第9話 最悪のあだ名

「千梅先輩、どうしたんだろうね」


 全ブロックの一回戦が終了し、昼休憩に入っていた。トイレから出てホワイエに戻ってきた伊奈瀬は、扉の前で話し込んでいる白亜生の声に気づいた。


 千梅先輩──三年生で副部長の飛鳥井千梅。おそらくは、神坂が命を狙っている人物だ。運転手付きのリムジンに乗って学校に来るぐらいだから、相当に資産力のある家柄なのだろう。そう考えると、何らかの事情で命を狙われてもおかしい話ではないのか。


「なんか調子悪そうだよね。一回戦でもほとんど押し負けてたし」

「ね。相当だよ。千梅先輩が初戦で負けるとか──」

「その千梅先輩って、副部長の人だよね? ほんとは実力のある人なんだ?」

「わっ」

 伊奈瀬が話しかけると、白亜生たちが驚いて振り返った。

「あ、才明学園の──」

「伊奈瀬です。伊奈瀬針羅。二年生」

「えっ! もしかして、冊子掲載者の伊奈瀬さんですか⁉︎」


 ただ名乗っただけなのに、白亜生の一人が過剰なほどに食いついた。当の伊奈瀬は全く心当たりがなく、「さっし……?」と間抜けなおうむ返しをする。


「模試の冊子ですよ! A判定とか、上位何名とか選ばれた人だけが名前載るやつです! 私の通ってる塾、生徒のモチベ維持のためにそういうの閲覧自由になってて、つい見ちゃうんですよ。成績上位者とか憧れるから、上の人は特に名前覚えてて」

「あっ、なるほどね……」


 いかにも「なぜ初対面のはずの自分のことを知っているのか」という疑問を解消した風に頷いているが、伊奈瀬は「冊子」という文化そのものを知らなかった。言われてみれば面談の時にそういう形状のものを渡されているような気もする。


「ってことは、もしかしてペアの方も有名だったりするんですか? すごく息ぴったりでしたよね」

「ああいや、あいつは数合わせの助っ人で……」

「ああ、あの暗殺者のイケメン!」

「そうそう!」


 もう一人の白亜生が滅多なことを言い出したので、伊奈瀬は危うく叫びそうになった。しかも既に共通認識と化しているらしく、白亜生二人で顔を見合わせてうんうんと頷き合っている。


「暗殺者って……」


 その呼び方は、流石に神坂優人の本質すぎる。伊奈瀬はつい顔を引きつらせた。


 一回戦Aブロックの試合のことだ。「水で薄めたトマトソースとともにフライパンで直接乾麺を調理するのが特徴のスパゲッティ料理で、その食感から『おこげパスタ』とも呼ばれるイタリア発祥の料理を日本語で何と言う?」という問題が出た。伊奈瀬たち才明③チームが二回戦進出を果たした記念すべき問題なのだが、そのウイニングアンサーたる五問目の答えだけは、伊奈瀬にはわからなかったのだ。にも関わらず早押し機の音が鳴り、見ると自分の席のランプが点滅していたものだから焦った。ランプが点いた以上は何か答えねばと必死で頭を回転させていた折、神坂がマイクに向かって答えたのが「暗殺者のパスタ」だ。正解だった。


 それまで全ての解答を伊奈瀬が行っていたから、その一言で初めて神坂の声を聞いたという生徒も大勢いたはずだ。勝利を決めた一問だったことも相まって、強く印象に残っているのだろう。当の神坂は「同業者には詳しくないとな」としたり顔で伊奈瀬に向かってハイタッチの手を差し出してきたが、無論、マイクに乗るような声量ではない。


