第5話 好敵手

 新設されたばかりのせいか、クイズ研究部の部室は狭く、雑然としていた。過去に使っていた空き教室を譲り受けたのだろう、机も教壇も普段の教室と同様に一通り揃っているが、どこか全体的に埃っぽい。何年も前の赤本や学校案内の冊子がロッカーに詰め込まれている。


「伊奈瀬が、神坂は反射神経に優れていると言っていた。最初に少し確かめてみてもいいか」


 部室に入るなり、染倉が神坂に言った。伊奈瀬の心臓が縮み上がる。


「へぇ、伊奈瀬が」


 神坂がゆっくりとこちらを向いた。後で殺される覚悟を固めた伊奈瀬に、神坂が顔を寄せて囁く。


「わかってるじゃないか。殺し屋は一瞬の判断で生死が分かれるからな」


 思っていたのと違う反応を返されて困惑する伊奈瀬をよそに、神坂は部室の隅にスクールバッグを置いて奥へと進んだ。腕を伸ばし、軽くストレッチを始める。


「じゃあ、伊奈瀬のためにも全力でやらせてもらおうかな」


 教卓の前に三台の机を並べ、染倉が手のひら大の黒い箱を一つずつ机に置いた。直方体の広い上面には、人差し指の先が乗る程度の大きさの丸い突起と、それと同じ色のランプが一つずつ、縦に並んでいる。


「これが早押し機。ここのボタンを押して、解答権を得る」


 そう言って染倉が手元のボタンを押すと、クイズ番組で聞き慣れた音が鳴り、ランプが光った。


「問題によっては一瞬の間に何人ものプレイヤーがボタンを押すこともある。だから、一着の人のランプは点滅して、二着以下の人はただの点灯、という風に判別できるようになっている。一着の人にしか解答権は与えられない」

「つまりこの場合、ランプを点滅させた人が一番速くて、勝ちってことだね」


 神坂が言い、染倉が頷いた。


「話が早い」

「じゃあ、僕がみんなの前に立って合図を出すから、音が聞こえたらすぐにボタンを押すってことでどうかな」


 一段高いところから解答者たちを見渡す形で、畠が教壇に上がる。


「適当な秒数でアラームを設定するから、それが鳴るタイミングは僕にしかわからないって感じで。伊奈瀬君もどうぞ」

「あ、オレも?」

「当たり前だ。どれだけ答えがわかっても、ほかのプレイヤーに押し負けたら答えがわからなかったも同然なんだ。慣れておかないと話にならない」

「なるほどねー……」


 いちいち当たりが強いなと辟易しつつ、伊奈瀬も解答者席に回る。右から染倉、神坂、伊奈瀬の順だ。想像していたよりもずっと小さいボタンに指を添え、呼吸を整える。

 隣に立つ神坂の呼吸が、深いと同時に薄かった。出会った日の夜、伊奈瀬が神坂の目論見を暴いた瞬間を彷彿とさせる。本気も本気だ、同じ空気を吸うだけで氷点下の外気に晒されたような心地になる。


