第10話 それぞれの仕事
ピポン、とまた音が鳴る。自分ではない。もはや出どころを探すまでもない。
「アブサン」
「正解です。ゴッホやゴーギャンなど多くの芸術家が愛飲したとされ、その作用から『悪魔の酒』とも呼ばれる、ニガヨモギを主原料としたリキュールの名称は何? 正解はアブサンでした」
「知らねぇ〜。つか未成年に酒の問題出すなよ。これ芸術分野に入んの?」
思わず神坂ぐらいにしか聞こえない声量で小言を洩らす。これで六点目か。
二回戦目のルールは7○3×──七問正解で勝ち抜け、三問不正解で即敗退の長期戦だ。許されるミスは一回戦目と同じ三回だが、ゴールまでの距離が長いぶん、迂闊に間違えると先々の行動に制限がかかる。にも関わらず、既に×を積み重ねて後がなくなっているチームも出てきていた。
原因はわかりきっている。直江部長が強すぎるからだ。
とにかく速い。速い上に守備範囲が広すぎる。もう少し問題を聞いていたら答えられたもの、答えを聞いて納得するものならまだいい方で、伊奈瀬が聞いたところでピンと来ないものさえも涼しい顔で正解していく。助っ人になるためだけに身につけた付け焼き刃の知識では歯が立たないと感じるが、悩んでいるのは伊奈瀬に限った話ではないらしい。圧倒的な実力の差に焦り、直江部長よりも早く解答権を得ることを目的にし始めたチームから順に、失格へと近づいていった。
今の正解で、直江部長率いる白亜三年①チームが決勝進出に王手。続く二位のチームでさえ、正解数はその半分の三問だ。伊奈瀬たち才明③と、染倉たち才明②は二問で並んでいる。
次の問題が、来る。
「問題。世界一深い湖はバイカル湖ですが、にほ」
早押し機のボタンに圧力がかけられる小さな音が、広いホールを一瞬だけ満たした。ピンポン音と同時に問い読みが止まる。多くのチームが一斉にボタンを押していたが、伊奈瀬たちのランプは点滅していなかった。コンマ数秒の差で負けている。
「田沢湖」
直江部長の声がした。一呼吸の無音ののち、正解の電子音が響き渡る。押し負けた他チームの生徒が天を見上げたり腰を反らせたり、各々だが似たような反応を示す。伊奈瀬もそうだ。
「いやー、今のは取れた。悪い」
今の問題の答えは、知識として頭に入れておきやすい部類に入る。日本で一番深い湖、田沢湖。こういったランキング系統の知識は、最低でも一〜三位ぐらいは覚えておきたい内容だ。そして、覚えていることを前提として、最速で問題文の全容を導き出した者が勝者となる。
「世界一深い湖はバイカル湖ですが、に」までなら、「二番目」と続く可能性も「日本一」と続く可能性も同等に存在する。それゆえ、この問題での確定ポイントは「に」の次だった。次の音を聞いた瞬間、あるいはそれよりコンマ何秒か早い刹那の早押し勝負。そこまで理解していながら、押し負けた。確かに天を仰ぐほどの悔しさだ。
「いや、俺こそ悪い」
神坂が低く呟いた。こう言っちゃ何だが、それは本当にそうだ、と伊奈瀬は思う。
直江部長がクイズの猛者であることは確かだが、今の問題の確定ポイントはわかりやすい。神坂ほどの策士が「に」の次が勝負だと理解していないとは到底思えない。ならば、小数点以下の速さの勝負で神坂が負けるはずは、本来はないのだ。たとえ直江部長がクイズと一緒に剣道を極めていようとも。一瞬の判断の遅れで命を取られるスポーツはない。
伊奈瀬はそっと、ホールの出入り口付近に視線を遣った。天を仰いでも腰を反らせてもいない神坂の、視線の先。
──飛鳥井千梅。千梅先輩。
それ以前からも一回戦目ほどの集中力は発揮していなかった印象だが、違和感程度に思っていたものがはっきりとした確信に変わったのは、直江部長が悪魔の酒の名前を答えてから田沢湖の問題が読み上げられるまでの間だった。観客席の前列に座って二回戦の行方を見守っていた千梅先輩が、身を低くして立ち上がった。そのままそそくさと観客席後方まで小走りに移動していき、今いる出入り口付近で立ち止まったのだ。何かを持った手を顔の横に寄せ、口を動かしている姿は、遠目からでも電話とわかった。
そして、問題が読み上げられた。伊奈瀬たちのチームも確定ポイントを理解しボタンを押したが、直江部長には届かなかった。神坂が押し負けた理由は?