「格好いいですよねぇ。イケメンだしイケボだしって、みんなで盛り上がってますよ。やっぱり彼女とかいるんですかね?」

「あー……まあ、いるんじゃない? あんま知らんけど」


 その立場に相当する椅子には仕事さんが座っている。伊奈瀬が勝手を言っても許される範囲の方便だろう。

 とはいえ伊奈瀬の歯切れが悪くなったのを察したか、冊子マニアの白亜生が話を戻した。


「そういえば、千梅先輩に何かご用でしたか?」

「あーいや、直接の用ってわけじゃないんだけど、あの人普段は強かったんだなって。なんか登場の時から遅刻……ってほどじゃないけど、ちょっとイレギュラーな出会い方だったし、もしかしておっとりしたタイプの人なのかなって思っちゃって。でもそういうわけじゃないんだ?」

「いえ、普段はすごくしっかりした方ですよ。成績もよくて、それこそ冊子にもしょっちゅう名前が載るくらいで。あ、でも、直江先輩ほど厳しくはなくて……なんていうのかな、直江先輩がお父さんなら、千梅先輩はお母さんかお姉ちゃんみたいな感じっていうか。優しくてマイペースに見えるけど、裏ではしっかり部全体のことを支えてる、みたいな。もちろんクイズも強いです。直江先輩といつも競り合って、切磋琢磨してて」


 その直江部長がほぼストレートで二回戦進出を果たしていることを考えると、確かに千梅先輩も相当の強者つわものと言える。


「今日、急にだよね。なんか顔色もいつもより悪いし。ちょっと心配」

「ね。あんまり大変なことじゃないといいんだけど」

「ふーん……」


 プロの殺し屋に命を狙われることは「大変なこと」に違いないが、事前にそのことが標的に知れているとも考えにくい。


「あ、ゴメンね、なんか急に話割り込んじゃって。色々聞かせてくれてありがと」

「いえ。二回戦も頑張ってください。私たちは落ちちゃったけど、応援してます」

「じゃあ、二人のぶんも頑張んなきゃね。応援ありがと〜」


 白亜生二人に手を振り、ホールの中に入る。特に席順を決められたわけではないが、荷物を置いてしまっているため、さっきまで自分が座っていた席に腰を下ろした。

 なんとなく見渡した舞台の限りなく袖のほうに、神坂がいた。例の千梅先輩と、何か言葉を交わしている。


 逢瀬だ! と思う。逢瀬の約束を取りつけてやがる。だから今日の神坂は、誰が見ても美形なのだ。人知れずこっそり二人で会う、なんてシチュエーション以上に、暗殺に適した環境はない。本気を出した神坂に迫られて落ちない人間などこの世に存在しないだろうし、手段としてはこの上なく効果的だ。


 伊奈瀬はやり取りの聞こえない二人の様子を眺めながら、ペットボトルの水を取り出して一口含んだ。これだけ立派なホールだが、飲食は特に禁止されていないらしい。昼食もここで摂っていいとアナウンスがあった。そうは言っても、何かいけないことをやっているような気がして味がわからなくなりそうだが。


 すると、神坂が千梅先輩に会釈し、袖に捌けていった。神坂と立ち位置が被っていて完全には見えなかった千梅先輩の顔が、見える。

 青かった。さっと血の気を失わせて、どうしていいかわからないという風に、視線を下のほうで忙しく彷徨わせている。しばらくしてはっと顔を上げ、袖の影へ小走りに消えた。部員か誰かに呼ばれたのか。


 ──殺害予告? まさか。伊奈瀬は首を捻った。殺し屋が標的に殺害予告なんてするはずがない。なら、神坂に二人で会うことを迫られてその顔色に? もっとあり得ない。


「見物料を取ろうか? お客さん」


 気づくと神坂が後ろにいた。前を向いたまま伊奈瀬は苦笑する。


「おまえ気配なさすぎな。もうちょっと足音とか出しなって、オレに近づく時ぐらい」


 神坂が隣の座席を下ろして座るのを横目で見届け、伊奈瀬は再び口を開く。


「で、いくら出せば見せてくれんの? その芝居」

「残念ながら招待制だ。金を積んでも弾かれる奴は弾かれる。逆も然り」


 言いながら神坂は座席の下からスクールバッグを引き出し、中から弁当包みを取り出した。そのまま横にいた伊奈瀬に手渡す。


「ほら、例のブツ」

「言い方悪っ。お母さんに叱られろよ」


 悪態をつきつつも受け取り、伊奈瀬は弁当箱の蓋を開けた。今日のメインは鶏肉の照り焼きらしい。神坂の家では定番のメニューだ。身体を資本にしている彼の家らしいチョイスと言えるし、家族への愛情が感じられるから伊奈瀬はこの料理が好きだった。他者の栄養を考えて料理するって、そう簡単にできることじゃない。


