第3話 嫌な予感
染倉たちがE組の教室に向かうのを、伊奈瀬は廊下まで見送った。向こうの教室から自分の姿が見えないように立ち位置には気を配ったつもりだが、果たして効果があるのかどうか。
「失礼します。こちらに神坂優人さんは──」
先ほどとは打って変わって折り目正しく神坂の在室を確かめた染倉が、魔物の巣に足を踏み入れていく。伊奈瀬はそれを、かすかにこみ上げてくる笑いを押し殺しながら見守った。
しばらくして、前方の扉が勢いよく開いた。
「よう優等生。お前の差し金だなあの連中は」
やあ伊奈瀬くん、久しぶりだね、ずっと君に会いたかったんだ。
とでも聞こえてきそうな上品な笑みを浮かべて、神坂は確かにそう発音した。こちらに向かって歩きながら片腕を広げ、伊奈瀬の肩にしな垂れかかりながらその腕を絡めてくる。
端から見れば、間違いなく仲のいい友達同士だ。
「殺すぞ」
まさか脅迫されているとは思わない。
伊奈瀬の首──おそらく頚動脈にあたる部分──に、一ミリにも満たないのではと思われる、冷たい点が当たっていた。針の先端にも似た──だがそれにしては痛みがない。限りなく細いが鋭く尖ってはいない何か、ペン先のようなものだと伊奈瀬は類推した。
「待って待って待って。聞いて」
伊奈瀬は小さく両手を挙げて降参のポーズを取った。だが、ペン先はいっこうに離れる気配を見せない。
「何だ」
「オレもさっきまであの二人に絡まれてたの」
だから遅れたし、その遅れた原因を神坂に直接見せようと思ったのだ。神坂なら体良く断ってくれるのではないかという期待も込めて。
「第一何なんだよ、あの連中は」
「才明学園クイズ研究部所属の二年生。オレと同じクラス」
「それはさっき聞いた。本人たちから直接な」
神坂はため息混じりに伊奈瀬を解放した。伊奈瀬と向き合う形で距離を取り、腕を組む。
「全く、空腹の俺を待たせた挙句に藁人形扱いとは、いいご身分だ」
神坂と知り合ってからというもの、伊奈瀬は神坂が持ってきた、神坂の母親手製の弁当を昼食に提供されている。
田町の事件から数日経ったある昼休み、伊奈瀬が購買の列に並んでいたところを前方から人混みに紛れて歩いてきた人間にいきなり無言で腕を取られ、拉致されるように食堂の空いている席に座らされたのが最初だった。神坂は片手に弁当包みを二つ持っていて、そのうちの一つを伊奈瀬の目の前に置いた。
「勘違いするなよ、監視業務だ。うちの母親も、どういうわけかお前のことをいたく気に入っている様子でな」
というのが神坂の言い分だった。次回以降は自分で弁当を取りに来いと言われ、教室まで取りに行くと決まって食堂まで連れ出される。欠席や休み時間の用事等のイレギュラーに備え、連絡先まで交換させられる始末だ。互いを友人と呼ぶための物質的な外堀を、ブルドーザーで急激に埋められていくのを感じた。昼だけとはいえ他人の家に食事の面倒を見てもらうのも気が引け、せめて材料費ぐらいはと申し出たこともあったが、「裏の住人に金なんか握らせるなよ」と笑って一蹴されただけに終わった。
それ以来、伊奈瀬は学校のある日はたいてい神坂と一緒に昼食を摂っている。それでわかったことだが、神坂は甘いもの以外もよく食べる。決してがっついているようには見えないのだが、伊奈瀬が気づいた頃には神坂の弁当箱はしばしば空になっているのだ。その上で彼は「学食行ってくる」とだけ言い残して席を立ち、しばらくした後に大盛りの丼や定食をトレーに載せて帰ってきたりする。伊奈瀬が最初に神坂を見つけた時とは印象が随分違うように感じ、「普通」の芝居はいいのかと遠回しに指摘したこともあったが、