そんなの、どんな問題よりも簡単だ。
その時、千梅先輩がホールの扉を押し開けた。泣きそうな、あるいはどこか怯えたような表情を一瞬だけこちらに見せ、外へと走り去っていく。
瞬間、神坂が動揺した。伊奈瀬の背中に置かれたその手の指先に、ほんのわずかな逡巡が走る。……ああもう、イライラさせんなよ、おまえらしくもない。伊奈瀬は舌打ちしそうになるのをこらえ、代わりに唇を噛んだ。
神坂優人は仕事ありきで生きている。伊奈瀬だってそんなことははじめから承知している。
その上で、やっぱ置いて行かれる側なんだよな、と思った。
ぶっちゃけた話、神坂と最も対等に、最も深いところまで結びついているのが自分だという自負が伊奈瀬にはある。だって知と暴力で殺し合った仲だし、同い年だし、同じ高校生だし。それが全て集約されて全てとして接することのできる人間は、たぶん表の世界と裏の世界を引っくるめても自分しかいない。願望かもしれないけれど、願望以上の確信がある。
けれどそれでも、どうしようもなく前提が違う。
住む世界が違う。
「おら、さっさと走れよフィジカル担当。高校生クイズも知らねぇのか」
伊奈瀬は背中に触れていた神坂の手首を取り、自ら引き剥がした。珍しく剥き出しの感情が宿った神坂の瞳が、伊奈瀬を見返す。揺れる眼光を正面から見つめる。
その時、場内では拍手が沸き起こっていた。ここで白亜三年①チームの決勝進出が決定しました。皆様盛大な拍手を──
「……理想は今消えた。オレと染倉はここで決着だ。おまえだってわかってんだろ。オレの仕事はここで染倉と決着をつけること。おまえの仕事は──」
「悪い」
皆まで言うまでもない。掠れた謝罪とともに神坂が伊奈瀬の手から離れると、彼は自分の襟を掴んで口元に素早く引き寄せ、何かを喋った。そして一瞬、その視線が伊奈瀬より後方、舞台下のホールの隅に投げられる。つられて伊奈瀬は首だけで振り返るが、進行役の数名の白亜生と顧問の教師しか伊奈瀬の視界には入らなかった。
そうこうしているうちに神坂は伊奈瀬の指示通り走り出しており、階段を使わず壇上から飛び降りる姿をギリギリ見送った。驚いた観客の小さな悲鳴、異変を察知して徐々に小さくなる拍手、代わりに生じるざわめき。
大きく息を吐き出してから、伊奈瀬は手元のボタンを押した。場違いなピンポン音。場の視線が一斉に突き刺さる。
赤いランプが堂々と点滅している。余裕の一着だ。もしかしたら×がつくかもしれないが、この先一問も落とすつもりはないのでどうでもいい。
「えー、すみません。お騒がせしております」
前屈みにマイクを掴み、喉の調子を確かめるように、伊奈瀬はゆっくりと声を出した。
「オレの相方が急用だそうで、ここで離脱しますが、試合は続けてもらって構いません。というか、続けてください。今からオレが一人で全員蹴散らすんで、解答者の皆様におかれましてはそのつもりで」
マイクから顔を離し、伊奈瀬は横を見た。一席挟んだ向こう側で、染倉が驚いた様子でこちらを見ている。目が合ったので、不敵に笑ってやった。
今までさぞや気に食わなかっただろう。一年生の一学期からずっと、染倉の頑張りは同じ教室で見てきた。いつ見ても勉強していた。授業では積極的に発言を行い、グループワークとなれば高確率でまとめ役を引き受けていた。
旧・学年一位。伊奈瀬がそこに立つまでずっと、染倉壱輝は一番だった。
まさかこんな人間に──いかにも軽薄で怠惰そうな人間に、常に余力を持て余して見える締まりのない人間に、あっさりと追い抜かれるなんて夢にも思わなかっただろう。
たとえそれが伊奈瀬渾身の「擬態」であったとしても。特定の他者に追い抜いてもらうための気遣いだったとしても。
事情を知らない染倉からしたら、努力を何一つ知らない天才がちょっとした気まぐれで一位を取ったようにしか見えないのだろう。そんなの、理不尽以外の何物でもない。
だが、今の伊奈瀬は本気だ。本気で医師を志し、本気でクイズをやっている。
でも、完璧に作り上げたこの仮面を外すつもりは、残念ながら、ない。だって、何事にもストイックで生真面目なかつての伊奈瀬針羅に戻ってしまったら、神坂とキャラが被るから。凸凹コンビが最強と相場が決まっているのなら、伊奈瀬は神坂優人と対をなす存在で居続けてみせる。
伊奈瀬針羅はチャラくて無気力ぶってて軽口ばかりのクソ野郎だ。そう思ってくれて構わない。実際そうしているのが一番気楽で心地いい体に、神坂のせいでなってしまっている。けれど、この「伊奈瀬針羅」を本気で全うしているのだということを、染倉にだけは理解させる。絶対に、勝つ。
我に返った司会者が、試合の継続を宣言する。伊奈瀬は解答者席に手をついて、一人で早押し機のボタンを押し込む。息を吸い、薄く、深く吐き出す。
全神経を研ぎ澄ませる。神坂がしていたのと同じように。
「問題」
ところで、伊奈瀬は置いてけぼりの立場で満足するほど大人しくないし無欲でもない。自分が今やっているのは、早押しクイズだ。問題文の途中で答えていいなんて、おれみたいな天才には最高のルールじゃん──いつもテストを最初に解き終わって時間を持て余している伊奈瀬は、舌舐めずりをしてボタンを弾く。
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