第11話 飛鳥井千梅の危機と祈り

 飛鳥井千梅は全力で走った。今朝、体調を崩して病院へ運ばれ、そのまま入院することになった祖父が、危篤状態になったという。車は既に校門前に着いているから、どうか部活を早退してお祖父様に会って頂きたい──運転手の柳からそう連絡があったのだ。

 不安はあった。昼休憩の時間、急に対戦校の男子が話しかけてきたかと思えば、その男子生徒はとある会社から派遣されてきた自分のボディガードだと言う。ある筋から入った情報によると、自分の命を狙うプロの殺し屋が、既に身近な人間に変装して機会を窺っている可能性がある、学校にいる間はどうか、身内からどんな連絡があってもそれを信じないでほしい──そんなことを言われた。信じ難かった。自分が命を狙われているということも、自分と大して変わらない年齢の高校生が、殺人犯を迎え撃つなどという危険な仕事をしていることも。

 だから、かもしれない。最終的には柳の言葉を信じてしまった。──お嬢様、この機会を逃せばお祖父様とはもう二度とお会いになれなくなるかもしれません。それでもなお、この柳ではなく初めて会った男の言葉を信用なさるのですか。そう千梅に言って聞かせた柳の声も口調も、到底偽物とは思えなかった。柳には小さい頃から面倒を見てもらった。一緒に遊んでもくれた。固い絆で結ばれた柳の声を、自分が聞き間違えるはずがない。


『むしろその男こそ危険です、お嬢様。旦那様がそのような野蛮な者を、外部から招き入れるとは考えられません。すぐにその男から離れて、この柳の元へ』




「──お嬢様!」

 自分の姿を見とめた柳が、安堵の表情でドアを開けた。


「お待ちしておりました。さあ、お乗りください」


 千梅は一も二もなく車に乗り込む。ドアを閉めようとする柳を見上げ、

「柳、お祖父様の容体は──」


 息が止まった。柳が懐から拳銃を取り出しているところだった。──柳、どうしてそんなものを?


 瞬間、柳は千梅がいるのとは反対の方向に発砲した。パン、と破裂音が千梅の耳に届く。が、想像より大きくない。見ると、柳の銃には丸い筒状のパーツが先端に取り付けられていた。あれは確か、消音器、と言うのではなかったか。小さい頃に学校で流行った刑事ドラマで見たことがある。銃の音を小さくする部品で、犯人側が使っていた──真っ白になった千梅の脳が、変な方向に高速で回転している。今目の前で起きていることが、現実だと思えない。思いたく、ない。


 次の瞬間、柳の身体が開きっぱなしの車のドアに叩きつけられた。野生の猪にでも突進されたように千梅には見えたが、よく見るとそれは体勢を低く保った人間だった。拳銃を持つ柳の手首を掴み、銃口を下向きに押さえつけている。見慣れないベージュ色のブレザー。昼間に話しかけられた、才明学園の生徒だ。


「車から出ろ! 校舎か白亜館! とにかく人のいるところに走れ!」

「お嬢様、騙されてはいけません! この者こそが賊です、どうか柳を信じて車からお出にならないでください、どこから狙われているかわかりません」


 相反する二人の要求が千梅にぶつけられた後、柳は銃を掴まれながらも車のドアと才明生の挟撃から抜け出し、銃を警戒して追い縋った才明生と縺れ合って地面の上を転がった。そこで二人の姿は千梅の視界から消えるが、断続的に人体が殴られるような鈍い音や短い呻き声、発砲音が聞こえ、時折車体が揺れた。極度の恐怖と混乱で千梅の身体はガタガタと震え、その場から動けない。目眩がする、と思えば、千梅はいつの間にか過呼吸を起こしていた。縋りたい気持ちで、柳、と叫んだ。


「助けてよ、柳……こわいよぉ……」


 暴力だらけの外が怖い。千梅は震える身体を抱えて座席の中ほどに移動し、うずくまった。

 こんな柳は知らない。でも、柳が自分を殺そうとするはずがない。……柳は、柳は今、殺し屋から自分を守るために体を張ってくれているのだ。だから、だから──


「あんたの知ってる柳は死んだ! この柳は偽物だ! 早く車から──」

「動くなぁ!」


 車外から聞こえる才明生の声を遮って、野太い男の叫び声がした。少しして、それが柳の声だとわかった。普段の柳は絶対に声を張り上げないから、誰の声だかわからなかったのだ。

 千梅は驚いて顔を上げた。前方のフロントガラス越しに、正対した二人の姿が見える。才明生が柳に向かって、柳から奪い取ったのであろう消音器付きの拳銃を突きつけていた。だが、勝ち誇った表情をしているのは柳だ。柳はリモコンのようなものを高々と掲げ、叫んだ。


「銃を置けクソガキ! 少しでも変な動きを見せたら車に仕掛けた爆弾を起動する。お前の大事なお嬢様が木っ端だ。わかったな」


 嘘──千梅は愕然とした。ただでさえ冷たく震えていた手足からさらに血の気が引き、凍りついたような錯覚に陥る。千梅は才明生のほうをまじまじと見た。才明生は千梅を見ない。


「……どっちが優勢かわかってます? 火浦ひうらさん。俺の射撃の腕なら嫌というほど知ってるでしょう。あんたがリモコンのボタンを押すより先に、俺があんたの頭を、」

「わかったなぁ!」


 柳がリモコンを振りかざし、才明生が怯んだ。苦い表情をし、引き金にかけていない方の手を頭の高さに上げ、ゆっくりとその場にしゃがみ込む。柳の言う通りに、銃を置こうとしているのだ。


 ああ、ごめんなさい、ごめんなさい──千梅はもう遅いとわかっていながら、心の中で才明生に謝罪し、祈った。きっと殺されてしまう。信じてあげられなくてごめんなさい、どうか、柳、神様、あの人を殺さないで──


 その時、コンコン、とドアが鳴った。小石が当たったのかと思うほど小さい音だったが、自然発生したとは思えない連続した音で、千梅はそちらに視線を向けた。


 柳が叩きつけられてからずっと開きっぱなしだったドアの影に隠れて、茶髪の才明生が身を屈めて千梅のことを見ていた。目が合うと、口の前に人差し指を立て、千梅に向かって手を伸ばす。


「柳さん、まだ気づいてないから、静かに。そのままゆっくり、こっちにおいで。車も揺らしちゃダメ。ゆっくり、慎重に。そしたら必ず逃げられるから。大丈夫」


 茶髪の才明生は真剣な眼差しながら、どこか悪戯っぽく笑っていた。千梅を安心させるためだとはわかっているが、この状況で浮かべるにしてはあまりにも自然な笑みで、千梅はしばし、全身の震えを忘れた。すっと呼吸が楽になり、しっかりと力強く、差し伸べられた手を握る。

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