかけられない」
「何だよそのトンデモオーダー」
伊奈瀬は眉をひそめた。素人相手の仕事で、標的の身体を傷つけずに殺せ、ならまだわかるが、今日の神坂の相手は素人ではなくプロの殺し屋だ。然るべき武器や手段を使わなかった結果、本来だったら殺せた相手に返り討ちにされ、神坂が命を落とす可能性だって決して低くはないだろう。そして神坂が怪我をしたり命を落としたりすることによって、現場に多くの血が付着する場合もあるはずだ。
「縛りプレイの強要とか、普通にカスハラじゃねぇの。それとも職場からのパワハラ?」
「仮にそうだとして、どこに訴えたら勝てると思う? それに、別に絶対条件じゃないからな。指示を忠実に守ったほうがいい評価を受けられる。うちは業界じゃ有名企業を名乗れる立場だし、福利厚生もそれなりに手厚いんだよ。トンデモだろうが従い得なんだ」
「産休育休寿退社は認めなかったくせにねぇ〜。笑えるわ」
「……お前、この際弁護士とかになったらどうなんだ? お前みたいな執念深いのは重宝されそうだ」
思わず口を歪めて毒を吐いた伊奈瀬を、神坂が呆れた様子で見上げた。
「えぇ、やだよ。神坂が起訴された時点でほぼ負けじゃん。捕まんなよ」
「はっ、そうだな」
神坂は薄く笑ってそう答えた。そういえば、医学を学ぶのに一番いい大学に行って外科医になる、とは伝えていたが、理由までは伏せていたなとふと思い出した。今ので大方察されたかもしれない。伊奈瀬は遅ればせながら口を噤んだ。
会話が途切れたのを契機と見たか、神坂はポケットから携帯を出してメッセージに何かを打ち込んだ。十中八九業務連絡だからと伊奈瀬は目を逸らしたが、その携帯の機種が、伊奈瀬に連絡先を教えた時に出したものと違うことだけはばっちり見て気づいてしまった。……その番号を知っているのは、彼にとってどんな立ち位置の人間なのだろう。
「伊奈瀬」
呼ばれ、伊奈瀬は視線を戻した。見慣れない機種を既に仕舞ったらしい神坂の両手は何も持たず、中空に伸ばされていた。
「ん」
言葉があまりにも少ない、でも何かを要求されていることは伝わる発声だった。甘えるような、角のない。
「ん?」
「何だよ、お嬢様の手は引いたのに俺の手は引いてくれないのか?」
神坂は揶揄うように言った。悪い笑顔で。伊奈瀬は慌てて神坂の正面に回り込み、その手を握って引っ張り上げた。
次の瞬間には、伊奈瀬の身体に質量が乗っていた。立ち上がった勢いそのままに、神坂が伊奈瀬に向かって倒れ込んできたのだ。「え?」と思ったままが口から出る。
まさか見えないところに傷でも負っているんじゃないだろうなと両手で背中を探ろうとした折、自分の背中にも同様に相手の腕が回されていることに気づいた。意識は消失していない。力も問題なく入っている。数秒の狼狽の後、ようやくそれがハグであるとわかった。
花の香りが、近い。
「助かった。ありがとな」
その声は、伊奈瀬の耳元で発されてなお小さかった。背中を二度、健闘を讃えるように力強く叩くと、神坂は何事もなかったかのように手を離して伊奈瀬の横を通り、自分の足ですたすたと校門に向かって歩いて行く。伊奈瀬はそれを呆然と見送る。
礼なんて、言われる予定じゃなかった。伊奈瀬は神坂の友人であって共犯ではない。共犯であってはならない。誰よりも神坂がそれを望んでいるからこそ、伊奈瀬は「仕事をしている神坂優人」の肩を持つような真似をしてはならなかった。彼の仕事に立ち入ったら最後、伊奈瀬は純然たる「表の世界」の人間ではなくなってしまう。それを彼が望まない以上、伊奈瀬はその片棒に指一本触れられない。
その点、今回の伊奈瀬の行動は相当にグレーだった。見て見ぬフリをしてくれることに賭けてはいたが、もう二度とこんなことをするなと強く否定されることを勘定に入れてもいた。神坂優人は仕事に生きる人間だからこそ、職業倫理がしっかりしている。殺人を憎みながら殺し合いに目を輝かせる。自らの手技に誇りを持ちながら、裏よりも表の世界の人々を尊重する。
であるならば、伊奈瀬が今確かに聞いたその言葉は、彼自身のものなのだろう。仕事人間である神坂優人の、人間の部分。神坂が伊奈瀬に対して──あるいは今まで屠ってきた人間、そこに取り残された人々に対して善くあろうと努力したように、伊奈瀬も死んでほしくない友人の力になりたかった。守りたくて手を伸ばした。その気持ち、努力に対する、ささやかな報酬。伊奈瀬にとっては何よりも大きな。
「……ったく、銃なんか撃たせやがって。制服が火薬臭くなるんだよ」
伊奈瀬がやっとのことでその背中に追いつこうとした時、神坂が独り言ちながらポケットから小型のスプレーボトルを取り出し、制服全体に何度も噴霧し始めた。覚えのあるフローラルな香りが、みるみるうちに新鮮に、強く空気中に広がっていく。伊奈瀬は思わず「おい!」と叫んだ。
「やっぱ柔軟剤じゃねぇじゃん! 消臭スプレーならそう言ってもよくない⁉︎」
「『これから銃撃戦が起こるかもしれないから先に香りつけときました』ってか。言うわけないだろ。お前が余計な気を回さないわけがない」
指をさしながら追いついた伊奈瀬は、そこで言葉を詰まらせた。それはそうだ。が、言われなかったら言われなかったで動揺するのだ。たとえダミーでも恋人なんか作られたら友達の地位は二番手以下なのだから。
何か反論を捻り出そうと唸っていると、神坂が声を出して笑った。伊奈瀬が面喰らいつつも抗議の目で隣を睨むと、神坂は破顔したまま伊奈瀬に言った。
「お前、詐欺には気をつけろよ。反応のいい奴は弄び甲斐があるんだから」
それを聞いて、伊奈瀬はとうとう重いため息をついた。あまりにもいい笑顔すぎて、もはや警戒する気も起きない。
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