「いただきます」

 と手を合わせ、早速一切れ口に運ぶ。すると、少しの違和感を覚えた。


「……味付け変えた?」


 すると、神坂が心底面倒くさそうに大きく息を吸い、ヘッドレストに後頭部を預けた。


「ロクなもん食ってないくせに舌もいいのかよ、金持ちのぼんぼんは。引くな」

「はぁ⁉︎ 生まれで人判断すんのはマナー違反だろ! 確かに昔は多少いいもんも食ってたけどさあ!」


 思わず脊髄反射で反論してしまったが、論点がずれると思い、ひとまず矛を収めた。


「……実際変えたんじゃん。その言い草ならさ」

「レシピは同じだ」


 神坂の返事は言葉少なだった。こういう時の神坂は案外嘘は言っていないので、こちらが言葉の外を推測して埋めてやればいい。……味は確実に変わった。だがレシピは変わっていない。ほかに変わりようのあるものは。


「……え? 作った?」

 思わず隣の男を指さした。

「なんで?」

「嫌なら食わなくていいぞ。購買なら開いてるらしいし残りは俺が食うから」

「嫌とか一言も言ってねぇじゃん! むしろ好きだから! ちゃんと美味いから卑下すんなよ」

「卑下とかじゃねぇよ」

「はいはいはいはいわかりました〜。……だからオレが気になってんのは理由なんだって。神坂が作ってくれたのは嬉しいし普通にビビってるけど、神坂のお母さんが調子悪くなったからとかだと素直に喜べないだろって話!」


 すると、神坂が大仰にため息をついた。


「……びっくりだな。善良な人間ってのはそこまで考えるものなのか? 元気に決まってるだろ」

「別に決まってはないと思うけどな」


 ともかく、これで安心して食事ができるというものだ。伊奈瀬は箸を持ち直す。


「……で、なんで?」

「いちいち理由なんかない。ただいつもより外出る時間が遅くて暇だっただけだ」

「あっそう」


 それからしばらく、黙って互いの箸だけが進んだ。ホール内の平和なざわめきは、女子の高い声で満ちている。


「そういやおまえ、仕事大丈夫なの? なんか白亜生の間で暗殺者呼ばわりされてるけど」


 普通に考えたら由々しき事態だ。商業の殺人は死体や事件そのものが闇に葬られ、犯人が特定されないからこそ金銭での取引が成立するのであって、実行役は捜査線上に乗らないことが前提だ。叩けば埃が出る人間だからこそ、普段は埃と無縁であるかのような清潔な身なりをしていなければならない。事実として暗殺者である神坂は、たとえ戯れ程度のあだ名であっても、「暗殺者」という名札を提げるべきでない。プロ意識の塊みたいな彼がそれを理解していないはずもなく、ならば一回戦の最後で神坂が取るべき行動はたぶん、「答えない」ことだった。あの瞬間、誰より早く答えに辿り着いていたとしても、彼は本来ボタンを押すべきでなかった。これからこの学校で死体が出るならなおのこと。


「把握してるし問題もない」


 神坂は短く返事をし、それから笑ってこう続けた。


「それに、違うだろ、伊奈瀬。俺は『暗殺者』じゃなくて『暗殺者のイケメン』なんだよ」

「は、うざ」

 伊奈瀬は鼻で笑った。

「てか耳早くない? オレ結構自信あったんだけど」


 伊奈瀬と違って神坂はずっと千梅先輩のところにいたし、千梅先輩のあの様子を見る限り、イケメンだ何だと他愛ない雑談をしていたとは思えない。


 そこでふと、伊奈瀬は引っかかりを覚えた。今ホールでそれぞれに談笑している白亜生たちは、伊奈瀬と同じように見目の美しい神坂を認識していて、だからこそ「暗殺者のイケメン」などという愛称がまかり通っている。


 ──にも関わらず、千梅先輩殺害のための事前準備を、あんな目立つところでやったのか?