「なんでお前みたいな目立つのと一緒にいる時までセーブしなきゃならない」
と平然と言い放つのみで、行動を変える気はさらさらなさそうだった。それどころか、学校でしか食べられない「学食」というものを今のうちに満喫しておこうという明確な意志さえ感じた。転んでもタダでは起きないのが裏社会で生き抜くコツなのだろう、神坂の柔軟かつ欲望に忠実なその振る舞いを見て、伊奈瀬も自分の才を隠さなくなったところがある。別に自分が気を遣って「目立たない」に合わせる必要はないのだ。こいつはこいつで自分のことはどうにかする。
ともかくとして、そのレベルで食事が好きな人間を「待て」させるのは大罪だ。まして今日は水曜日、E組の時間割で四時間目に体育がある日だ。神坂は体育で行う全ての運動を「流し」と見ている節がある。ようやく身体が温まってメイン(おそらく命のやりとりを前提とした戦闘訓練、ないし本物の戦闘)への期待が高まってきたところで運動自体が中止されるのだから、フラストレーションが溜まるのも当然だろう。水曜日の昼に会う神坂は、誤差単位だが気が短い。何も知らない人の前なら完璧に隠すのだろうが、勝手知ったる伊奈瀬相手にそこまで気を遣う必要はない。そういうわけで、伊奈瀬にとって水曜は若干の厄日だ。
だから、なんで今日だったんだ、と伊奈瀬は思うのだ。よりによってどうして水曜日に勧誘をする。一日でもずれていれば。
「ごめんって。お詫びにエッグタルト奢るから。購買の」
「随分安く見られたな」
神坂が腕を組んだまま笑った。目に殺気が宿っていないので、たぶん甘噛み程度のじゃれつきだ。
「お前にだけ特別に、俺の分給を教えてやろうか」
気にならないと言ったら嘘になる。「遠慮します」
神坂は鼻を鳴らした。それから組んだ腕を解き、手の中に隠れていたシャーペンを制服の胸ポケットに仕舞う。一般的には手帳用とされている、十センチ程度の短いものだった。なるほど、立派な暗殺道具だ。
「──神坂君? スケジュールどうだった?」
その直後、畠たちが教室から出てきた。神坂が外行きの笑顔を向ける。
嫌な予感がした。
「いいよ。大丈夫だった」
「冗談でしょ?」
人を「あの連中」呼ばわりして呪い扱いしていたさっきまでのおまえはどこへ行ったんだ、と思う。仕事はないのか、仕事は。
畠の後ろをついてきた染倉と、目が合った。途端に苦い味が口に広がる。
「本当⁉︎ ありがとう、助かるよ」
「その代わりと言うと何だけど、その詳細を書いたプリント、俺にも後で回してもらっていいかな」
「あ、じゃあもしこれでよければ、今あげるよ」
「それで大丈夫。ありがとう」
神坂が至極スムーズに、畠からプリントを受け取る。白亜女子高等学校競技クイズ部、の字と参加者の一覧が、伊奈瀬の視界の中で踊った。まさか、とは思うが、人前なので口には出せない。
「まさか、伊奈瀬の付き添いってだけで快諾してもらえるとは思わなかった」
染倉が言い、ありがとう、と頭を下げた。
「こちらこそありがたいよ。伊奈瀬といると退屈しないからね。そういう機会が違うクラスの俺に舞い込むのは珍しいし、誘ってもらえて嬉しかった」
神坂が伊奈瀬に一瞬だけ視線を向け、すぐに戻す。
獲物に飢えているようにも見えたし、ざまあみろ、とこちらを嘲笑っているようにも見えた。ぞっとするほど研ぎ澄まされた眼光を、神坂は穏やかに閉じた瞼で覆い隠す。
「ちょうど家の手伝いもなかったことだし、楽しませてもらうよ」
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