「タイマー、いきまーす。はい」


 畠の声が朗々と響いた直後、部室が静寂に包まれた。グラウンドを走る運動部の掛け声や、吹奏楽のパート練習がすぐ近くにさえ聞こえる。


 ピピピ、とアラーム音が静寂を破った。押す。ピポン、というけたたましい電子音がコンマ数秒の枠に殺到した。


 顔を上げる。伊奈瀬の前にある早押し機のランプは、ただ点いているだけだ。点滅ではない。

 そのことを確認し、伊奈瀬は身を乗り出して全員のランプを見ようとした。


「──速いな」


 その時、神坂が低く呟いた。右隣を見ている。

 つまり──その答えに思い至って、伊奈瀬はより低い姿勢で身を乗り出した。


 染倉のランプが、赤く点滅を繰り返している。


「マジ⁉︎ 神坂より速いのかよ」


 伊奈瀬は思わず叫んだ。殺人の英才教育を受けたプロの殺し屋が、一般のクイズマニアに反射神経で負けるなんてことが果たして本当にあり得るのか。

 伊奈瀬は神坂の袖を引いた。小声で耳打ちする。


「なあ、今おまえ、手──」

「抜いてない」


 神坂は笑っていた。口許だけで苦笑し、目は警戒対象を捉えて離さない──面白い、とでも言いたげなその表情。


「やるな、彼。染倉壱輝いつきって言ったか」


 伊奈瀬は衝撃を受けた。その顔を、染倉にもするのか。

 あの日の夜の顔を。他者を脅威と認めた時の、敬意の混じった挑戦的な笑みを。


 だが、確かに神坂優人は職人気質の殺し屋だ。相手に実力があればそれを評価し、自分の全力を以てねじ伏せるのが礼儀だと考えているのだろう。その対象が同業に限った話でないのは、伊奈瀬自身の経験からも知っている。


 相手が敵か標的でない限り、神坂優人は分け隔てなく実直で優しい。だからこそ伊奈瀬は神坂が好きなのだが、裏を返せばどんなに濃密な時間を過ごした仲でも、神坂は伊奈瀬のことを特別扱いしないのだ。これと認めた好敵手に向ける顔を、伊奈瀬の前でも平気でする。伊奈瀬以外の人間にだって。


「──と、まあこういう具合で、」


 染倉が伊奈瀬たちに向き直り、言った。


「実は今のは、ちょっとフェアじゃない」

「は?」

「と、言うと?」


 いつの間にか外行きの仮面をつけ直していた神坂が、伊奈瀬に続いて落ち着いた声音で問う。


「早押し機のボタンを押すだろ? すると、音が鳴ってランプが点く」


 染倉が自分の早押し機を持ち上げ、もう一度ボタンを押した。ピポン、と音が鳴り、赤いランプが点滅しだす。


「でも、押し機のボタンを押し始めてから実際に音が鳴るまでには、実はわずかなラグがある。少し触っただけでボタンが反応しないように、押し機の内部には少し隙間が空いているんだ。これを『遊び』と呼ぶんだけど、競技クイズプレイヤーはここを予め詰めておく。鳴るか鳴らないかのギリギリのところまで事前にボタンを押しておいて、わかった瞬間にトドメを刺すんだ。この技術を『押し込み』と言う」

「つまり」

 伊奈瀬がうんざり気味に口を開く。

「オレたちは今それをやってなかったけど、染倉はやってた。そういうことね」

「そういうことだ」


 ピポン、と隣で音がした。


「本当だ」

 神坂が早押し機を手に持ち、ランプを光らせている。

「押しても鳴らない空間があるな。条件が同じに見えて、実は染倉だけが合法的にフライングしていたと」


 まんまと騙されたな、と、神坂が興味深そうに頷く。プロの詐欺師に師事する身として、この手の話題は面白く感じるのだろう。心なしか目が輝いて見える。


 ともかくとして、幽霊の正体見たり、だ。プロの殺し屋を上回る反応速度を持った普通の高校生など存在しなかった。伊奈瀬は無意識のうちに安堵の息をついている。


「──なるほどな。だいたいわかった」


 伊奈瀬がそう思った矢先、神坂が顔の横で人差し指を立て、染倉と畠に声をかけた。


「もう一回、挑戦させてもらってもいいかな。せっかく教えてもらったんだし、一つぐらい技術を身につけて帰りたい」

「もちろん大歓迎だよ! 少しでも早押しの面白さに目覚めてくれたら、僕たちもプレイヤー冥利に尽きるし。ね、染君」

「ああ。そのまま入部までしてくれると、こっちとしては大助かりなんだけど」


 素直に染倉が頷いた。


「それにしても意外だな。君はもっと、クールな人なんだとばかり」

「こう見えて負けず嫌いなんだ。意外かもしれないけど」


 神坂が少しだけ意地悪く笑う。単に負けが許されない環境にいるだけだろうと口を挟みたくなるが、この場では言えないことなので黙る。





「早押しの基礎的な技術を覚えたなら、あとは本番までにとにかく数を覚える。これに尽きるな」


 染倉が部室後方のロッカーから紙の束を持ってきた。どす、といかにも質量の詰まった音が机の上に生じ、伊奈瀬を早くも辟易させた。骨組みが歪んでガタついた机が、斜めに震える。