 それは千梅先輩が今後行方不明になったり遺体で見つかったりした時に、神坂に不利に働きはしないだろうか。事件の前に交流戦の相手校の生徒に舞台上で話しかけられていた、あれは確か「暗殺者のイケメン」だった──そんな証言が出れば「暗殺者」の部分はそう簡単に真に受けないとしても、事情聴取の一つぐらいはしたくなるのが警察側の心理だろう。そうでなくても、白亜生の多くがイケメンと持て囃す噂の男子と千梅先輩が話し込んでいる場面を目撃した部員が、千梅先輩に詳細を教えてほしいと迫ることだってあるかもしれない。そうなれば、二人が秘密裏にどこかで会う、という犯行の前提すら揺らぎかねないのではないか。


「……あのさ、神坂──」

「待て。染倉たちが来た。後ろ」


 神坂が前を見たまま早口で言った。表情は既に外行きの穏やかなそれに変わっていて、声色だけが粗雑で低く、ちぐはぐに感じる。

 伊奈瀬は言葉につられて後ろを振り返りそうになり、直前で思いとどまった。この場合、向こうから話しかけられて初めて気づいたということにしておいたほうが自然だ。


「──伊奈瀬、神坂」


 確かに染倉の声だった。満を持して後ろを振り向く。


「おー、お疲れ」

「お疲れさまー。次、二回戦だね」


 畠がのほほんと手を振っている。自分も二回戦に出るというのに、緊張感を欠片も感じさせない。案外大物かもな、と思う。


「ちゃんと準備はしているだろうな。抜かるなよ」

「今度は『負けたら承知しないぞ』じゃないんだ?」


 伊奈瀬はニヤつきながら染倉を見上げた。


「俺たちが君たちを負かすんだ、承知はするさ」


 染倉が自信ありげに眼鏡を押し上げる。


「言うね〜。ボコボコにしてやる」

「別に殴り合うんじゃないんだから」

 一番人を殴り慣れているはずの人間が、いかにもまともそうに苦笑した。

「次は決勝に進む二チームを決める戦いなんだし、お互い決勝進出を目指してベストを尽くすってことでいいんじゃないか」

「まあ、確かにそれが理想ではあるな」


 染倉が頷いた。才明側で二回戦に進出を果たしたのは、ここにいる二チームのみだ。一年生チームは惜しくも敗退した。四問正解のチームが複数並ぶ、素人目にも見応えのある試合だった。


「とか言っちゃって、二回戦抜ける自信ないだけなんじゃないの〜?」

「言ってろ。絶対に勝つ。一位で通過してやる」


 そう言い置いて、染倉たちは去っていった。この空き時間で少しでも多く、クイズの知識に触れておくつもりなのだろう。テスト直前の十分休みみたいなものだ。


「……さて、ようやく本番だな」


 素の声に戻って、神坂が言った。やはり彼は、全てを理解した上で助っ人を引き受けていたらしい。もちろん仕事も控えているはずだが、仕事をする上でクイズを極める必要はない。どころか、不要な知り合いを作る、仕事の準備の時間が減る、といった意味で邪魔だったはずだ。


「神坂、付き合ってくれてありがとう」


 だから、伊奈瀬は言った。


「あと、ごちそうさま。美味しかった。たまにでいいから、また作ってよ」


 神坂の顔は、見なかった。神坂もおそらく、伊奈瀬と同じように舞台の上を眺めていた。


 わずかな無言の間があった。


「そのうちな」

「そのうち、絶対」

「……仕方ないな。わかった、約束してやるよ」


 神坂が根負けして息を吐いた。「よっしゃ、言質げんち〜」と増長した直後、頭をはたかれる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る