第8話 雑念も調和も
壇上は予想通りに暑い。机上に設置された早押し機は、才明学園で使っているものよりもボタンが大きかった。一般的なクイズ番組を見て想像するものに、どちらかと言えば近い。二〜三人で手を添えても問題ないサイズということか。
「ネクタイ、ちゃんとしとけ。擬態も結構だが」
間近で声がし、振り向くと、神坂の手が伸びてきてネクタイの結び目が正しい位置に収まった。神坂が手を動かすたびに、花のような甘い香りが鼻腔をくすぐる。柔軟剤であってたまるかと思う。
何の用途かは知らないが、少なくともいつもと違うこの香りは、今日神坂が仕事で接する誰かのためのものだ。そう思うと、恐ろしいことになんだか裏切られたような気分になってくる。別に神坂が伊奈瀬のものだったことなど一度もないし、神坂は神坂自身のものだ。そして伊奈瀬が心酔する神坂優人は仕事ありきで成立する存在で、仕事をする以上、神坂は仕事を第一に考える。極論、神坂優人は金を払った依頼人のものとも言える。同じ理由から、彼を管理する上司のものと言うこともできるかもしれない。
友達相手にこんな独占欲抱いていいんだっけ? ふと思い、まあ命の恩人だしな、と無理やり思考にピリオドを打った。友達に恋人ができて急に友人関係を疎かにされると寂しくなるって言うし、似たようなものに違いない。
とはいえばつが悪くなって身体ごと目をそらした伊奈瀬の横に、神坂が間を詰めて並んだ。
「まさか緊張してないだろうな、お前。動きが硬いぞ」
「……してねーよ、別に」
誰のせいだと思ってんだ、といっそ喚いてやりたかったが、人前どころか壇上だ。大人しく卓に体重を預け、ボタンに触れた。鳴らない程度に軽く押し込み、感触を確かめる。
「一回戦第一試合の準備が整いました」
直江部長のアナウンスが会場に響き渡った。途端に周囲から雑談のざわめきが消え去り、視線がステージ上に集中する。続いて神坂がボタンの上に指先を置き、より強く、攻めの姿勢で、ボタンを押し込んだ。こいつ胆力すげぇな、と純粋に感心する。彼が踏んできた場数を思う。
「問題」
お決まりの前置きが読まれるのとほぼ同時、神坂の左手が、そっと伊奈瀬の背中に触れた。探るでも叩くでもなくただそこにあり続ける相手の温度に、伊奈瀬の回路が一瞬持って行かれる。その真意を探ることを一番に考えそうになり、反応が遅れた。
ピポン! 知らないところで音が鳴り、知らない女子の声がした。正解の電子音。続く拍手の反響で、しばしホールが満たされる。
「正解です。童話『シンデレラ』において、主人公であるシンデレラにかけられた魔法が解けてしまう時刻は何時でしょう。正解は──」
「お前の仕事はまず、この一回戦を抜けることだ」
顔を寄せ、伊奈瀬にしか聞こえない声量で、神坂が囁いた。
「お前なら難なくこなせる。お前の努力も実力も、全部この目で見たからな。──いいか? お前が正解に辿り着くと感じた瞬間、俺は躊躇なくボタンを押すからな。お前より速く動ける肉体を、今だけお前に貸してやる。だからお前は正解を積め」
「……随分横柄な肉体だこと」
伊奈瀬は思わず苦笑した。まんまと肩の力が抜ける。
「オーケー。あ、でも、エクレアとキャベツは自己判断で押していいよ。おまえアレ異常に速いから」
シュークリームの「シュー」の語源がフランス語でキャベツであることを答えさせる問題と、フランス語で「稲妻」の意として名付けられた、スイーツのエクレアを答えさせる問題が、ほかの問題に比べて数段、神坂は速かった。いずれも頻出する「ベタ問」で競争率が高くなる傾向にあるが、少なくとも才明のクイズ研究部では負けなしだ。
「了解」
問題、と直江部長の声が再び響く。伊奈瀬は自分の呼吸を確かめる。
合っている、と感じる。背中に添えられた体温も花の芳香も、自分のものと思えばただ心地がいいだけだ。
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