「これ全部問題? マジで?」

「これでもほんの一部だ。同じような束ならまだいくらでもあるぞ」


 染倉がロッカーを指さして言う。赤本と学校案内にスペースを奪われ、机にあるものと似たような紙束はロッカーの上に古紙のように積まれていた。


「掃除しな?」

「そのうちな」


 一生しない奴の返事じゃん、と思いつつも、これだけの問題を少しでも多く覚えなければならないなら、時間が惜しいのも頷ける。紙束はノートにまとめたものもあれば、印刷しただけの紙一枚のものもごちゃ混ぜになっていた。伊奈瀬は一番上に乗っていたノートを手に取り、ぱらぱらとめくる。


「うわ、字ばっかじゃん。読む前から読む気失せるんですけど」


 単語カードのように一問一答形式をひたすら捲っていくのならあるいは、と思ったが、そんな無駄の多いノートの使い方をするはずもない。一問に使う幅はせいぜい二行ほどで、それがページに隙間なくひたすら並んでいる。読み切るだけでも相当に時間を使いそうだ。


「伊奈瀬、君本当に勉強できるんだろうな?」

 染倉が怪訝な目で伊奈瀬のことを睨んでくる。

「勉強ができる人間の台詞とはとても思えないんだが」

「できます〜。できるけどヤなものはヤじゃん。点取れようが取れまいがめんどいのに変わりはないっつーか。やらなくていいなら進んでやりはしないだろって感じ」

「ならお前、好きなこととか他にあるのか? 部活にも普段は入っていないんだし、何かに打ち込もうと思えば実現させられるだけの時間はあるだろう」


 隣に座った神坂が言った。染倉の言いつけ通りにちゃんと問題文を読んでいるらしく、その瞳は文字を追って左右に動いていた。指示があったほうが気楽な性分なのか、それともクイズ部の活動に存外乗り気なのか。仕方がないので自分も問題集に目を落とし、しばし考え込む。


「……やばい、オレ勉強しかしてないかも」


 兄が志望大学の医学部に合格して寮暮らしになったため、以前のように夜遅くまで外で時間を潰したり、理不尽な罵倒に晒されたりすることはなくなった。受験生がいなくなって遊ぼうと思えば遊べる環境になったはずだが、家に帰ってやっていることといえば勉強ぐらいしか思いつかない。そもそも家のことを寝泊まりと多少の料理ができる自習室程度にしか考えていなかった。


「ほらな」

 神坂がくくと喉の奥で笑った。

「無趣味だから気が進まなくてもやるんだ、こいつは。きっと大人になっても仕事人間で、仕事に忙殺されながら生きていくんだろうな」

「うわあ、言うねぇ、神坂君」

「俺が何を言ったところで、伊奈瀬は別に傷つかないだろうからね」

「いやいや、ちょっとは意識してよ、オレの人権を」


 なんて口では道化の言葉を発しているが、その通り、神坂には何を言われたって構わなかった。神坂になら殺されたって構わない。仮に傷つくとしたら戦力外通告を言い渡された時なんかになるのかもしれないが、それで傷つく程度なら神坂優人の友達などやれていないだろう。隣に並ぶのに実力が足りないのなら、つければいいだけの話だ。相手が実力主義なら実力を認めさせる。自分の益になる者しか傍に置かないのなら利用価値を身につける。だから伊奈瀬は医者になるし、今の自分はそれが楽しい。

 だから、神坂が伊奈瀬の将来を想像しているという事実に、伊奈瀬は内心で戸惑っていた。この三年間で縁を切るつもりだろうに、そういうのは考えてくれるのか。


「……ていうか、無趣味も仕事人間もわりかしブーメランだろ、おまえ」


 伊奈瀬は照れ隠しに言った。これって外に出したら嫌なラインの情報か? と直後に疑念が駆け巡り、視線だけで横を窺う。


「はは、そうかもね」


 だが、神坂の反応は淡々と伊奈瀬の言葉を受け容れるだけだった。ガードも回避も反撃もないその仕草に、伊奈瀬は逆に焦る。──無趣味、仕事人間。絶対そう。……じゃあ、大人は?


「……つーかさ、さっきから気になってたんだけど、これ何?」


 伊奈瀬は向かいに座っていた染倉と畠に視線を移し、手元の問題文を指さした。話題を変えて、気分を変えたかった。


「ああ、スラッシュか」


 伊奈瀬が示した問題文には、まるで文節で区切るかのように、文の途中に斜めに線が書き込まれていた。ほかの問題文にも同様の印が見受けられるが、古文の授業などで行う作業とは違い、一つの問題文に対して一本しか区切りがない。それに、文節でも単語でもない。



「なぜ山/に登るのか」という質問に対し、「そこに山があるから」と答えた逸話で知られるイギリスの登山家は誰? → ジョージ・マロリー



「これは実際にこの問題が出題された時に、正解者が問題をどこまで聞いてボタンを押したかを示す印だ。つまり、この問題が読み上げられた時、解答者は『なぜ山』まで聞いて『ジョージ・マロリー』という答えを導き出した」

「え、早すぎじゃない? ほぼ勘の速度だろ」

「これはいわゆるベタ問──競技クイズの中では頻出する定番の問題だからっていうのもあるな。でも、問題文を最後まで聞いてから答えようって心づもりなら遅すぎる。ある程度型を覚えていれば、『なぜ山』だけで問題の全体像が見えるし、答えも自ずと出てくる。勉強でもそうだろ。単語と文法を覚えていれば、初めて見る英文でも解読できる。何回も色々な問題を解いて型に慣れれば、どういう時にどの公式を使えば求めたい値が出るのかわかるようになる。数をこなせばこなすほど理想とされる立ち回り方が見えてきて、頭の中で答えを出すまでの時間が短くなる」

「まあ……確かにね……」

「ちなみにこのスラッシュ記号は『確定ポイント』と言って、『ここまで問題文を聞けば答えが一つに絞れる』というタイミングを指している。クイズプレイヤーは問題を聞きながら、この確定ポイントに至るまでにありとあらゆる可能性を挙げては捨てているんだ。いかに早く可能性を最後の一つに絞れるか、それが勝負の要だ」


「……なるほどね。だから記憶力と推察力……」


 伊奈瀬は勧誘に来た時の染倉の言葉を思い出し、呟いた。

 膨大な量の知識や、時には問題文そのものすら頭に保管しておける記憶力。そして、今この瞬間に読まれる問題文を聞きながらその先を予測し、即座に無数の可能性を挙げ、そして削ぎ落とすことのできる推察力。


 染倉が自分に求めた知性とは、これか。


「──いいじゃん。面白い」


 気づけば伊奈瀬は笑みを浮かべていた。さっきまではあれだけ読むのが億劫だった横書きの文字たちが、今はするすると伊奈瀬の目を通して脳へと送り込まれている。


 染倉がどこか緊張した面持ちで伊奈瀬を見、畠はそんな自分たちを安堵の様子で眺めている。神坂もまた、畠と似たような微笑を浮かべて問題集に目を落とした。


 受けて立つ。伊奈瀬は心の中で決意を声に出してみる。

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